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第三話「9種の不可欠アミノ酸」

猫や鳥だと10種類のアミノ酸が必要だそうです。

何にせよ自分にないものや足りないものは誰だってあるものです。

夢を見た。物凄く広い厨房の中で、驚くほど多くのメニューを作っていた。たった一人で。

何度も何度もフライパンを振り、鍋をかき回し、オーブンを開けて、盛り付けて、出して、それでも一向に終わらない。延々と繰り返す作業。



昼休みはまだか!シェフだって人間なんだ昼飯と休憩を寄越せ!



と喚いた所でピピピとよくある電子音で、葉蜂蜜は目が覚めた。









朝一で歯を磨く。寝ぼけていたので歯磨き粉を多く出し過ぎたが、見ない振りをした。あくびをしながら、冷蔵庫から昨日の残りのハヤシが入ったタッパを取り出してレンジに入れる。

休み明けとはかくも眠いものだ。そう言えば学生時代も休み明けは本当に辛かった。日常ならそうでもないのに、何故か月曜だけは本当に朝が辛かったものだ。月曜の朝が来る度に月曜日が休みならいいのにと思っていた。多分そうなった所で火曜日が辛くなるだけなのだが。


「・・・しっかし、夢の中でもシェフやってなくてもいいだろうに・・・・・・。」


これも職業病だろうか?と首を傾げつつ、顔を洗ってささっと髪を括り直す。料理人なんだから切ったらどうだと咲に言われた事があるが、嘗て自分の祖父が切っても切っても伸びる長髪が面倒で髪全てを剃り落して貰ったら、二度と生えて来なかった・・・・という恐ろしい事実を聞いた身としては、そうそう迂闊な事は出来ない。髪は長い友達だ。昔の人はいい事をいう。

タッパを一度取り出し、開けて掻き混ぜてからもう一度、今度は冷凍しておいたご飯と共に温める。その間に急いで着替えて、荷物を纏める。携帯はそろそろ充電しないといけないだろう。今日帰ってきたら充電しよう。そう思いながら荷物を椅子に置いて、温まったハヤシライスを皿に取り出す。

ダイニングテーブルと言うほど大きくない卓上にそれを置いて、本日で消費期限の切れる牛乳をコップに注いだ。どう見ても野菜が少ないが、今朝は急いでいるのでこれですませよう。


「いただきます。」


一人でも手を合わせてキチンと挨拶はする。そして少し急いで朝食を口に運んだ。

本日は火曜日。オータムシエルの休みは月曜日。

つまり休み明けである。


「要するに、昔思っていた通りに月曜は休みになった訳だ。」


そうして、火曜日の朝が辛くなっただけである。急いで朝食をかき込んで、皿とコップ、スプーンとタッパを洗い上げる。軽く拭いて、水切トレーの上に設置。火やガスは一切使ってはいないが、念のために指差し確認した。そうして鞄を持ち、玄関へ向かう。1DKの部屋は玄関までが近くていい。


「いってきまーす。」


誰もいないのに挨拶をするのはもう癖である。








休み明けはいつもより早く家を出る。

日頃は前日から翌日の仕込みをしておくが、基本的に休みの前には料理及びデセールは入れ替えを行う。勿論材料や料理を無駄にしないように注意を払いながら一週間のメニューを組むのはお約束事項だ。とう訳で、休み明けは仕込みが普段より時間がかかる。その為、蜜は15分は早く家を出る。15分を侮るなかれ、15分を笑うものは15分に泣くのだ。

蜜は主に自転車通勤である。店まで直で15分、途中の市場に寄るのでもっとかかる。市場に寄るといっても、仕入れをする訳でないので何時間もかからない。店の仕入れ自体は、先代の頃からの付き合いの人達が引き続き仕入れを担当してくれる手筈になっている。皆いい人ばかりで、ぽっと出の若輩者達にも優しく、時に厳しくしてくれている。そんな店達に寄って声をかけて店頭を覗く事もあれば、全然関係ない店を覗いたりもする。まぁ早歩きで見て回るだけだ。

