北山黒羽2
頬をくすぐる新緑の風。空を見上げると、美しいコバルトブルーが広がっている。
僕、北山黒羽は、グラウンドの端にある積み重ねられた土管の上に座り、楽しそうにサッカーをしているクラスメイトを眺めていた。
今は四時間目の体育の授業。といっても、決められた各競技を自分たちで選択し、各々が適当に始めるといった、ほとんど遊びのような授業だ。今学年の担当の先生は、はなからやる気がないようで、授業時間になってもグラウンドにすら出てこないという暴挙を遂行中だ。本当に公務員資格を持っているのだろうかと疑問に思うけど、そのおかげで自由に行動できるから、クラスのみんなにとってはこれ以上とない至福の時間なのだろう。
でも僕は違う。
こうしてただ座って、遠くからみんなを見ているだけだ。学年が変わってから一度だけ、あの輪に入ったことがあったけど、それは競技を冒涜していると言ってもよいほど、ひどい内容だった。
そう、僕がいる時点で試合にならなくなるからだ。みんな僕の外見を恐れて、誰もドリブルを止めようとせず、キーパーですら道を開けていく。がら空きになったゴールに一人で蹴り込んで、一体何を楽しめというんだろう。
あんな惨めな思いはもう二度と味わいたくなかった。だから僕は毎週ここに座り、一人で時間をつぶすんだ。
それは丸一日を消費している感覚に陥るほどの、拷問の五十五分。まだ教室で苦手な数学の授業を受けていたほうが、どれほど気が楽なことか。僕にとっての自由とは、この身を束縛される事とそう大差ないものだった。
深いため息を一つ。僕は何気に辺りを見回してみた。からかい合いながら、お笑い番組の話で何かと盛り上がっている男子。木陰では友達と恋の話に花を咲かせている女子。
――くそっ、どいつもこいつも、悩みなんてなさそうな顔をして――
僕の心に、いつもの黒い霧が淀みはじめた。今日こそは僕を食ってしまわんとばかりに、闇は不気味に、そして徐々に精神を侵食していく…………危ない!
僕は慌てて首を横に振る。
だめだだめだ。呑まれちゃだめだ。顔でも洗って気持ちを切り替えないと。
立ち込める暗黒を振りほどき、僕は水のみ場へと駆け出していった。
身に宿った憑き物を洗い落とした後、体操着の袖で顔を拭った。肺いっぱいに大きく息を吸い込み、どうにか心を落ち着かせる。
いつもこうだ。少しでも気が緩むと、あの恐ろしい闇に呑まれそうになる。もっと、心を強く持たないといけない。『その人』の言葉は、きっと僕を正しいほうへと導いてくれるはずだ……
気持ちを切り替えようと、両手を組んで伸びをした時だった。校舎裏のバスケットコートがやけに騒がしいことに気づく。野太い歓声と黄色い声援が入り混じり、僕の耳へと届いていた。どうしたんだろう。今日は珍しくバスケットに注目が集まっている?
不思議に思った僕は、コートへと続く校舎脇の路地を右へ曲がり、様子を伺った。そこには、目を見張るばかりの生徒たちで埋め尽くされていて、体育の授業始まって以来の、かつてない熱気で溢れていた。
一体何が――
僕はそばにある小高い塀によじ登り、見下ろすようにして内部を覗き込んでみると――
「あっ……」
情けない声が無意識にこぼれた。視界に飛び込んできたのは、女子バスケ部の主将であり、私立泉州高校のアイドル、朝野露子先輩の姿だった。そういえば確か、今日の体育の授業は他のクラスと合同でやるからと、担任の先生がホームルームの時間に言っていたことを思い出した。でも、それが先輩のクラスだったとは。
予想にもしていなかった出来事に、僕の心臓は破裂しそうな勢いだ。鼓動が高鳴り、全身の血液が暴れ出していた。男子生徒のみならず、誰からも愛される先輩に恋焦がれるのは、孤独の淵に立たされている僕も例外ではなかったからだ。
塀の上に座り込む。ボールと戯れる先輩を身近に感じながら、呼吸をする余裕もなく、ただひたすらと彼女を目で追っていた。
少し癖のある、ウェーブがかった亜麻色の長い髪がふわり、と跳ねた。追い風に乗り、軽やかにボールを受け止める先輩。マシュマロのように白い、木目細やかな肌がうっすらと流れる汗と重なり、薄く輝いていた。細身の体を渾身に曲げ、スリーポイントシュートの体勢に入った。
