第五話「習慣ボーダーライン」
三つ子の魂百まで。というように、
幼い頃に体験した事は後々響くようです。
それでも、勿論、色々体験していく内に変わっていくんですけどね。
そんな中でも変わらないものが、宝物なのかもしれないですね。
カチャ、と少し音を落として扉が開く。靴を脱ぎ、首にかけられたタオルで流れる汗を拭いながらキッチンへ向かい、冷蔵庫をガチャリと開ける。買ってきたものをしまい、代わりに冷やしてあったスポーツドリンクを取り出し、冷蔵庫を閉める。戸棚からコップを出して、ドボドボと注ぐ。少し零れたがそんな細かい事は気にしない。ぐーっと一気に飲み干すと、少し甘味と酸味の効いた味が喉と体の渇きを癒す。もう一杯注いで飲んで、今度は脱衣所へと向かう。あ、と一瞬その足が止まった。
「・・・・ま、いっか。」
出しっ放しになっているペットボトルには、恵は気付かない振りしてそのまま風呂場へと向かった。
□■□
中学高校と一貫して陸上部にいたせいか、基本的に恵は余程の事がなければ毎朝ジョギングをかかさない。というか、走っていないと調子が出ない。通勤もそれを兼ねて走っている。早起きして走って、通勤で走って、仕事で身体を酷使して、お前はどれだけMなんだと蜜に言われたが、そうでもないと思う。簡単に長年の習慣を打ち切れるもんでもないし。
「ふぁー、気持ちいかったー。」
短く切られた髪をタオルで拭きながら、先程出しっ放しにしたペットボトルをしまって、ラップがされたボールを取り出す。同時に、フライパンをコンロに置いて、火をつける。忘れそうだったお玉と皿を取り出して、セット完了。この時点で大体七時少し前。
ぐしぐしと仕上げに荒く髪を拭き、タオルを洗濯機に放り込んできて、油をフライパンに敷く。テフロン製ではなく、昔懐かしの重い鉄製である。暫くしてそこに、お玉で一すくい。くるくる、とお玉の背で丸く広がして、やっぱり今日も何か一つ忘れていたフライ返しを取り出す。少し厚めだが火はすぐ通ってくる。表面が固まってきたかなーという所で裏返し、その間に具材を取り出す。
「えっと、卵にハムとチーズ・・・・・あ、さっき買ってきたサラダ。」
ハムは無かったが、代わりにあった生ハムを使う事にした。いつ何時、これを買ったんだっけ?まぁいいか。それとさっき買ってきたサラダ、トマト一つ、ツナ缶も取り出す。
と、そこでもう一度生地を裏返す。おお、いい色合いだ。卵を一つ割り入れ、そして生ハム、チーズはとろけるタイプの切られているもの。ささっと四隅を折って、蓋をして弱火で暫く置く。
その間にトマトを洗い、取り出したまな板で薄切りにする。残しても面倒なので全部スライスした。小さいまな板は100均で買ってきたものだ。中々どうしてこれが重宝している。
「ちょっと切るだけなら、これの方が片付け楽だもんねー。」
蓋を開けるといい感じにチーズが溶け、卵も黄身が半熟状態。さ、と皿に移しておく。そしてもう一杯生地をお玉ですくう。焼いている間に、黒コショウを荒く引いてかけて、そば粉のガレット、コンプレットの出来上がりだ。修行中、パリで食べて以来恵はかなりこれにはまっている。
「ふんふふーん」
鼻歌交じりにナイフとフォークを出して、テーブルに運ぶ。忘れちゃいけない、牛乳も。そしてまな板と包丁を軽く洗い片付け、生地を裏返す。そこで先程出したツナ缶を開けて、蓋でツナをぎゅうぅっと押さえて油を切る。今度の具材は、ツナ半分、トマト一個、卵、再びとろけるチーズ様様。
四隅を折って蓋をしている間に、皿をもう一枚と小深皿。ツナとマヨネーズを合えて、缶は洗ってえーとこれは不燃物。もう使わない物は洗ってしまう。そこで二枚目上がり、もう一枚は全部生地をいったので大きめになったが、気にしない。焼いている間に二枚目の皿と、買って来たままのグリーンサラダ、合えたツナと残りのトマトをテーブルに。ちょっと焼けるまで一口、熱々じゃないとこの料理の魅力は半減だ。ナイフを入れると、ガレットの端がバリっといい音を立てる。