そうして目に留まったものをちょっと仕入れたりして、料理人としてのインスピレーションを刺激する。


「お」


いい所に、と声をかけられた。おはようございます、と頭を下げる。こいこい、と手招きをされた。

寄った事のない精肉店だった。ここの販売店さん達はみな親切だなぁと思う。


因みに『秋空亭を引き継いだ変わった若者』という認識で結構有名人なのを蜜はまだ知らない。


「肉、買わないか?」


若いお兄さんがニコニコ笑った。そう言えば精肉はあまり買わない。目を引かれるのは魚介類や野菜類が多いからだ。ケースを覗くと、成るほど、新鮮そうで何とも美味そうな牛さん豚さん鳥さん達だ。


「・・・・そうっすね・・・。」

「どれもいいが、今日のお勧めは鶏だな。」


肉厚で、身が引き締まり、綺麗な桃色。もも肉はやはりローストだろうか。皮目をパリッと仕上げて、鴨の代わりにコンフィというのも悪くない。いや、こっちの胸肉で鶏ハムを作るのはどうだろうか。サラダ仕立てにして、カリッと焼いたフランスパンを混ぜる。あっさりしながらも満足感の高い一品だ。他には、お、鶏挽肉でパイ包みというのも捨てがたい。

うーん、と唸って、じゃあ、と顔を上げた蜜に、ん?とお兄さんは笑顔を向ける。


「笹身下さい。」

「あれだけ悩んでそれ!?」


正直な話、鶏肉は今日仕入れの業者が持ってきてくれるのである。






□■□


「おはよー。」


自転車を裏口に止め、厨房を覗くと既に恵と耕が来て掃除やら消毒やらを済ませていた。買ってきた荷物を渡して、倉庫で着替える。着替えながら思うがやっぱり狭いな。次改装する時はしっかりとした更衣室を用意して頂きたいものだ。いつするのかは知らないけど。


「あ、卵―?」

「おーい、使うなよ!賄い用だ!」


何時もの事ながら恵が荷物を漁っている声が聞こえたので、声を上げて制しておく。因みに笹身しか買わない予定だったのだが何故か卵も押し付けられた。まぁいいかと思って買ってみた。

そう言えばあの精肉屋のお兄さん初めて見たような気がする。そんな事を思いながらコックコートに身を包んで倉庫を出る。長髪はしっかりと白いバンダナで纏めて。

厨房に入ってすぐ、脇の手洗い場で手を消毒。食品管理、清潔第一。袖をまくってしっかりと。


「あれ?大田さんもう来たか?」

「今日ちょっと用があるってー、さっき帰ったよ。」


早朝の出入りの業者は大まかに三人。来るのが早い順に、肉屋の岩原さん、野菜屋の大田さん、そして魚屋の城戸さん、因みに城戸さんは『きど』ではなく、『しろと』さんである。岩原さんはいつも耕が店を開けるなりに来る。その後、少しして恵と蜜が来る頃に野菜屋の大田さんが来るが、今日は早かったようだ。さて、届いた材料の明細を見ながら、メニューを考える。大体前日の午後から考えてあるが、届いたものによって変える時もある。今日はまぁそのままでいいか。


「毎度―!」

「おはようございます。」


そうこうしていると裏口の開く音と共に、ドサ、と荷物の置かれる音がする。伝票ねー、と言いながら、城戸はまだあるであろう荷物を取りに車へ戻る。置かれた荷物と伝票を蜜が確認して、確認し終わったものは耕が奥へと運ぶ。


