第二話「今の昔のほろ苦さ」
思い出は美しいですよね。でも美しいだけじゃないのもありますよね。
甘酸っぱかったり、ほろ苦かったり、色々な味があるものだと思います。あまりに辛くて思い出したくない、なんてのもまた思い出の一つ。
でもたまには思い切って思い出を振り返り、ティスティングしてみましょう。
いつの間にか味覚は変化して、それが美味しいと感じる日が来るかもしれません。
とある街の駅前メインストリートより少し中道に入ったそのレストラン・秋空亭。昔からあるその店、昼は食べ慣れた洋食で美味しくボリュームのあるランチを、夜は一風変わって重厚なフレンチフルコースを取り扱う、小さいながらに地元でも人気なお店。特に家で何かしらいい事やイベントがあると、必ずそこで食事を、という口に出さないお約束がある家庭もしばしば。シェフでオーナーの秋空氏は老年ながら、嘗てフランスで修業した経験もあり日本人の口に会わせながらもしっかりとしたフランス料理を楽しめる。勿論、料理がおいしいだけでなく、サービスも丁寧で行きとどいている。オーナー夫人の温かい微笑みや優しい気配りなどに癒される客も多かった。
だが、如何せん二人は年を重ね過ぎていた。一度オーナーが倒れてからは、無理せず、数量限定のランチと予約制でディナー客を取り、無理のしない範囲でほそぼそと営業を続けていた。それでも、地元で人気の店だったのは間違いなかった。
が、再びオーナーが倒れ、店には『営業休止中』の看板だけが数カ月ぶら下がるようになった。常連客や近所の住民は再びその店にオーナーが返ってくる事を望んでいたが、遂にその望みは果たされる事は無く、『長年のご愛顧、ありがとうございました』という看板が1枚、哀しげに揺れていた。
さて、これは今から半年ほど前の、まだ“オータムシエル”が旧“秋空亭”だった頃の話である。
諸々の諸事情あって、先代婦人、秋空純花氏から秋空亭を受け継いだはいいが、数ヶ月以上客が来ず、人が入らず、手入れのされていない秋空亭は、目を疑うほどに寂れていた。中に入って、ここがあのいつも賑わっていた秋空亭とは正直信じられないほどだった。確かにそれなりに古くこそあったものの、こうではなかった。人がいなくなれば建物は崩壊する、と言われていたが、その言葉を強く実感した瞬間だった。
「ごめんなさいね、あの人が身体を悪くしてからは、手入れする余裕がなくて・・・・。」
純花はそうすまなそうに言っていたが、こればかりは仕方がない。元々老夫婦二人で切り盛りしており、子供夫婦は、一組は海外、もう一組は地方に仕事で不在だった。
「――――父は、店を継ぐ必要はないと、私たちに常々言っていてね。薄々何時かこの店を閉めるつもりだったのかもしれないな。」
寂しそうに秋空万樹氏は呟いた。彼は父の薦めのまま、家業を継ぐ事は無かったものの、今では輸入雑貨等を取り扱う大手会社の海外支社勤務で課長職を務めている。
向こうで結婚をして家庭を持っているが、この度一時帰国、妻子を先に返し、店の目処がつくまで耕達に付き合ってくれるつもりらしい。
「万樹さん、仕事はいいんですか?」
「少し長めに休暇を貰ったからね、大丈夫だよ。私がいなくてもしっかりしている有能な部下ばかりだ。」
寧ろ私がいないくらいの方がノビノビ出来るさ、と柔らかく笑った。この笑みは母親似だとつくづく思う。都合がつかず、先に戻った娘さんの方は何度も必死に頭を下げながら、手を捕まれてぶんぶんと振り回しながら「お願いね!よろしくね!」と言っていた。あっちはきっと先代オーナー似だ。
「壁のクロスもだいぶ傷んでるな。改装はした方がいいかもしれないですね。」
「・・・・・耕くん、咲ちゃん、やっぱり・・・・」
「いや、いーです!大丈夫ですから!」
純花が口を開きかけたのを必死に耕は制した。
オーナーが亡くなり、閉店を余儀なくされた秋空亭。其処に耕と蜜が押しかけ同然に訪ねて、玄関先で二人そろって土下座をして「秋空亭を下さい」と頼み込んだのだ。突然の申し出に場はパニック状態であったが、とりあえず上がりなさいと部屋に通され、其処でも土下座をしたがやはりいい答えをすぐには貰えなかった。「もっといい場所で」とか「何もここをやらなくても」と止められているとこでインターフォン。一例とお茶菓子と共にスーツで現れたのは咲だった。
上がるなり焼香を済ませ、開口一番やはり土下座をして「この店を下さい」と真顔で言い切った彼女は、高校卒業と共に経営コンサルタントの道を選び、その為の資格を取ってきたという彼女がこの二人をサポートする、そして後数日もすればパティシエ担当も帰国します。と一息に言い切った。まぁこの時点で店の持ち主達家族はおろか、耕と蜜まで何が起こったか分からず、「え、誰が帰国すんの?」と的外れな事を言ってしまいそれはそれは冷たい視線を投げられた。