「うむうむ、中々~。」
半熟の卵も美味い、生ハムの塩加減も良し、解けたチーズは正義だ、そして何より黒コショウの香りがまた。これは朝からトリップ出来そうだ。うーん、こんなものを考えた人は天才じゃなかろうか。ノーベル賞を与えてもいいと恵は思う。
「とと、三枚目三枚目。」
慌てて立ち上がり、三枚目をひっくり返す。もう一枚皿を出そうとして、三枚も朝から皿を洗うのは面倒かな、と考えてさっき二枚目のガレットが乗っている皿を持ってきた。既に結構な洗い物が出ている状態だが、それを指摘する第三者はここにはいない。蜜がいたらきっと怒鳴り飛ばしたところだろうが。
ばふ、と大きくなった三枚目は綺麗に焼かれた二枚目を覆い隠すようにそのまま乗せられた。後で食べるのは自分なので恵は気にしない。フライパンとフライ返しは流し場へ。
再びテーブルに着き、一枚目をじっくりと味わう。終わって、三枚目をその空いた皿に乗っける。二枚目にはテーブルに置いてあるタバスコをかけてみる。うむ、こちらも中々。温められたトマトとツナが良い感じだ。そしてさすが溶けたチーズは良い仕事をする。
ぺろりと二枚目を平らげ、三枚目に手をかける。大きく広がったそれに、合えたツナ、グリーンサラダ、トマトを乗っけて、くるりと巻く。
「・・・・ん!これもいい!ツナマヨは万能だ!」
ばくばくと大口を開けてかぶりつき、ぐーっと牛乳で流し込む。さて、ぐずぐずしてはいられないのでさっさと洗い物を済ます。洗濯は量が少ないので明日に回そ。そう言えば、咲に「洗濯機の中に洗濯物を入れておくな」と言われたなぁと恵は思う。まぁいいや。
「あー、ガレットも店で出したいなぁ。絶対受けるのにさぁ。」
そんなこんなで時間は既に八時数分前。
着替えて荷物を持ち、恵は再び部屋を後にした。
□■□
恵の住居から店までは走って15分。(但し、恵の脚力によるものとする)
大した距離では無い為、特に汗も浮かない(但し、恵の身体能力によるものとする)
「おはよー!」
「おはよう。」
到着は略八時半頃。大体その頃店前を掃除し終わった耕と挨拶して、表口から入って手早く着替える。白衣に着替えたら、鏡でピンがしっかり止まっているか確認して、手を洗ってから厨房に入る。パティシエール担当が一番にやるのは勿論、デセールの確認である。
「あ、バニラアイス殆ど無いや・・・・。」
氷菓の類いは何日分か仕込んである。パイに添えたり、タルトと出したりと使用は様々である。特に夏の時期は出やすいが、冬場でも需要は高い。熱々のフォンダンショコラに添えたアイスクリームなどは人気商品の一つだ。デセールに限らず、熱いものと冷たいものを同時に味わうと極上の贅沢を感じさせてくれる。その感覚が、絶妙というべき美味を生むのだろう。
「最近ちょっと暖かかったしなー。」
気候のせいもあるだろうが、大抵の店では冬でも暖房が利いている。逆に夏場は冷房が効いていることが多いため、意外と暖かいものが注文されたりもする。
さて、と恵はう~んと唸る。
「どうしよっかな・・・・・。」
本日は日曜日である。つまり、明日は休みである。
いくら食後のデセールが必要不可欠といっても、作りすぎてしまってはどうしようもない。店長よりも余程恐ろしい経理担当の雷が辺りに轟くだろう。
「ん、追加は少なめにしとこう。シナモンの方はまだあるし。」
林檎のデザートならそっちの方が合うだろう。苦手な人のためにシナモンの量は控えてある。恵的にはもっと多くてもいいんじゃないかと思うが、まぁそこはお客さんに合わせてね。
「おはよう!」
「あ、大田さんおはよーございます!」
そうこうしている内に裏口が開いた。柔和な笑みを浮かべた恰幅のいい中年男性がどさりと荷物を置きながら入ってきた。オータムシエルを陰で支えてくれている出入り業者の一人、青果担当の大田氏である。あれ、と耕が首を傾げながら厨房を覗く。
「大田さん、今日は早いですね。」