「帆立と・・・・海老と・・・・」

「後、昨日言われたハマグリね。」


お、と一つ手に取る。ぷっくりとしたハマグリ。殻の艶もいい。これは期待大だ。


「耕、先にハマグリ砂抜いといて。」

「あいよ!」

「ああ、そう言えば前言ってた赤座海老、そろそろいいのが入るよ。明日からもって来ようか?」

「マジで?じゃあお願い!他におすすめ何かある?」

「そうだねぇ、最近じゃ結構イカもいいのがあるよ。」


じゃあそれも追加で、と言うと、ありがとうよ、と小気味いい声と共にメモ帳に書き込んでいく。


「じゃあまた午後ね、何か追加があったら連絡しといて。」

「はーい、ありがとうございます。」


前日の午後には翌日入荷するものが決まるので、二時頃には各業者から連絡を貰う。万が一入荷しなかったりした場合にはその場で即変更しなければならないが、幸いにも今だ嘗てそれはない。だが、それぞれ長年の付き合いと言うか、先代が築いた信頼関係というか、前日に余程いいものが入った時は連絡をくれる。こういう事が大事なのだろうな、と蜜は、あ、と振り返る。


「それ終わったら次筍下湯でなー。」


分かった、と耕の声に頷き、さて、今日の前菜の一つに取り掛かる。同量の玉葱、セロリ、長ネギを兎に角薄切りにしていき、更にその十倍ほどのエリンギをやっぱりこっちも兎に角薄切り。これをバターでしんなりするまで炒め、ひたひたのブイヨンを加える。入れ過ぎには注意だ。


「これで灰汁を取りながら煮込めばよし・・・・と。」


その後はミキサーで細かくし、シノワで漉したらベースは出来上がりだ。注文が入れば生クリームと牛乳でのばして、ブイヨンを加え、塩コショウで味を調え温める。皿に盛ってエリンギのソテーを添え、パセリのみじん切りを散らす。


「ん、よし。」


ちょっと味見。いい感じだ。さて休み明けは仕事が多い、そのまま鍋から離れないようにして再び玉葱と人参のみじん切りに入る。こんにちわー、と声が響く。


「悪い、耕、メモそこにあるから。」


了解、と言いながら耕は裏口に向かった。そう言えば今日は火曜日だ、酒屋さんかーと思いながら続き。仕上げたみじん切りはバターを溶かした鍋に放り込み、軽く炒めて米を投入、透き通るまで更に炒める。其処にフォンドヴォライユ ―所謂鳥のだし汁― を加えて塩コショウで味を調えてレーズンを入れる所だが、以前、この仲間内では「レーズンは入れないほうが美味しい気がする」と言われたので(好みもあるのだろうが)、レーズンは入れない。その代わりにカレー粉を少量足して風味付けをするようにしている。


「蜜―、次何する?」

「ジャガイモと玉葱薄切りにして、揚げといて。低温でな。」


出来上がったバターライスはバットに広げて冷ました後、骨を外し、塩コショウをして袋状にした鳥のもも肉に詰める。注文が入ればこれをソテーして、今耕が揚げているジャガイモと玉葱を更にフォンドヴォライユで煮たものをスープごと添えれば出来上がりだ。


「ラングスティーヌか?」


と、ジャガイモと玉葱をスライスしながら耕が尋ねてきた。ああ、と蜜は頷く。


「そろそろ使ってみたくてな。」

「フリカッセにするのか?それとも・・・・」

「ん。ラビオリにする。野菜を加えたコンソメを一緒に盛り付けて。」

「ああ、中華のワンタンだな。」


そんな所、と言うと、耕は楽しみだな。と笑って、切り終えた材料を持ってコンロ前に立つ。既に火がついて油が張られた鍋がセットされてある。そーやってテンパら無きゃ其処まで手際は悪くないんだけどなぁと蜜は嘆息した。


