北山黒羽3
薄紅に地平線を照らしていた太陽はすっかり西に落ち、黄土色の三日月が顔を出していた。部屋の真下に位置する台所では、妹の優歌が夕食を作ってくれている。庭を伝って二階にまで香しいスープの匂いが漂ってくる。
僕は料理が出来るまでの間、部屋から外の景色を見て一人呆けるのが日課になっていた。住宅の隙間からかすかに覗く海――曲がり角にぽつりと自己主張を繰り返す街灯――薄暗く輝く星空――どれも、毎日見る味気ない風景。
一つだけ昨日と違うところは、道路を挟んで家の向かい側にある六階建てのマンションの入り口で、小道具を抱えた作業員がしきりに出入りしていることだ。三階の中央付近の部屋が、工事用の灯りでひどく眩い。時はすでに八時をまわろうとしているけど、夜遅くにまで仕事しなくてはいけない事情があるんだろうか。
そんなことを思いながら一人更けていると、
「クロ兄、ご飯」
と、台所からぶっきら棒な声が聞こえてきた。僕は「ああ――」と生返事をし、部屋の窓を閉め一階へと降りた。
テーブルにはオムライスとオニオンスープ、木の器に入った野菜サラダが並べられていた。どれも優歌の得意料理で、簡単に済ませられる献立だ。いつもは最低でも一品は手の込んだ料理を出すだけに、今日は様子がおかしい。
僕は小声で「いただきます」を言い、得体の知れない空気が張り詰める食卓に、恐怖を隠しきれずにいた。
優歌は無言のまま、オムライスをスプーンですくうと乱暴に口へ運ぶ。かちゃりと音を立ててスプーンを置き、並々注ぎ込んだ麦茶を、強引に胃袋へと流し込んだ。
いつになく荒れている……
青いラインが入った、派手なメイクでめかしこんでいるその目元からは、僕を石化させてしまいそうなほどの威圧感を放出させている。いつ、その茶色の長いツインテールが、磁気を帯びて逆立ってしまってもおかしくない。
どう接したらよいかわからない僕は、とりあえず、心当たりがあることから質問してみることにした。
「な、なぁ……別に僕と一緒に食事するのが嫌なら、自分の部屋で食べてもいいんだぞ?」
優歌の顔色を伺う。
「お父さんの言いつけだから。それに洗い物をいっぺんに片付けないと、めんどくさい」
「あー……そう」
これはやばい。相当頭にきているぞ。僕と食事したくないと、今、さらりと肯定したし、他に大きな怒りの根源があるということもはっきりとした。が、ショックだ……
再び言葉が途切れ、沈黙が続く。これはもう、腫れ物に触るなという合図なんだろうか。
僕は脳みそをフル活動させ、どれが最善の策なのかを試行錯誤する。雷神様はちらりと僕を睨む。もうやめてくれ。感電死してしまいそうだ。
全く手がつけられなくなったオムライスをどうにかして片付け、自分の部屋に戻ることだけを考えていた。
「そ、そういえば、あの、今朝玄関で出会ったマサト君だっけ……優歌の彼氏。彼とは、どう?」
「………………」
楽しい話題へと話を持っていこうと、僕なりに頑張ったつもりだけど――途端に優歌の手の動きが止まった。スプーンを握り締めたまま俯き、体全体が小刻みに震えていた。
僕は二人の間に何かトラブルがあったのだとすぐに察知し、一層張り詰めてゆく空間に思わず唾を飲み込んだ。
「ま、まあ、仲が良くても、ずっと一緒にいたら、た、たまには痴話ケンカもするよね……なんて」
「……れた」
「え?」
優歌の声があまりにも小さくて聞き取りづらかったけど、今確かに聞こえた。「別れた」と。
とても信じられない……。
二ヶ月前から付き合い始めた二人は、毎日夜更けまで電話をしたり、休日には毎週デートを繰り返したりと、とても仲むつまじいカップルだった。今朝初めて優歌の彼氏と会ったけど、別れの予兆を感じさせる素振りなど、一ミリたりともなかったはずだ。
それが今日一日で、二人が積み重ねてきたものが崩壊したのだ。並大抵の事ではない。
外見とは裏腹に、優歌は一度人を好きになると全身全霊を賭けて相手に尽くそうとする、一途で真面目な妹だ。男を見抜く六感も鋭い。だから優歌に非があるとは思えないし、彼氏から酷い仕打ちをうけたとも思えない。
「わ、別れたって……どうして!」
納得がいかなかった僕は、テーブルから身を乗り出すようにして優歌を問いただした。すると優歌は生きた屍のように、ゆっくりと立ち上がった。次の瞬間――
僕の鼻先ぎりぎりのところを、銀色の物体がかすめていった。短い髪の毛が風圧で揺らぎ、生々しい音と共に赤い液体が頬にこびりついた。
お、オムライスに、鋼が!