「まっさか恵がパティシエなるのに海外行ってるとか・・・・・。」
と後に呟いたのは蜜である。何でも祖父の反対を押し切り、家を飛び出し、ボディランゲージのみで海外で修行したという凄まじい経歴で帰ってきた幼馴染に耕も蜜も肝を冷やした。尚、音信普通になっていた為、咲は仕方なしに電報を打ったらしい。見事伝わり文字通り飛んで帰国した恵は大荷物で秋空家に突撃お宅訪問、焼香をするなり「この秋空亭下さい!」とやっぱり土下座をした。さすがに三回目の土下座に家族達も大笑いするしかなかったが、それは閑話休題。
まぁ、四人でやるならば・・・・と半場押し切られる形で譲る事にしたが、持ち主達の最大の不安は何よりも、この店の状態だった。閉めていた間に元々古かった店は正に家主を失ったように寂れ、手を入れなければ使えない状態になっていた。其処で純花が「少しなら、貯めているお金があるから」と言い出したが、それを思いっきり耕達は拒否した。
ほぼ無料で店を譲って貰う形で(ちょっと強奪に近いものがある気がした)、改修費用まで出して貰うなど、有難い通り越して図々しい。だが四人が四人とも細々ながら貯金はあるものの、勿論湯水のように使えるほどに余裕がある訳ではなく。
「厨房ちょっと狭いな・・・・後、もう一台くらい調理台が欲しい。」
「オーブン足りないと思う。後、アイスクリームメーカー欲しい。」
調理場から出てきた蜜と恵は何とも遠慮なく希望を述べてきた。調理台はいいとしてアイスクリームメーカーって何だ。本格的なものを用意したらいくらすると思っているんだ。パチパチ、と隣で咲が首から提げたミニ電卓を叩いている。いつの間にそんなのものを。
「心配するな。私用で前購入したものだ。」
「はぁ。」
「・・・・・・やはり改装、もしくは改築をしなければならないだろうな。問題はどこに頼むかだが。」
此方の都合を出来るだけ通してくれる相手がいいな。
そう言いながら咲は耕をちらりと見る。つられるように全員が耕を見る。
苦笑いをして、耕は首を振った。
「ウチ、無理だよ。」
「そうか。」
それ以上、咲は追及しなかった。分かっていたのだが、駄目もとで尋ねてみた、といった所か。
「ファブリック類は綺麗だからこのまま使えますね。」
「ただ、椅子や机は長年のものだからかなり古いのよね。大丈夫かしら。」
「どうだろう・・・・・だけど母さん、今のこの店のイメージなら木製の方が向いていると思うよ。」
その後、カトラリーのチェックを行なったが、食器類が幾つか足りないのでその辺は買い足すことにして、本日は取り敢えず終了にした。あまり進んでないのは、この際ご愛嬌だ。
昼過ぎに集まったのにいつの間にか夕方だった。
「恵はどうするんだ?」
「アタシ、咲のトコロ泊まるから大丈夫。」
恵はあっけらかんと笑った。咲の自宅かと思ったが、戻るなりさっさと部屋を見つけて今ではアパートに一人暮らしらしい。しかも此処から地下鉄で一本ときた。何とも手回しのいい。
因みに諸事情で家に帰りにくい耕は、蜜の家に暫く居候である。
「俺も一応目処がついたら家探すかなー。耕は店の上に住むんだろ?」
「うん・・・・一応。」
蜜の自宅は咲と逆向きに地下鉄三本分である。そんな二人はコンビニにいた。
シェフという職業に有るまじき所業であるが、本日の夕飯はコンビニで買う事にした。蜜の家に連絡しようとしたら、本日は親父さんが仕事で帰宅できないとの事。看護師の母親は夜勤だそうで、ならもうコンビニで済まそう、という事になった。なんか疲れたし。
「蜜も住む?二部屋あるって言ったし。」
「有難いけど遠慮するわ。オーナーたるお前が住むべき住居だよあそこは。」
その代わり家賃分給料は弾めよ、と笑いながら、少し強めに蜜が耕の背を叩く。ゲホ、と耕は咽る。そしてやっぱり、と呟く。
「ん?」
「・・・・父さんに頭下げてみる。」
おいおい、と蜜は呆れたように口を開く。
「耕、お前、小父さんに反対されて料理人になったんだろ?」
「そうだよ。学校に行かせて貰う代わりに、その後は一切知らないとまで怒鳴られた。」
「それなのに、店を改装して下さいって頼むのか?いくら小父さんが建築士だっていっても・・・」
「だけど!此の侭じゃどうしようもないだろ!」
急に大声を上げた為か、店員と店の中にチラホラいた客が驚いたように此方を振り返る。バツが悪そうに二人は頭を下げる。声を落とし、分かった分かった、と蜜が宥める様に言った。