耕は、料理が出来ない、という訳でもない。


但し、壊滅的に手際が悪い。いや、普段は悪くない。言われた事はきちんとやる。しかし何処かが抜けている。何より二つの事が一つしか出来ない。Aをやっている内に、Bをしながら、Dを用意して、Aを終わらせた後でCを・・・・というとこんがらがっていくようだ。器用そうに見えて不器用だ。もしかしたらこの面子の中で一番猪突猛進な性格なのかもしれない。一番『そう』思われがちな恵が誰より調理場で手際よくやっていくのだから、人間とは分からないものである。


「おっと、さっさとしないと怒鳴られるな・・・・・。」


蜜の料理は事前準備が多い。何せ客が来れば耕はそちらの応対に回る。厨房で蜜は盛り付けからほぼ一人でメインと前菜を一手に引き受けなければいけない。出来るだけ注文を受けてからの作業を簡略化しておかないと、提供時間がかかり過ぎる。本来ならばもっと手の込んだ料理や盛り付けもしたい所だが、致し方ない所だろう。


「よし、次は・・・・・・。」


こうなると、つくづく人手が欲しいと切に願う。せめて調理補佐をしてくれる人材が欲しい。

耕がすればいいじゃない、なんて最初言っていた何も知らない恵は、試しに、と四人分前菜からメインまで耕に作らせてその姿を見させたら、一回で「ああ、これはないね」と至極冷静に返してきた。

と、そこまで思い出してハッと振り返る。


「耕!筍ちゃんとしたろうな!?」


ハッと耕も振り返る。


「まずい!呼ばれて糠忘れてる!」

「いい!俺が入れるからお前油前から離れるな!」

「ご、ごめん!本当にごめん!」


慌てて蜜は茹で汁に糠を加えた。後ろで恵が、「二次災害防いだ蜜まじファインプレー」と呟いた。





□■□


「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております。」


その咲の言葉の後、カラン、と扉が閉まる音がした。午前部、最後のお客様が帰ったのだろう。

料理の提供が終われば、厨房はすぐさま次にかかる。蜜と恵は即座に午後の仕込みにかかり、耕は詰まれた食器とスポンジ片手に戦うのだ。足りないものがあれば其処ですぐ発注、今日は特になさそうだったので、そのまま流れるように仕込みに入る。


「上がってくる。いいか?」

「ん、大丈夫だ。」


咲が上を指差す。大体昼の賄いは咲が作る事が多い。勿論厨房で作業は出来ないので、耕の家のキッチンを使って作る。それ以外では仮眠室にもなる耕自宅。何とも便利すぎる。仕事場の真上が自宅と言うのも中々に羨ましいものだ。やたら他人に利用されてプライバシーがあまり無いのを差っぴけば。


「さて次は、と。」


エシャロットとニンニクをみじん切りにして、弱火で炒め、タイムを香り付けに入れる。どうも自分はこのタイムを大目に使いがちなので、心持控えめに。そこに赤ワインを注いで、弱火で煮詰める。トロトロになったらフォンドヴォーを加え、味を調えてシノワで濾せばソースヴァンルージュの出来上がりだ。後はメインの牛舌をスライスしておく。


「ほい、食器終わり。何する?」

「悪い、キノコ何種類かソテーしといてくれるか。」


そう言って蜜は冷蔵庫にしまっておいたバットを取り出した。さり気なく、朝の仕込みに紛れて作っていたそれを、ぱくりと一口。ん、ちょっとマリネし過ぎたか。


「それ何?」

「ささみ。ちょっと別の店で買ってきた奴。」


軽くお湯で霜降りにし、スライスして塩コショウしてバットに並べ、それにレモンの薄切りを乗せて軽くマリネ風にしたが、ちょっと時間が長かったようだ。それに蜜は軽くオリーブオイルを振る。

皿に放射状に盛り付け、レモン汁を振る。荒微塵にしたイタリアンパセリと・・・・・・其処で目に入ったものに、手を伸ばす。


「恵、これ少し貰っていいか?」

「ん?いいよー。」


ローストされたアーモンドクランチを、更に包丁で少し叩いて、パラリとかけてみた。

うん、中々見た目もいいじゃないか。と、其処で良い匂いがしてきた。


「出来たぞ。」


ナイスタイミングで咲が下りて来た。ほほう、今日は丼ものか。いや、今日も、か?