俯いていた雷神様の眼光が鈍く光った。その表情は、雷神様から鬼へと変化を遂げ、人を殺めてしまいかねないほどの、漆黒のオーラを放っている。
「クロ兄の、バカ!」
ドスの利いた声で叫ぶと、僕の胸元を両手で激しく突き飛ばした。カエルが仰向けになるような格好で、無様に転げ落ちた。
打ち付けた背中に痛みが走ったけど、もうそれどころじゃない。あまりの恐怖で、僕の体は骨抜き状態だ。下手すればパンツを黄色によごしてしまいそうだ。
仁王立ちで僕の前に立ちはだかる鬼は、見下ろしながら右足を大きく上げた。まさか、何もできない僕に向かって、更なる追い討ちをかけるつもりなのか?
「自分の胸に聞いてみなっ!」
「ちょ……や、やめろっ!」
容赦ない蹴りが、僕の顔面を捉えた。今まで食らってきた優歌の蹴りの中で、最高記録を塗り替えるほどの破壊力。それはもう、首から上がなくなったのかと思うほどの……。
もう一度カエルを睨みつけ、鬼は床が抜けてしまいそうなほどの足音を立てながら、この場を去っていった。
こんなに怒った優歌を見たのは初めてだ。緊張が解けたとはいえ、体の震えは一向に止まらない。だけど。
これって、どう考えても優歌の八つ当たり、だよな?
「いててて。な、なんなんだよ、一体……」
優歌たちの接点があるとすれば、今朝しかない。僕はもう一度、今朝、玄関であった出来事を思い出してみた。
マサト君はとても礼儀正しい男だった。玄関で僕と目があった途端、体を九の字に折り曲げて大声で挨拶をしてきた。言葉遣いも丁寧で、尊敬する先生にでも話しかけるような、正しい敬語を使っていた。緊張しているのか、視線がずっと足元を向いたままだ。彼女の家族に会うのに、そこまで緊張しなくてもと思い、僕は「普通に話してくれていいよ」と言ったんだけど、彼の顔はさらに強張っていく一方で、こめかみからはうっすらと汗が流れ落ちて――
あれ? 何か、おかしいぞ?
――うっすらと「冷や汗」が流れ落ち――
「あ……」
僕はようやく事態を把握することができた。彼は緊張していたんじゃない。僕の顔を見て、完全に怯えていたんだ。
これまで家族の知人が家に来たときは、必ず避けていたというのに、どうして話しかけてしまったんだ? 彼が怯えてしまうことぐらい、考えなくてもすぐに分かることじゃないか。
これがきっかけで二人が別れることになったのは、もはや確定的だろう。きっとマサト君は「ヤクザの妹とは付き合えない」いう理由で、優歌に別れを告げたに違いない。
僕という人間は、存在するだけで家族を不幸に導く、疫病神でしかないのか?
……だめだ、視点が定まらない。頭の中身はもう真っ白だ。もう何も、考えられない……
誰もいなくなった食卓は、料理だけが虚しくテーブルを彩っていた。腑抜けた体が自我を取り戻し、ようやく目の前の料理に手がつけられたのは、それから十分後のことだ。
冷め切ったオムライスは、調味料を入れ間違えたのかと思うほど、塩辛く感じたのだった。