僕より一つ年上とは思えないほどの可憐で愛らしいその容姿は、真剣な表情ですら、見る人の心をピンク色に染めてしまう。そして度々シュートを阻止されては、ちょっぴりすねるその顔。身悶えるほど、かわいい。
再びボールが先輩に渡った。今度はセンターラインで余裕の笑顔。ギラついた庭に、一輪の向日葵が蕾を開き始めた瞬間だ。
そしてそのままシュートのモーションへ。同時に、コートを取り囲む生徒たちから大歓声が沸き起こった。この学校で誰もが一度は目にすることになる、先輩だけの必殺技。その発射準備に入ったんだ。
残り四人の仲間は、先輩を完全護衛。迫り来る敵を次々に弾き飛ばす。篭城の壁だ。
中央にいる先輩はというと、高い場所から見ても消えたように感じるほど、膝を大きく曲げてしゃがみ込んでいた。初めてボールを手にした幼い子供がシュートをする時の体勢と同じなのだけど、そのくりっとした大きな瞳はしかと目標を捕らえていた。
「えい」と、蚊も殺せないか弱い発生音と共に、小さい掌からボールが放たれた。鮮やかに、そして優雅に。空中遊泳をするかのように、滑らかな弧を描いていく。誰もが生唾を飲み込み、妖精の行く末を見守っていた。
そして、林檎にナイフを突き刺した時の、爽快な音が静寂を切り裂いた。これぞ先輩の真骨頂。プロの選手すら顔負け、十中八九の成功率を誇るロングシュートだ。校舎をまたいで一般の民家にまで響いてしまうほどの歓声が、辺り一面に木霊した。
こぼれ落ちそうな満面の笑み。太陽の光を存分に浴びた向日葵は満開に咲き誇っていた。
観客に向かって、「ぶい!」と、右手でかわいらしくWサインをだすのは、もはやお約束。噂によるとWINの略らしいけど。なにをともあれ、やっぱり――
かわいい。
その仕草。その顔。その声――彼女をとりまく全てが愛くるしい。先輩と恋人になれたのならどんなに嬉しいことだろうか。きっと僕が今抱えている重大な悩みですらも、大海に埋もれ行くことは間違いないだろう。
でも、所詮叶わない夢だとわかっていた。もし僕が話かけたりでもしたら、たちまち向日葵を枯らしてしまうのは目に見えている。先輩を傷つけてしまうぐらいなら、この首を撥ねて自害したほうがまだマシだ。
好きな人と会話をしたいと、願望を持つ事自体が儚いということを、僕はこれまでの人生で身に染みるほど体験していた。僕と先輩の距離は、太陽と冥王星ぐらい遠いものだ。天変地異でも起こらない限り、僕たちが近づくことなんてあり得ない。
それでも、いいんだ。
先輩を見ているだけで。それで少しでも自分が救われるのなら……
僕は右手で頬杖をつきながら、霞む視界の先に映る先輩を、胸が詰まる思いで見つめていると、そこに群がるハチの中に、黒い光沢を纏った、一際怪しく光るクマバチが目に留まった。一眼レフのデジカメ片手に妙な動きをしているのは、『馬鹿を極めた馬鹿』と称される、クラスメイトの岡武志だった。
馬鹿とはいっても、彼の人気もまた計り知れない。見た目はそう身長は高くはないし、とても時化た顔つきをしているが、その屈託のない笑顔に、なぜか憎めない常識を逸した行動がみんなに受けているんだと思う。こうやって授業中でもお構いなしに写真を取りまくっては、自分で勝手に実況をして、即座にお祭りムードへと仕立て上げるその天性たる才能には驚きを隠せない。
先輩も先輩で、サービス精神大盛というか、人間が出来ているというか、彼のリクエストにしっかり答えてポーズを作っていた。
ああ、彼のカメラになりたい……
しかし、それも長くは続かないわけで、快く思わない生徒たちがすぐに先生へと通報し、岡武志は耳を引っ張られながら職員室に連行されていった。
まわりは爆笑の渦。だが、僕にはどこに笑える要素が含まれているのか見当もつかずにいた。
岡武志の頭の構造は今一つ理解に苦しむところだけど、人目もはばからずに自分の好きなことを平然とやってのける――その天地を揺るがすほどの圧倒的なパワーに、僕は先輩とは別の意味で、憧れのまなざしを向けているのだった。
章の区切り方がよくわからない……