客席の一つに運んできたそれを並べ、もう一度奥へ戻る。恐らく茶を入れにでも行ったのだろう。

そう思っているとすぐにカップを四つ手に戻ってきた。


「手を止められたら止められる所で止めろ。」

「あたしこれでちゅーだーん!」


手早く作業を終わらせ、ぱぱっと片付けて恵は一目散に駆け出す。


「耕、そっちは?」

「これで出来上がりだよ。」


じゃ、先に食べるか。うん。


「ほい、こっちも賄い件試食。味わって食えよー。」


忘れそうになっていたささみのカルパッチョを卓上に置く。其処にはどっしりと盛られたオータムシエル自慢の賄い飯が鎮座していた。基本的にうちの賄いはボリュームがある。


「あ、これアーモンド塗したんだ。」

「歯触りがいいな。ただ少し、マリネし過ぎかも?」

「だよなー。」


頂きます、と手を合わせて蜜は丼を持ち上げる。親子丼かと思ったが、豚肉のようだ。後は葱に水菜に、大量のもやしを卵でとじている。ん、こっちも、もやしの歯ごたえがいい。


「これも美味しいけど、この前の肉じゃが丼の方があたし好きだなー。」

「そうか。じゃあまた何時か作ろう。」


やったーと笑う恵の丼は既に空に近い。ちゃんと噛んでいるのかと少し不安になる。


「咲は結構丼ものが多いね。」

「楽だしな。食べるのも片付けも。それに賄いといえば丼だろう?」


それは何か違うと思うけど・・・・と耕は苦笑いをした。そうか?と珍しく咲は首を傾げた。

が、と蜜はまた一口頬張る。何だかんだ言って他人が作った飯は有難いし美味く感じるものだ。蜜達のように年間300日近く他人の食事ばかりを作っていると特にそれが顕著である。


「ご馳走様―。あ、耕、蜜、悪いけどちょっとあたし先に仮眠取らして。」

「いいぜ。」

「30分くらいしたら戻るからー。」


食欲の次は睡眠欲が来るもので、ほぼ毎日入れ替わりで蜜と恵は30分ほど仮眠を取る。30分程でも休めばすっきりするのだから人間の体というものはよく出来ている。

やる事はまだあるが、とりあえず三人は昼食の続きを取る。次に食べ上げた咲は恵の食器と自分の食器を下げて、取りあえず奥に持っていく。恐らく今は上で恵が寝ているので、後から洗うのだろう。

やがてごちそうさました二人の分の丼も片付けられた。


「珈琲を入れるが、飲むか?」

「貰う。」

「俺も。」


片手を上げた二人に、待ってろ、と咲は返して奥に引っ込む。さっきまでお茶が入っていたカップを持って。


「午後からはどうする?」

「牛舌のロースト追加、ソースさっき作ったから。」

「あ、筍取りあえず冷ましてるけど、あれどうするんだ?」

「明日ラングスティンが入ったら合わせて使おうかなって考えてる。」


そうかーと頷いていると珈琲のいい香りがしてきた。この香り、今日はインスタントではないらしい。

そうして三人でつかの間の珈琲ブレイクが始まる。


「耕はミルクだけだったな。」

「うん。」


見た目と裏腹に咲は砂糖もミルクも欲しい派である。何でも拘りがあるらしいが、深くは知らない。そもそも実は蜜は珈琲よりも紅茶派である。大抵淹れる咲の好みに合わせて珈琲を飲むが。