「ああ、耕くん、恵ちゃん、ちょっとお願いがあるんだよ!」
言うなり、この通り、と手を顔の前で合わせる。訳が分からず二人は首を傾げる。
「ちょっと仕入れをミスしてしまってね、悪いけど、苺を予定より多く入れてもらえないかい?」
「予定より多くって」
「これくらい。」
ぱ、と首から下げられたミニ電卓が耕の目の前に突き付けられる。咲も持っていたが、もしかしてこのタイプの電卓が流行っているのだろうか・・・・・と思いながら、え、と耕は顔を歪める。
「ちょっと、多いか、な・・・・・。」
「そう言わないで、ね!物はいいから!」
「苺、足速いし・・・・・・」
「そこをお願い!ほら、仕入れ値で卸すから!」
「いやあの・・・・・」
「ほらほら、まぁ実物を見てみてよ!ルビーみたいな真っ赤でね、これが綺麗なんだよ!」
こっちこっちと耕は腕を引っ張られ、外に連れて行かれてしまった。残された恵はふむ、と首を捻りながら考える。
「はよー。」
「あ、蜜おはよう。」
そこで開けられたままの裏口から蜜が顔を覗かせる。今日大田さん早いんだな、と言いながら一番に運び込まれた野菜を覗き込む。まぁねーと恵は軽く返した。そのまま蜜は着替えるために奥へ引っ込む。恵は再びうーんと考え込む。ソースに使って、少しジャムにしておく。えーとそれからどうするか。
「大量消費だし、アイスとかじゃない方がいいよねー。」
この時点で恵は、苺の大量消費の方に思考回路を割いていた。
頑張ってはいるだろうが、耕が断りきれるとは到底恵には思えなかった。相手は大田さんである。人が良さそうに見えて、そこは年季が違う。あの満面の笑みで押し切られてしまうだろう。仕入れ業者とも良い関係は築いて行きたいのでそれはそれで構わないが、いつかは断る時はびしっと断る店主にもなって欲しい所である。まぁだいぶ先になりそうだが。
と、すれば今恵に出来るのはその苺をどう使用してしまうかである。残っている仕込みデセールと本日入ってくる材料、残っている食材をうまく使って何とかするしかない。取り敢えず考えていたメニューは一旦横に置いて、恵は色々冷蔵庫を漁る。
「うわぁ!すっごく美味しい!これがこの値段でいいんですか!?」
「勿論だよ!今旬だからね!お奨めだよ!」
そんな声が外から聞こえてきた。既にして総大将は陥落したらしい。
無理でもいいからもう五分は粘って欲しかった。
「で、どうするんだ?」
仕込みをしながら、蜜が尋ねる。うん、と手を動かしながら恵は答える。
「取り敢えずタルトとクラフティ、苺山盛りにして。小さめの器に苺ババロア仕込んで、デコレーションも苺で。大半はコンフィチュールにして、ジャムにして保存。パウンドケーキに仕込んでもいいかも。あ、フロマージュか水きりヨーグルトにかけてソースでもいいかな。」
既にして二人の後方で大量の苺が煮詰めに入っていた。結構想像を超えていた苺は九時前にやってきた咲に轟雷を落とさせるには十分な量だった。底値で仕入れていなかったら、冗談ではなく耕は叩き出されて街頭でマッチならぬ苺を売り歩かされたかも知れない。
「耕―、凹んでる暇があるなら苺ヘタとってー。」
うん・・・とどんよりした空気を撒き散らしながら耕は苺のヘタを取り始める。あーウザイとわざと聞こえる様に言って、恵は既にヘタを取って洗った苺をグラニュー糖と一緒にミキサーにかけ始める。
「恵、メニューはこんな所か?」
「ああうん、もう二つくらい作るけど、何?」
「いや、出来たら一つのプレートに何種類か盛り合わせ出来るか?春の特別苺プレートとか銘をうとうと思うのだが。」
OK、と恵は指を丸くする。ぐ、と親指を立て返して咲はそのまま店前の黒板を書き込みに行った。
失敗には厳しいが、起こった事には全力で対処するのが咲である。耕もあれくらい割り切ればいいのに、と考えて、だがしかし咲が二人いたらそれはそれで恐ろしいと思って恵は頭を振る。
「あ、休み明けにはスコーンとか出そうかな。ジャムも使えるし。」
