朝野露子7
あれから三日が経過したが、私の怒りは治まりそうもなかった。
今日も、北山が夢に出て禁句連発をお見舞いしてくれたせいで、朝の目覚めは最悪だった。毎日作っているベーコンエッグもうまく焼きあがらず、全体の約五割が焦げ付いている。味噌汁に入れたジャガイモも生煮えだ。何もかもが思い通りに進まない。
この感情をうまくコントロール出来ない自分自身にもほとほと嫌気が差す。ここまで尾を引いているのは、過去の自分と北山が重なって見えるからなのだろうか……
私は「ありえない」と首を振り、焦げたベーコンエッグを掻き込んだ。いつもと変わらずヨーグルトと美容サプリメントを摂取した後、少しでも気分を和らげようと、私の好きなオレンジ色のリボンを腕に巻きつけ、学校へと急いだ。
登校の時間もいつも通りだ。親衛隊に囲まれながら、教室へ続く僅かな距離を歩いた。いつまでも北山一人の為に気を取られてはいられない。あからさまな態度を晒して他の男どもに感づかれてダメだ。普段のおっとりとした天然キャラを演じなくてはいけない。
教室の扉を開け机に座るとすぐに、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。うん、いつも通り。隣の北山はというと、今にも泣き出しそうな顔をしながら、ちらちらと私を見ている。だが私からは絶対に挨拶はしない。というか、なるべくこいつとは言葉を交わしたくない。この点だけはいつもと違っていた。
しかし、北山には二度と立ち直れないほどのダメージを与えたはずなのに、今でもしぶとく学校に来ている。生真面目なのか、はたまた岡同様ただの馬鹿なのか。こんなクズ、ずっと家でひきこもっていればいいのにと切に思った。
しばらくすると出席簿を抱えて室尾がやって来た。その後すぐに、学級委員のイケメン気取りが号令をかけるのが一連の流れとなっているが、今日はあのなよなよしい声が聞こえて来ない。
「えー、出席を取る前に一つ、悲しい知らせがある。学級委員の田島だが、昨日、急性虫垂炎で倒れた。約一週間ほど入院だそうだ」
その悲しい知らせを淡々と話し終えると、にわかに教室がざわめいた。
「ええー? 田島クン昨日まで元気だったのにー」
「盲腸で倒れるやつとか、実際にいるもんなんだな」
「今頃、看護士さんに下の毛を処理されてるんじゃね?」
「やめてくだっさいっ。アッ――! とか言っちゃってたりしてな」
「わははは!」
一部の男どもが下品な笑い声を上げる。どうして男は何かとすぐに下ネタに話を持っていくのだろう。理解に苦しむ。
「と、言うことでだ。女子の浅倉一人だと流石に大変だろうからな。その間、他の男子に臨時で学級委員をやってもらうことにした。誰かやりたいやついないか~?」
「えー、俺絶対にやだー。めんどくせぇ」
「おい、お前やれよ。いつも暇暇言ってんだろ?」
「ひ、暇だけどっ! 暇じゃなかった!」
そら始まった。不幸の押し付け合い。
学級委員という、仮にもクラスをまとめてくれていた人が病気で倒れたというのに、その人の不幸を笑い飛ばした挙句、自分が選ばれる可能性が出てくると途端に言い訳をし出す。本当に不快極まりない。
まあ、面倒な仕事を避けたいというのは私も同意だが、ただ何も考えず「面倒くさい」の一言で全てを拒否したりはしない。何事も『チャンス』と考えるのだ。
幸も不幸も、一度経験をすれば必ず人生の糧になる。無駄に思っていた事でも、意外な場面で力を発揮するかもしれないというのに。未来の選択肢を自分で狭めるなんて、大金をドブに捨てるようなものだ。
「おーい、いないのかー? それなら先生が勝手に決めるぞー」
候補者すら定まらず、論議は揺れ続けた。女でも良いのなら、もう私が立候補してしまおうかしら。このまま擦り付けあっても時間の無駄でしかないし、もう一人の相方の浅倉さんが不憫に思えてきた。
クラスの中に、私のように物事をポジティブに捉えられる奴はいないようだし――
「ぼ、僕がやります!」
ざわついていた教室は、今最も聞たくもない声で一掃された。私を含むクラス中の視線が、隣の人物に注がれる。
まさか。これは幻聴じゃないの?