「でもな、まずは小母さんか誰かに相談しといた方がいいぞ?な?」
「確かに・・・・・いきなりじゃ、昔の二の舞だろうな・・・・・・。」
「後、頭下げに行くっていうなら俺も行くぞ。これは俺達の店の問題なんだから。」
少し言い淀んだが、耕は頷いた。善は急げと、取り敢えず自宅にいるであろう母親に急いで連絡を取ろうと鞄を漁って、あれ、と呟く。
「どうした?」
「あれ・・・・あれ?携帯?」
「はぁ?」
「・・・・・あ!店だ!念の為に万樹さんと連絡先交換した!」
「おま、ちょ・・・・。」
「と、取り敢えず戻る!もう一回店開けて貰って来る!」
「ま、待てって!俺も戻るから!」
言うなり駆け出した耕を追い、手にとっていた商品を慌てて密は棚に返却をする。だが、開いた自動ドアから外に飛び出して、眼前に広がった物体に思いっきり耕は進路を阻まれる事になった。
「うわっぷ!」
「わっ・・・・!」
言わんこっちゃない、と蜜は飛び出し、取り敢えず尻餅を着いた耕はほおって置いてよろけた相手に「大丈夫ですか?」声をかける。と、あれ、と首を傾げる。
「ああ、すいません・・・・・?あれ?」
相手も顔を上げて、首を傾げる。すいませんと連呼しながら、起き上がった耕があ、と声を上げた。
「朔斗?」
「耕、か?お前帰ってたのか?いや、今までどうしてたんだ?」
訝しげな面持ちで、耕を見て視線を上げ下げする。突如として現れた幼馴染に耕はいやーと苦笑いだけを返す。そしてやっと蜜に気付いたようで驚いたように視線を向けた。
「よ、桜庭。」
「葉蜂、葉蜂か?お前もどうしてたんだ。」
「いや、まー色々あってな。お前は今何してんの?」
何とか話の矛先をずらそうと試みる。その意図は伝わったようで、しっかりとスーツに身を包んだ相手は、ため息混じりに回答する。
「仕事帰りだ。この近くに事務所がある。近々引っ越すつもりだが、まだ自宅通いだ。」
「へー、何の仕事?」
見た目と同じかそれ以上に優秀な相手の事だ。事務所なんて言っているから、もしかしたらそれこそ「先生」と呼ばれるような立派な職業に就いたのだろう。と、一瞬桜庭は困ったように顔をそらして、言い淀んだ。首をかしげると、いや、と一呼吸入れて、こう言った。
「・・・・・・建築設計事務所で、働いている。」
「「募る話は家で聞こうか」」
其処から物凄い勢いで耕と蜜は桜庭を引き摺り、相手の混乱を良い事に蜜の自宅までの拉致に成功した。
□■□
25時をとうの昔に回ってから来た蜜のメールの用件をかいつまめば、凄い事になったから明日昼過ぎに店に集合、という事だった。当たり前だがすっかり睡眠の時間だった咲は「くたばれ了解」とだけ返信した。昼過ぎというので朝起きて二人で朝食を取り、一応咲の実家に恵が顔を出して、ちょっと年頃の娘さんらしく街をぶらぶらした後、年頃の娘さんとは言えない感じに昼食にトンカツ屋でカツ丼の大盛を頂いた。揚げ物食べよう!は恵のリクエストだった。
その後、店に行くと秋空親子が既に待機しており、珈琲を淹れてくれた。恵の海外在住の話などをしていると、やっと耕と蜜が店に雪崩込んできた。何だか青い顔で特有の匂いを撒き散らしながら。
「えーっと、桜庭?くんって」
誰だっけ?と恵はクエスチョンマークを幾つか飛ばしながら、買って来たクッキーをカリッと齧る。ホームメイドタイプのクッキーで、練り込まれているココナッツがチョコと相まって美味しい。あー、こいうの店でテイクアウトとかいーなと思いながら恵は首を傾げる。
「桜庭朔斗。耕の小父さんと父親同士が古い付き合いで、その縁で耕の幼馴染で・・・・・ほら、高校の時に、一年で生徒会に勧誘された優等生がいただろう。」
同じクラスだったろう?と言われ、あーと其処でやっと納得したような声を出す。
「ラバ君ねラバ君!結局二年の時、生徒会で副会長やった子でしょ。」
「多分それだ。」
さくらば=ラバという事なのだろう。良く分からないが。
分かりさえすればいいとばかりに、咲はそれ以上の追及をやめてクッキーを口に運んだ。
「んで?ラバ君が建築士?に?なってて?此処?してくれるの?」
やたら語尾が上がるので聞き取りにくい。分かってないなら黙ってて欲しいものだが、そう言うと本当に黙ったり延々別の話をするので耕も蜜も口を閉じる。大丈夫?と純花が温かいお茶を淹れてくれた。
「それは素敵な縁ね。そう言えば桜庭さん家も良くいらっしゃって下さっていたわ。」
若い頃は、耕くんのお父さんと来た事もあったのよ、と笑っている。
「話したら、上司・・・・・先輩?を今日連れて来るそうです。」
「まぁ。話が早くて助かるわね。何時頃いらっしゃるの?」