でもデザートじゃあないか、と呟きながら恵は先ほどのミキサーにかけたものにコアントロー、レモン汁を加え、もう一度軽く混ぜる。ボールにマスカルポーネチーズと生クリームを入れ、泡立て器で軽く混ぜ合わせる。そこにミキサーにかけた苺を加え、更に混ぜ合わせる。出来上がったピンク状のもったりしたものを冷凍庫で30分ほど冷やしたら、取り出して空気を含ませるようにかき混ぜる。その後は冷蔵庫で冷やす。これで苺とマスカルポーネチーズのデセールが一品だ。注文が入ったら、四つ切りの苺とスプーンですくったバニラアイスを散りばめるように盛り付ける。器に注げばひんやりさっぱりとした春らしい可愛らしい一品が出来上がる。どうせなら単品には花でも添えるか。
「うーし、さあ急ぐかー!」
腕を捲り上げながら、恵は再び気合を入れ直した。
意外とパティシエール、体力仕事です。
結論から言わせてもらうと、苺フェアは中々好評だった。特に女性に。
一日限り、というのも良かったようで、口コミで広まったのか予約は入っていなかったが、夜は意外な盛況っぷりだった。
「すごーい!見事に苺ばっかり!」
「ねぇねぇ、どれにする?」
「お迷いなら、プレートにして盛り合わせる事も出来ますよ。」
目移りしている所に止めを刺さんとばかりに咲が笑顔でテーブルを回っていた。猛禽族の狩り現場を見たと蜜は厨房で言っていた。そんな生易しいものじゃないだろうと恵は思った。
「恵、プレート三つ、追加で苺のグラタンバジルアーモンド一つ。」
「うーす!」
結局プレートには苺たっぷりのタルトとクラフティ、小さな白い器に入った苺ババロアと、ガラス容器に入れた苺とマスカルポーネチーズのデセールに、食感の違うものをと焼いた苺ごろごろコンフェチールたっぷりのパウンドケーキを添えた。見た目も考えて生の苺のスライスと、ブルーベリーとを盛り付け、耕を走らせて買いに行かせた小さな生花をプレート毎に変えて添えてある。
何とも乙女心をくすぐる一皿である。たまに客席の方から、キャー、と幸せな悲鳴が聞こえてくる。
「四番プレート終わり!運んで!」
すぐさま次に取り掛かる。予め少量の水とバジルの葉を加えて煮ておいた苺を耐熱皿に入れ、グラニュー糖を加えて泡立てた卵黄にアーモンドエッセンスを加えたものを上からかける。そこに半分に切った苺を放射状に手早くだけど美しく並べる。
「さーて」
かちりと恵はバーナーのスイッチを入れる。先程の並べた苺の上からもう一度卵黄のソースを薄くかけ、表面をバーナーで炙り、焼き色をつける。そこに粉砂糖を茶漉しでふりかけ、バジルの葉を飾る。
「うっし、苺グラタン上がり!」
次に目をやるとまたプレートだった。これはそろそろ耕にもヘルプを頼もうか。
やって見ると苺尽くしというのも悪くは無い。これは毎年やってもいいかもしれない。そんなことを考えながら、恵は大きめの皿を並べる。
運ばれていったデセール皿は、また大きな歓声を巻き起こしていたようだった。
□■□
客数は多かったものの、そこはやはり日曜日。翌日を控えた人達が多いためか、客の引きはやはりいつもより早い。そして、いつも通りの遅い4人の夕食。本日は余ったバゲットでの色々具を挟んだサンドイッチと相成った。
「あ、シナモンアイス食べちゃってねー。」
忘れそうだった、と言いながら恵は洗い物を極力出さないために大きな皿にドカッとアイスを盛り、四本スプーンをぶっ刺す。先程のプレートを作った人物と同人物といわれて誰が信じるのだろうか。
「サンドイッチもたまに食べると美味いな。」
「あーたまに食べたくなるよね。」
「いやー・・・・今日はありがとう、特に恵。」
耕の言葉に、まーねーと恵は胸を張る。
「でも中々楽しかったよ。いきなりした割に中々お客さんいたよね。」
「いいテコ入れになった。たまにはこういうものも必要だな。」
「そ、そうかな。そうだよね!」
「たまには、な。」
しっかり釘を刺さされ、しゅーん、と耕は落ち込む。まぁまぁ、と苦笑いして、蜜は目の前の山盛りアイスを一すくいして口に運ぶ。