「た、田島君のか、変わりに……ぼ、僕がやります」
幻聴ではない。今はっきりと言った。そいつの口が動き、言葉を発するところを肉眼で見たのだ。
マジでやるの? 北山が? 三日前まで人生諦めていた、あの北山が?
度肝を抜かれるとはまさしく、この事を言うのだろう。私はしばらく北山から目が離せなかった。
「おー、北山やってくれるか。他のみんなも問題ないな?」
「え……」
クラスのみんなも驚きのあまり、言葉を失ってた。岡だけは北山へカメラを向けて、その珍しい光景を激写していたが。室尾はクラスの沈黙を良しと捉えたのか、淡々と話を進めていく。
「なら北山、任せたぞー。それじゃ早速だが、ホームルームが終わったあと、後で浅倉と一緒に、教室にプリントを取りに来てくれ」
「は、はい、わかりました」
「それと、岡! お前は何度言ったらわかるんだ! それ、没収だ!」
室尾はつかつかと岡に歩み寄り、剥ぎ取るようにしてカメラを奪った。
「あーっ、やめてくださいよ先生! せっかく新聞部にタレこめる一週間分の飯ネタをゲットしたのに!」
「お前もあとで、職員室に来い。いいな?」
「いいですけどー。ならせめて愛しのギャノンちゃんに別れのベーゼを……」
「あほか!」
カメラに向かって唇を突き出す岡に、室尾の拳骨が脳天を直撃。心なしかカランと音がした。
たちまち教室は爆笑に包まれた。北山の一件が始めから無かったかのようだ。浅倉さんだけは顔面蒼白で、華奢な体を小刻みに震わせていた。
今まで全てを掌握してきた私が、何故他人に翻弄されているのだろう。岡や朝野、そして洗脳させるには楽勝だと思っていた北山までもが、予想の範疇から大きく外れることばかり起こしては、私の気分を害してくれる。
私は吐き出すようにため息を漏らした。もうこれ以上この三人とは絡まない方が良いのかもしれない。いや、そうしよう。それが一番ベストな選択。
だが、そう思っていたのも束の間だった。
「み、南さん。ちょっと、いいかな?」
「はい?」
朝のホームルームが終わった直後、北山のほうから私に声をかけてきた。このまま無視しようと思ったが、北山が発した音量が大きかったようで、周りの生徒たちからの視線が痛く突き刺さる。到底、無視などできなかった。
「なんでしょう?」
私は亀裂の入った笑顔で答えた。
「えっと、きょ、今日の昼休み、ちょっと時間、もらえるかな? ちょっと、は、話したいことがあるんだ」
え? どういうこと?
私はすぐに北山の真意を探ろうとした。あれだけ痛めつけられても尚、私に話しかけてくるということは、私を必要としているということだろう。それにこの恥らいながら言うそのセリフ。今までの経験上、告白のテンプレートそのものだ。
まさか、ね……
「はい、構いませんよ」
心の奥底でニヤリと笑った。
「あ、ありがとう。じゃ、じゃあ、いつものところで」
「わかりました」
私に要件を告げると、北山は浅倉さんと一緒に職員室へと向かっていた。一緒といっても、浅倉さんは北山の三メートル後ろを歩いているのだけど。
すぐに他の男どもが私のもとに群がった。北山のことを聞きたそうな顔をしていたが、私が情報を与えない。与えてやらない。うまくはぐらかし、別の話題へとすり替える。ちょろいものだ。
さて、北山は何を言ってくるのだろうかな。
すでに告白されることを前提に、私は北山を地獄へ陥れる作戦を練っていた。
彼女のその自信はほんとすごいと思います。
見習うんだ草食系!