と、真っ黒なそれに口をつけて、ん、と何かに気づく。


「これ。」

「ああ、蜂蜜を入れた。」


好きだったろう?と言われて、苦笑いしながら蜜は頷いた。好き過ぎて学生時代に名前と相まって「ハニー」なんて呼ばれた黒歴史を思い出した訳では決して無い。


「・・・・咲はそういう所、ほんと良く気がつくよな。」


俺も見習って接客に活かさないとな!と耕が意気込む。それを微笑ましく見ながら、蜜はもう一口珈琲を口に含んだ。咲は残っていたカルパッチョに手を伸ばす。むぐむぐと口に含んで、うん、と頷く。


「これは、パセリじゃなく葱でも美味しそうだな。」

「それなら、柚子風味とかでもいいかもね。」

「ああ、それも美味しそうだ。」


成る程、と思いながら蜜ももう一口食べる。やっぱりマリネのし過ぎか、ややレモンの苦味があった。








□■□


客仕事なので、朝食や昼食にあまりニンニクを取るわけにはいかないが、仕事が終わってからならいいだろう。みじん切りのニンニクを炒め、香りが出た所に余ったキノコのソテーを加える。既に火は通っているので、其処にパスタの茹で汁、パセリのみじん切りを加え、塩コショウで味を調えてソースにする。そして茹でたパスタを入れて絡めて、出来上がり。


「ういっす、晩飯出来たぞー!」

「こっちのプリン、デセールね!味見してー!」


現在の時刻、既に23:00時を当に過ぎているが、17時頃に軽く軽食を摘まんでいる4人からすればいくら遅すぎようとも健康には余り宜しくなかろうとも生きている限り腹は減る。通常の時間に夕食など到底取れないので、仕事が終わってから二度目の賄い、その日の余り物で手早く蜜が作る。

仕方が無い。空腹では帰って眠る所かその帰るまでも危ういのだ。


「あー、お腹空いた・・・・・。」

「結構な事だ。空いた分食事が美味しいぞ。」


何かあった時はこれにワインを開けたりまでするのだが今日は無し。空腹と早く帰って休まねばならないため、夕食は4人ともかなりの速度で食べ上げる。


「ん、パスタもいいなぁ。店で出せないかなぁ。」

「そーだな。手打ちとかやったら評判になるかもな。」

「このプリン、変わっているな。グレープフルーツか?」

「そーだよ。今日入れてもらったから、明日は出そうかなー。」


そんな事を口々に言いながら、後半は立ち食いである。なにこれ行儀悪い。

お客様所か親にも見せられない。


「あー、耕、明日さ、一番にグレープフルーツの皮剥いて。そんでワタの所だけバニラビーンズと牛乳に漬け込んどいてよ。」

「OK。分かった。」

「蜜、明日は夜に三組予約があるが・・・・・。」

「丁度いいさ、明日は子牛を出す予定だったし。」


明日の予定を確認しあいながら、片づけを終える。その後、ガスや火元、冷蔵庫がちゃんとしまっているかの確認。勿論表口が開いていては洒落にならないので全員で確認する。

そして、最後にガチャリと裏口が閉まる。


「それじゃあ、今日もお疲れ。帰り道気をつけて。」

「おつかれ~。蜜と咲も気をつけてね。」

「恵、お前の方が気をつけた方がいい。」


大丈夫大丈夫、と笑って恵は駆け出した。今現在の恵の自宅は此処から走って15分程だと言うが、学生時代に陸上部で鍛え上げていた底無しの体力保持者の15分とは、常人でどれくらいのものだろうかと蜜は思う。というか一日仕事して行き帰りもダッシュとかまじ有り得ない。


「んじゃ、俺らも帰るか。」

「ん。」


咲の現在の自宅は地下鉄で一本。店から駅までは歩いて5分もかからないが、時間が時間であるので、蜜は帰り道は少し遠回りをするようにしている。勿論この年で補導されたらたまらないので、自転車は押しながら歩く。ほ、と出た息はもう白くはならない。