「もうすぐ来るみたいですけど・・・・・。」
時計に目をやると、実際には後五分ほどだった。そう、と頷いた所で、カラン、と扉の開く音が鳴る。
弾かれるように立ち上がれば、予想通り桜庭が立っており、やぁ、と会釈をしてもう一人の人物を中に通す。その人物を見て、あ、と全員が目を丸くする。
「「「チューシン先輩!」」」
「ただのぶだ!!!」
三人の言葉に店内に轟くような怒号が響き渡る。相変わらず桜庭はニコニコとしており、「珈琲でいいかしら」と言われた咲は「何でもいいと思います」と至極適当に返答していた。
竹嶋忠信。通称・チューシン。
耕達が通っていた高校で前述の桜庭朔斗が副会長時代の、生徒会長だった人物である。かなり生真面目な人物で、周囲にも自身にも厳しく、それ故に煙たがられる事もあったが、それ以上にその真っ直ぐで何にも屈しない姿勢と気性を好む人間も多かった。現に、桜庭が生徒会に入ったきっかけはこの人物だったと耕は記憶している。厳しいが、いい先輩だった。
「まぁまぁ立派になって。私も年をとる筈ね。よろしくお願いしますね。」
まだぷりぷりと怒っている竹嶋とその後ろの桜庭に純花が頭を下げたので、竹嶋も桜庭もそれに習って会釈を返す。珈琲を淹れて咲に渡し、じゃあ私は上にいるわね、と純花は再び軽く頭を下げて奥に引っ込んでいった。と、やっぱりギロリと竹嶋は四人を見回す。慌てて耕も頭を下げる。
「お、お久しぶりです。ち、竹嶋先輩。」
「・・・・全く、そもそも表林があんな変なあだ名で呼び出すから・・・・・・!」
まぁまぁ、と宥めながら傍らの席の椅子を桜庭が引く。苛立ちを吐き出し上げるように深い溜息をついて、竹嶋は席に着いた。それを見て、桜庭も四人も椅子を引っ張ってそのテーブルを囲む。こほん、と咳払いをして口を開いたのは桜庭だった。
「えーっと、此方俺が勤めている建築設計事務所の所長、竹島忠信氏。」
「ええっ、ち、竹嶋先輩が所長なんですか?」
「ち、竹嶋先輩所長なの!すごーい!」
「もしかして独立って奴ですか?流石ち、竹嶋先輩っすね。」
「所で桜庭はいつから竹嶋チューシン先輩の所で働いてるんだ?」
「おい桜庭!この茶番が続くようなら俺は今すぐ帰るぞ!」
しかも最後の言い直してもいないじゃないか!と再び怒号が飛んだ。そう言えば生徒会と各部活の予算会議はいつでも戦争のようで苦手だった。その度に咲に助けて貰ってたなぁなんて全然関係ないことを思い出しながら耕は懐かしさに顔を緩ませていた。
「すみません先輩、お前達も気を付けてくれ。働き出したのは一ヶ月にも満たないよ。つい先日、先輩達が独立して事務所を立ち上げた事を知って、転がり込んだんだ。」
そこまで話すと、じゃあ早速本題だけど、と桜庭と竹嶋がファイルを取り出し、プリントアウトされた用紙を配る。四者四様に受け取り、目を通す。
「取り敢えず、過去に元の会社で請け負った事のある個人レストラン経営の内装やレイアウトを例として持ってきた。予算も下の方に書いてある。目安にして欲しい。」
これいいなぁ、こっちも。いやこれは広すぎて無理だな、何て言い合いながら目を通す。落ち着いたのを見計らって、店内を見回しながら竹嶋は口を開いた。
「で、どうしたいんだ?ただこのまま改装すればいいのか?」
「いや、一階の客席側はこのままでも良いかもしれないんですが、厨房側はもう少し広くしたいんです。」
「入っても構わないな?」
立ち上がり、どうぞと厨房部分に続くドアを開ける。営業してない以上、部外者の立ち入りは致し方無い所だろう。入って、うん、と見回す。
「どう広くする?」
「えーっと、最低でも調理台、オーブン、あと真ん中の盛り付け台はもう一つ。」
「出来たら器材を置くスペース分は残したいんだけどー。」
「隣の部屋はなんだい?」
「そっちは倉庫だ。器材や、その他のものの置き場になっていた用だ。」
開けても?と言うので咲が頷き、耕は預かっていた鍵を渡す。畠山、と呼ばれてはい、と振り返る。
「裏は少し土地があるが、其処は残すのか?」
「あ、いえ。自由に使ってよいとの事なので、スペースで利用できれば。」
「・・・・・他には?」
「えーっと、水周り、化粧室が少し狭いので・・・・。客席側の希望はそれ位です。」
其処で戻ってきた桜庭がメモを取り出し、大体、と竹嶋に言いながら何か話している。そのまま客席側を見回り、二人は何事か話している。一度裏口に回り、裏庭(と、呼べるほどのスペースはないが)の方を見て、もう一度外観に戻る。二階を見上げて、竹嶋は振り返る。
「二階の部分はどうするんだ?」
「あ、えっと粗今のままで別に・・・・・。」