「明日は休みかー、洗濯たまってるからやらないとな。」
「一人暮らしってやっぱ一人なんだって思うよねー。」
何でも自分でやらないといけないから、と恵は呟く。
「耕は、明日はどうするんだ?」
「俺は、ちょっと自宅に戻ってくるよ。母さんに顔を見せろって言われてるから。」
「俺も一回戻ろうかな、本とか昔のそのままだし。」
で、と蜜は矛先を恵に向ける。耕と咲も恵を見る。
珍しく、恵は不機嫌そうに顔を歪めていた。
「帰んないよ、あたしは。」
絶対に、と言って恵はばくっと最後のサンドイッチを口に含んでもしゃもしゃと租借する。どうやら顔が膨れているのは口に含んだ食べ物のせいだけではないようだ。
でもさ、と耕は首を傾げる。
「俺が言えた義理じゃないけど・・・・・小母さんとか、心配してないの?」
「母さん及び父さん以下同文数年間連絡なんかとってないけど?てゆーか、出て行けって言われたもの。あっちから頭下げて戻ってきて下さいって言うのが筋じゃないの?」
取り付く島も無かった。はぁーと溜息が出る。
パティシエールになるから外国に行く、と高校の時に言い出してから、聞く所によると恵の家は揉めに揉めたらしい。それこそ両親だけでなく祖父母曾祖母実弟まで揃っての家族会議。曽祖父からの和菓子屋の娘が、パティシエールになるなど家族の誰にとっても寝耳に水の出来事だったのだろう。しかも恵はこれで一度決めたら物凄い頑固さで絶対に譲らない。話し合いは平行線を辿り、挙句の果てに「そんなにいうなら出て行け」という売り言葉に「分かった卒業したら出て行く」と買い言葉で応戦して、見事に卒業式が終わると略同時に予め作っておいた荷物と一緒に外国へと羽ばたいたらしい。
一応書置きだけはして置いたらしいが、「探しても無駄です」の一言だったそうで。蒼白になって知人友人を訪ねて回っていたお祖父さんの顔は今思い出してもこっちが驚いた。
因みに資金は今まで管理していたお年玉などに+して曾祖母が渡してくれたそうな。その件で実は曾祖母とだけは外国に行っても連絡は取り合っていたらしい。メールで。
「珈琲でも入れてこよう。」
「あ、温めでお願いねー。てかさ、そんな事よりそろそろ新メニューも考えないとねー。」
咲が立ち上がったのを合図に、恵が話の矛先を変える。
これ以上の説得は諦めて、そうだな、と蜜も腕を組んで考える。
「夏に向けてのメニューも考えてもいいな。魚なら鱸、肉はどうするか・・・・・。」
「やっぱりさっぱりしたものがいいかな?夏野菜も取り入れて。」
「でもなー、夏だから軽くっていうのもお手本通りだよな。」
「前菜さっぱり、メインはがっつり?だったらデセールは・・・・うーん・・・・」
グレープフルーツか、それともメロンか・・・・・恵は頭を抱える。氷菓ばかりというのも面白みにかけるが、夏場はチョコ系は扱いも難しい。そういえば、と耕が呟く。
「前作った白ゴマのババロア評判良かったね。」
「ああ、どうせなら白ゴマと黒ゴマで二色仕立てってのはどうだ?」
そうか!と顔を輝かせたと思うと、うーんと再び腕を組んで渋い顔をする。
「でもなー、色合いがなー・・・・・ちょっと地味だし・・・・・・。」
「入れたぞ。」
カチャリといい匂いと共にカップが置かれる。結構時間がかかったな、と思っているともう一度引き返して、咲は大皿とタッパをいくつか持ってきた。卓上に置かれたそれに、お、と蜜が手を伸ばす。
「大福・・・・・いや、苺大福か。」
「まだ有ったからな。余った分は各自持ち帰ってくれ。」
「しかし珈琲に大福ねぇ・・・・。」
「何か問題があるのか?」
少しムッとして咲は蜜を振り返る。そう言えば大福だろうとみたらし団子だろうと牡丹餅だろうと御萩だろうと珈琲を飲む相手だった。いや牡丹餅と御萩は同じだけど。
「餡子に珈琲もミルクも合うだろう。」
「ああ、流行ってるね、和スイーツ、だっけ?」
うちでもやる?と耕が尋ねると、んーと再び恵は首を捻る。