「今日も急がしかったなー。」

「良い事だ。」

「・・・・・もう一人くらい、いてもいいんじゃね?」


伺うように言ったが、いつもと変わりない顔で返事がきた。但し疑問系で。


「それはホールにか?厨房にか?」

「いやいやいや、ほら、耕もさ、そろそろ・・・・」

「耕自身が厨房に立つと言ったのか。」


今度は疑問系ではなかった。答えに詰まって蜜は黙る。適当な答えを返した所で、咲の機嫌を損ねるだけだろう。


「耕自身の問題だ。蜜が気を回さずともいずれ自分でどうにかする。」

「・・・・耕だってさ、手際悪い訳じゃねーんだよな。何であんなテンパるかな。」

「・・・・・・・耕は」


急に咲は足を止めた。蜜も数歩先で立ち止まって振り返る。呟くように咲は言った。


「多分、自分に自信が持ててない。持ててないから、足元がしっかりしていないんだ。しっかりしていないから、他人の言葉に揺らいだり、自分自身の思考にすら、振り回されたりする。あの性格は簡単に治らない。10年以上の付き合いだが、変わってないだろう?」

「・・・・・そうだな。」

「何か一つでも、耕自身で自分を認めなければ変わらない。他人から褒められれば臆面も無く喜ぶわりに、今度は自分で自分を否定し出す面倒な性格だからな。」


まぁ、それからだな。と咲は再び歩き出した。蜜もそれに習う。

面倒な性格だ、耕も、咲も、蜜も、きっと恵も。


「それより、今日の卵を使わせて貰ったが、別の店だったな。」

「ああ、何か朝見慣れないにーちゃんの店で買った。」


笹身と一緒に、と言うとほう、と興味ありげに声が漏れる。


「中々良い卵だった。」

「だろーな。他の鶏肉も結構よさげだったし。」

「笹身は身近だが栄養価も高く、味も淡白だが使い勝手の良い、良い食材だ。」


何より安い、と言う。咲の目が光ったような気が蜜はしたが、見ない振りした。


「ん、また買ってくるか。ソースで何種類かバリエーション作ってもいいな。」

「そうか。」


珍しく、咲が口元を綻ばせながら悪戯っぽく笑う。


「試食は任せておけ。鶏肉は好物の一つだ。」


知ってるよ、という呟きは夜風に混ざって溶けた。








□■□


「今日のガレットには普通の海老だったけど、明日はラングスティンを使って・・・・。」


まだまだ寒いのでシャワーではなく湯船に長々と浸かっていたら、危うく眠りかけた。これはやばいと思って早々に風呂を上がる。冷蔵庫を開き、冷やした麦茶をコップに注いで飲み干す。

そのままコップを洗って拭き上げ、しまった後に洗面台へ移動。


「海老は、海老は~・・・・・。」


ぶにゅ、とちょっと多めに出し過ぎてしまった歯磨き粉を気にしないようにして、しゃこしゃこ虫歯の予防を始める。虫歯ダメ、ゼッタイ。歯医者ちょっと未だに怖いし。


「・・・・・・・・・イカと、煮て・・・・・うん。」


ぶくぶくと水を含んで洗い流した頃には再び頭が舟をこぎ始める。仕方がない、休み明けは仕込みが多くてどうも疲れる。これはもう明日出来る事は明日に回して、さっさと寝てしまおう。

そんな事を考えつつ、ベッドにダイブ。ああ、布団と違って敷かなくてすむって素晴らしい。


「・・・・・よし。」


携帯を一応充電。時計をセット。電気を消して、さて本日はもうお終い。


「おやすみ・・・・・。」


一人きりだが一応誰ともなしに挨拶して、蜜はベッドに潜り込む。今日もとても疲れた。

明日も客が多いといい。一人でも多くの人に美味しいと言って欲しい。

明日も忙しいといい。また同じように疲れて寝たい。




そんな事を思いながら蜜は意識を飛ばした。やっぱり夢の中でも自分はまたシェフだろう。












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