「2LDKでユニットバスでは無かったな?」
「は、はい。」
後日確かめさせて貰う、とだけ竹嶋は返す。そのままもう一度店に入り、席に着く。取り敢えず再び咲は珈琲を入れる。そしてあーだこーだ言いながら二人は話し合い、時たまに何処かに電話を入れていた。
「ですが・・・クロスは、」
「いや・・・・・・それより」
何だか幾つか単語だけは聞こえてくるが、専門職で無いので分からない。専門職で無い人間が口を挟むのが余り宜しくないと専門職なだけにそこそこ理解しているので、四人は黙ってそれを見ていた。
心配なのは、大体一つだけだし。そんな事を考えながら見ていると、
「分かっている。予算が無い事は聞いた。」
あっさり言われて耕はちょっと泣きそうだった。
「・・・・まぁ、知らない中でもない。嘗ての後輩の前途祝いも兼ねてだな。」
ゴホン、と何故か言い難そうに咳払いを一つで誤魔化された。何かメンドクサイ人だなーとか失礼な事を考えながら、ん、と咲が差し出してきたそれを受け取る。ああ、そう言えば。
「え、と。これ、予算です。」
言い辛そうに差し出すと、ああ、と言って竹嶋が視線を合わさず受け取る。メモを書き終え、万年筆が一度テーブルに置かれてから、それを見る。見る。見る。
もう一度左から右に瞳が動く。数字で書いてあるからである。もう一度、ゆっくり動く。
そして竹嶋はふー、とゆっくり息を吐き、大きく吸った。
「ふざけるな!!!」
本日一番の怒号だった。きっとお隣のマンションの三階までは届いたんじゃなかろうか。
「どういう事だこれは!?」
「や、やっぱり少ない、方ですか?」
「相場より多い少ないだのは言いたくないが、はっきり言ってそうだ!桁が一つ足りんくらいだ!」
「そ、そんなに!?い、いやでもこれも結構ギリギリで!」
「そーだよ!まだ他に器材とか器材とかアイスクリームマシンとか色々必要なんだよ!」
「自己願望がだだ漏れだぞ。」
「え、えっと、じゃあこれくらい+で!」
一時収束。
「駄目だ!というか1%2%増やしてこっちが折れると思うな!」
「あ、じゃあこれでどうです!?先輩毎日うちの店ただで利用して構いませんから!」
「元を取るのに何年かけろというんだ!?」
「おい耕、毎日は駄目だ。うちが潰れる。」
「じゃ、じゃあ月一!月一で!」
「話にならん!」
バシーンと机を叩いて竹嶋は立ち上がる。そりゃそうだ。
しかしこんな所で諦めてはいられない。やっとの事で見つけたチャンスで縁なのだ。荷物を纏め始めてしまった竹嶋に必死で耕は追い縋る。
「お、お願いです先輩!どうか、助けると思って!」
「何とかしてやりたいのは山々だ!だがな、俺は所長なんだ!」
お前がオーナーなら分かるんじゃないのか、と竹嶋はキッと耕を一度見据え、鞄を抱え上げる。
「俺は事務所で働いている人間を養う義務がある。お前は違うのか、畠山。」
ぐ、と言葉を飲み込む。一応、また連絡すると言い残して竹嶋はそのまま出て行った。いつの間にか自分の荷物も纏めていた桜庭もそれに続く。ガシャン、リン、と鳴って暫く静寂が訪れる。
誰ともなしに、はぁあ、と溜息を漏らした。
そのままその日は解散した。夕方蜜の家に帰ると、小父さんが懐かしい笑みで迎えてくれた。いくつかつまみを用意してくれ、いつかこうしたかったと笑いながら三人で缶ビールをいくつか開けた。楽しかったし正直落ち込んでいた気分が吸い上げられた気分だったが、翌朝はやっぱり地獄だった。もしかしたらこれが二泊三日酔いというものだろうか。
そう何日も蜜の家に居候する訳にも行かず、翌日はネットカフェを利用してみた。最近のネカフェは大変便利だ。シャワーも浴びられるし、ドリンクは飲み放題。食事も取れるし睡眠にも問題ない。
流石に翌日は自宅に一時帰宅しようと腹をくくった。一応兄に連絡し、勤務先に昼頃行けば苦笑いをしながら鍵を渡してくれた。かいつまんで説明した現在の事情には「もう少しきつめにくくったほうがいいな」とだけ返された。御尤もな意見だった。
自宅に入れば妹も母親もいなかった。そのままにされてあった自室に向かい、荷物を置いてベッドに腰掛けて思考に耽る。竹嶋の言葉と、兄の一言もグルグルと回っている。何だか居心地が悪くなり、そのまま財布と携帯を持って逃げるようにもう一度ネカフェに一泊した。メールで兄には謝罪しておいた。兄には不似合いな溜息の顔文字が返ってきた。
何をやっているんだろう。
起きたら九時過ぎていた。これは本当にどうしようもないかもしれない。倒していた椅子を起こして、その上で膝を抱えて座った。思い出して反芻する。このままではいけない。問題を先送りにして、いつか解決するまで待っているだけだ。そうしていればいつか誰かが助けてくれて、解決していた。だが、これからはそんな事でいい筈ない。