「フレンチだよ?餡子とか抹茶とか、空気壊れない?」
「いいんじゃないか。既に和菓子洋菓子のボーダーラインは曖昧だろう。」
「でもさー。」
そう言われると、と耕は苺大福を一個とって呟く。
「境目は曖昧だけど、和菓子と洋菓子の共通項って何だろうね?」
「砂糖を使うとか・・・・・甘いって事じゃないか?」
蜜も首を捻る。んーと恵は逆に首を捻る。
「共通は分かんないけど・・・・違いって言われたら、和菓子はさ、結局季節感だよね。外国に四季は無いから、和菓子には四季を取り入れないといけないよね。」
そうかぁ、と呟いて、耕は苺大福にかぶりつく。
「なら、恵のデザートは和菓子を取り入れているんだな。」
ほえ、と恵は顔を上げる。ああ、と耕は頷く。
「デザート作る時に果物の旬とか、色合いとか、花を飾ったりとかもするもんね。」
「確かに、そういうのって和菓子って言うか、日本人的考えかもな。」
「そ、そうかなー?」
「いいじゃないか、和仏混合で。」
美味いなら、と言って咲も一つとって、かぶりつく。
「そう言われると、色々新しいもの取り入れるのも和風ってなるのか?」
「でもさ、洋食とかは完全に日本食に帰化してない?」
「待て待て、そもそもフレンチ自体が元々は・・・・・」
いつの間にやら何処そこへ飛び火した話題で、耕と蜜はああだこうだと討論を始めてしまった。目の前の大皿に乗った苺大福をじっと見つめて、恵は一つ手に取る。
「これ、誰が考えたんだろうね。」
「色々元祖があるらしいぞ。」
「そうなんだ。よく考えたら、苺包むっていう考えが物凄いぶっ飛んでるよね。」
がぶりと噛み付くと、餡子の甘さに程よい苺の酸っぱさが口に広がる。
「他にも色々あるらしい。」
「ああ、生クリーム包んでるのもあるよね。餡子と生クリームも合うし。」
「ぶどう大福、オレンジ大福、ピーチ大福、メロン大福、ブルーベリー大福、柿大福、トマト大福と様々らしい。」
何それ、と恵は噴出す。
「新しいものを作ろうと試行錯誤の末なんだろう。」
「・・・・・「変わっていく世の中で生き残るためには、絶えず変化していく事も時には重要だ。変わる事が悪い事じゃない」・・・・・って事か。」
「何だ、分かってるじゃないか。」
まーね、と言いながらぱくりと大口を開けて残りを一口で食べ上げる。そう言えば実家では苺大福の皮は薄ピンクだった。皮にも苺を練りこんだとか言っていたな。桜の時期には更にそれに桜の葉を練りこんだ桜風味の苺大福が良く出ていた。
「もうちょっとさー。」
「ん?」
「なんてゆーか、こー、んん?まぁそういうのが出来たら、自分から帰ってもいいけどね。」
「意味が分からん。」
「だよね!あたしも言ってて意味分かんないからね!」
もっと、もっと。自分で自分を認められるような凄いものを創り上げたら。
その時には胸を張って帰れるような気がするから。
だから今は、向こうから頭を下げるまでは帰らない。
「あ、カイザーパン店で焼いてさ、あんことバター乗っけて出したら良くない?」
「それこそ店の雰囲気がぶち壊しだ。」
そうかなーと恵は首を傾げる。柔軟すぎる考えに、驚くほどガチガチの頑固さ、それをどういう手法でか混ぜたらこういうイノセント娘が出来上がるんだろう。レシピは大半が理解不能だ。
「さー、これくらいにして片付け始めるぞ。」
手をパンパンと叩いて、言い合っていた耕と蜜を現実に引き戻して、咲は余った苺大福を取り分けていく。もう一個、と言って恵はそれを横から一つ取った。そしてじっと見つめて、かぷんとかぶりつく。
苺でデセール、と言われて、一番初めに思いついた菓子。
どうやら幼い頃からの習慣や体験というものは、本人の想像以上に身体に染み付いているらしい。
「あ、所で曾祖母ちゃんが店のホームページとか作ったらどうかなって言うんだけど。頼んでみる?」
「お前の曾祖母ちゃんどんだけなの?」
※因みに実家の和菓子屋のHPも、この方による作品です。興味のある方、続きはWEBで。