「・・・・・俺がオーナーなんだ。俺がしっかりして、責任を負わなくちゃ・・・・・。」
独りで立つんだ。独立とはそういう事だ。名ばかりのオーナーでいい筈がない。他の事全てできっと皆に迷惑をかけたり助けて貰ったりするだろう。だったらこんな事で腐って、甘えていい筈がない。自分が養って、守っていかなければいけないのだ。キッと目を開く。立ち上がって、少し熱めのシャワーを浴びた。腹はくくった。大分きつめに。
精算を済ませ、ネカフェを出る。出る前にいくつか調べた。既に昼を過ぎていた。結構な額になっていたが、そんな事は今後悔しても仕方がない。
電車で二駅分。勿体無いので歩いた。ちょっと迷ったので結構足に来た。そして見上げる。
ごくりと唾を飲みながら、目の前の少し寂れたようなビルを見る。
お金が困った時に頼る、そーゆー系列のお仕事の集合ビルである。
ここまで見れば分かるように、耕は馬鹿である。そして意外と突っ走れば周囲が見えなくなる。がけっぷちに立てと言われれば、一番足場が脆い所に何故か立つ。どうしてまず其処なんだ。もっとやりようはあるだろうに。そう言われても仕方がない。耕は不器用だった。色々と。
余りに不器用すぎた。
「・・・・よし!」
遂に足を進める決意をしてしまった。因みに彼は昨日実兄とメールのやり取りをしてから一切携帯を開いていない。開いていればもう少しこの後の展開が変わったかもしれないが、開かなかったものは仕方がない。お前の事だから、とでも言わんばかりの注意や心配のメールが何通も仲間達から届いていたが、見ていないのだから仕方がない。見た所で、ここまで変な方向に腹をくくった耕は「大丈夫だから任せておいて!」なんて見当違いの返答に至ったかもしれないが。
「よぉ」
其処で、ポン、と叩かれた肩に耕は文字通り心臓が飛び出しそうになった。慌てて振り返り、固まる。えっと、と其処にいた人物を上から下まで見回すが、どうにも見覚えがない人物である。
「兄ちゃん、こんな所で何してるんだ?」
そう問いかけてきた人物は逞しい体つきに不似合いなサングラスをしており、ふぅ、と吸っていた煙草の煙を吐いた。因みに肩に手を叩いて来た極めて体格の良すぎるお兄さんは素敵なスキンヘッドだった。
■□■
「この大馬鹿が!!!」
まぁまぁまぁと怒り狂う竹嶋を桜庭が抑えている。その向こうで、咲、蜜、恵といった緊急収集で集められた面子が不機嫌極まりない顔で座っている。耕は腫れた両頬を押さえた。まだ腹が痛い。
そして集められた秋空亭店内で、今の状況に不似合いな位大声の笑い声が響く。ひーひー笑いながら、まー良かったじゃん、とその人物は笑いを堪える様に言った。何がいい事があるか、と竹嶋が叫ぶ。
「まーまー、才谷さんと虎間さんが居合わせて良かったよね、っつー話だろ?」
「いなかったどうなってた!結論だけで話をするな!」
めんどくせーなチューシン、と笑いながら呟く人物は表林真裏。
竹嶋同じく元生徒会関係者、桜庭含めて耕達の元先輩であり、五分ほど前に知った事実だが竹嶋建築事務所(仮名)の所員の一人らしい。
前述の通り、耕に話しかけた人物達はグラサンの人物が才谷、スキンヘッドの男が虎間と言って、竹嶋、表林、桜庭とは知り合いらしい。実際には耕とも知らない仲ではないのだが、それはいずれ何処かで。
兎も角、耕に面識はなくともとある理由で耕を知っていた二人は、人物と場所の不似合いさをいぶかしみ、声をかけたという事だ。結局そのままあれよあれよという内に竹嶋に電話が繋がり、電話口で怒鳴り散らされ、そのまま秋空亭へ連行された。電車内で事の顛末を説明すると、大変だったなぁと二人は同情してくれ、才谷は自販機で缶コーヒーを、虎間は持っていたアンパンを一個くれた。人間見た目でないとはこの事である。アンパン美味しかった。今度売っている所を聞きたい。
待っていたのは手回し良く表林が収集した錚々たる面子。咲に左頬を張られ、そのまま交代で蜜が右頬を殴り、最終的によろけた所を引っ張られて恵にボディに一発重いのを頂戴した。そして待っていた純花には「変な事はしないで」と涙ぐまれ、万樹には悲痛な顔で説教を喰らった。もう肉体的にも精神的にも満身創痍である。其処まで呆然と見ていた才谷と虎間は大笑いし、謝罪と感謝の言葉もそこそこに去っていった。立ち去り際、頑張れ、とだけ言っていた。其処から場所は通りから店内へ移る。
「大体どうして其処まで考え無しなんだお前は!?資金を作ろうとした事までは評価しても、何をどうやってそんな最終手段の所に最初から行くんだ!?過程をすっ飛ばして結論ばかり求めているからそういう考えと行動しか出来ないんだ!反省しているのか!?だったらその脳と直結して動く体をどうにかしろ!そんな無駄な行動力なら捨ててしまえ!!」
最早思いつく限りの罵倒を受け、耕は涙ぐんだ。止める人物もいない。いる筈もなく。
反論は勿論許す許されるという状況でもないので、黙って受け止めるしかない。
バァン!と大きな音を立てて机に書類が何枚か叩きつけられる。見上げると、今だ怒り冷めやらぬといったような竹嶋が、見ろ、とだけ言った。恐る恐るそれを手に取り、文字を追っていく。
「・・・・・・・え、」
同じような書類を桜庭が鞄から取り出し、咲達と秋空親子に手渡す。渡された方は目を通すまでもなく、その一番初めに書かれていた文字に目を見合わせて驚く。
そこには、“秋空亭リフォーム案”とあった。
「え、だって・・・・・。」
「誰が断るといった?あの予算では到底無理だとは言ったような気がするが。」
いいから目を通せって、と笑う表林に促され、紙を捲って設計図やそれについての説明、細かく纏めてくれている予算を追っていく。確かに最初に耕達が提示した予算よりは大分上ではあるが、こちらが希望した条件はほぼ全て取り入れてある。最後の方に書き込まれている金額は耕が二回目に提案した金額そのままで、それを手付金として払った後の、月々のローンの支払いまで数パターン書き込まれている。
「これ、本当にこんな金額で出来るん、ですか?別に何が変わったって訳じゃないし、ちゃんと調理台とかも・・・・・。」
「そーゆーの、素人考えって言うって知ってる?」
ニタ、と嫌な笑みを表林は浮かべる。
「改築、改装が欲しい設備を諦めたりする事で安くなると思われがちだが、一概にもそういう訳じゃない。例えば、器材や設備、ドアなんかだって標準サイズの建具なんかを使えばコストダウン出来るし、小さな手間のかかる工事、リフォームの範囲を狭めるのだって有効だ。」
「他にも色々ある。今まで使っていた建具をそのまま利用したり、着工に入ってからの追加改装や変更などは意外と要望が多く、予算がかさみ易い。この予算案はそういうものを一切想定せず出してある。」
ただーし!と竹嶋に続いて表林は芝居がかったように大きな声を張り上げる。
「勿論、この予算でも大幅にオーバー気味なのは分かってる。其処を0円計算できるほどうちの事務所も儲かっちゃいないし慈善事業もやってない。残りは全額払って貰う。」
一度切り、にっと笑って
「だがローンは化、だ。無理なく払えるようにしてやるよ。どうする?」
元生徒会の明朗会計舐めるなよ、と口端を上げながら。呆然としていると、お前な、と竹嶋が仁王立ちで立っていた。
「オーナーとしての仕事を、勘違いしていないか?」
び、と鼻先を指で指され、少しのけぞる。
「自分だけの力でそう何でもかんでも出来ると思うな。出来ない部分は人を頼っていい。どんな事にもその道のスペシャリストというものは存在するんだ。他人を信頼して相談するのもオーナーとしての器量だぞ。これから先、他人を雇い、仕事を任せていく上でその人物をうまく動かして使うのも適正を見抜くのもお前の腕次第になるんだ。観察眼を磨け、人間観察を怠るな。」
その人間が、他人でも、自分でも。
「我武者羅にやるのは悪い事じゃない。だが周りが見えない人間は必ず何処かで躓いて痛い目を見るぞ。周囲を見回して、同調して、今の状況がどうであるかを判断するのもお前の仕事だ。後ろを振り返って突っ走れる程お前は器用なのか?そうじゃないならゆっくりでいい、自分のペースで周囲を気配りながら指揮して行け。それがこの店の店主たるお前の仕事だ。」
「・・・・はい。」
「返事が聞こえん!」
「はい!」
立ち上がって体を90度に折り曲げながらありがとうございました!と一礼をする。よし!と返されてちょっと泣きそうになった。代わりにずび、と鼻を啜ったので、気付いてないだけで泣いていたかもしれない。
「で、この案で進めるよ?いいかな?」
「よろしく頼む。」
「やっぱり少し店舗の解体に入るので、二階にも手が入るのですが・・・・・。」
大丈夫よ、と純花は笑う。
「もう荷物は纏めてあるの。明日にでも殆ど贈ってしまうわ。」
「え・・・・あの、何処に?」
「息子の所へ行くわ。外国なんて初めてだけど、良い刺激になって気落ちしないですみそうね。」
この店の解体だけ見届けたら、すぐにでも。
その言葉にたまらなくなり、耕は何事か叫ぶように口を開いた。でもそれより早く、立ち上がった純花が耕に歩み寄り、手を取った。
「大丈夫よ、耕くんの周りには素敵な人が沢山集まるわ。悩んだり、辛くなったら足を止めて、ゆっくり皆と相談しながら進んでいけばいいの。まだ若いわ、長い人生よ。少し位の回り道も楽しいものよ。でもね、頑張りすぎないで。決して無理だけはしないでね。」
約束よ、と笑った顔は、初めて親に連れられて来た時の、あの時のままだった。
そのまま一回店を見回して、そうね、とにっこり笑う。
「名前も決めないとね。秋空亭じゃいまいちだわ。」
新鮮味が無いわよね、と笑っているが、それはどうだろうと耕は思った。そもそも秋空亭を無くしたくなくて受け継ごうとしたのに、秋空亭でなくてどうなるのか。
「それは・・・・・ねぇ?」
「いや、母さんの言うとおりだ。もっとお洒落で、堅苦しくない感じの方がいいだろう。」
「万樹さん!?」
同意を得るように水を向けたが、相手は云々頷きながら改名に賛成のようである。
「やっぱり横文字の方が良いわよね!漢字表記だと堅苦しくって。」
「そうだな・・・・・でも英語も何か違う気がするし、イタリア語?フランス語かな?」
「柔らかい響きの名前がいいわ~・・・・・ああ、でも言い易いのも大切ね!」
電話応対がしやすいし!と、とても参考になる意見を頂いた。何か既に改名の方向で纏まっている。いやこれは盛り上がっているという方が正しいのかもしれない。前オーナー婦人とその息子の意見なので良いのだが、本当にそれでいいのだろうか。眉を寄せて、咲が尋ねる。
「本当にいいん、ですか?」
「いいのよ。」
きっぱりと言い切られた。
「秋の空はね、変わりやすいの。でもね、変わりやすいものにも良い所はあるのよ。」
「父さんの持論だったな。「変わっていく世の中で生き残るためには、絶えず変化していく事も時には重要だ。変わる事が悪い事じゃない」って。」
だから、ね?とよく似た顔で微笑まれ、反論は消えた。よーし!と恵が立ち上がる。
「名前決めよう!カッコいいやつね!」
「いやいや此処は意味も重要だろ!?」
「それでいて響きも良く発音もしやすく尚且つ覚えやすい、そんな名前にしないとな。」
「止めてさりげなく難易度を上げないで!」
「看板作った後の変更は金額上乗せにするからなー。」
表林のその言葉に、うぇえ!?と耕が振り返る。そのままあーだこーだ言いながら、手帳を取り出して文字を書いていく。途中で携帯まで取り出した。その様子を呆れたように見ている竹嶋に、お疲れ様でした、と桜庭は小声で言って頭を下げる。
「この三日、仕事が随分押していたのに。」
「大した事じゃない。出来る範囲の仕事を頼まれたから、しただけだ。」
「そーそー。この条件でもダメだっつったり、この三日間何にも悩みませんでした、なーんて言ってたら俺も容赦なくシュレッダー突っ込んだよ。」
ハハハ、と笑っているが、本気だろうなと思ったので桜庭はそれ以上追及はしなかった。まぁ、とそのまま表林は続ける。
「俺達もこの店に何回か来てるからなー。ほら、あれいつだっけ?」
「大学入った時だな。俺は高校入学した時に連れて来て貰ったが。」
「あーそーそー。ってか奥さん綺麗だなー、30・・・・いや20年前でもイケるか?」
「40年前でも既に人妻だ馬鹿が。」
真剣な顔の表林の頭頂部に、ごん、と竹嶋の拳が振り下ろされる。ああ、そうか。要するに。
この優秀かつ大変めんどくさい先輩達も、この店を潰したくなかったとか、そういう事か。
何か勝手に緩み始めた口端を必死に押さえ、桜庭は誤魔化す。
「何ニヤけてるんだ。すぐさま工事に入るんだから、こっちも忙しいぞ。」
「はい。分かってます。」
「あ、全部終わったら一番に才谷と虎間連れて夕飯此処で取ろうぜ。」
に、と意味ありげに笑った表林に、「そうですね、月一回なら、無料らしいですよ」と桜庭はにっこりと笑って返した。
その後。
オーナー秋空氏の葬儀から3ヶ月後のある夜、店に再び明かりが灯り、哀しげに揺れていた小さな看板はドアより取り外された。『営業開始1週間後より』。
小さな看板の上よりもっと上、【Automne ciel】と新しい店名の看板が其処にはかかっていた。
余談だが。
開店翌日夜、18:00に現れた竹嶋一行に散々遠慮なく飲み食いをされて、引きつりながら「所でお仕事場は?」なんて聞いた耕は、「隣のビル」と笑顔で即答された。
その後ほぼ毎月のように竹嶋建築事務所御一行様の予約が入る事になり、耕はその場の勢いで行動するという事の迂闊さを噛み締めて味わう事になったという事である。
今より少し昔の後悔の味は、ほろ苦いというより渋かった。あとちょい酸っぱい。