岡武志5
急用が出来たことを岡武志に話すと、撮影はまた後日でいいのでそちらを優先してくれと、快く了承してくれた。岡武志と別れた僕は、今、駅前の喫茶店『ボヤージュ』の前で、ドアノブに手を掛けたり離したりを繰り返し、くすぶっている。
(大事な話があるの。今から言う場所にすぐ来て)
と言われて目的の場所までやって来たものの、喫茶店にすら入ったことのない僕にとっては、一般人と同感覚で、気さくに店内へと入ることなど出来なかった。目の前にあるのは異世界の扉。一歩踏み出す勇気がいるわけだ。
だけど、あの優歌が。僕が謝るまで決して自分を曲げない優歌からコンタクトを取ってきたのには驚愕だ。いつものようなつっかかった声ではあったけど、どことなくよそよそしい口調だったため、内に秘めるものがあるのだとすぐに気付いた。大事な用事というのは本当だろう。
大きく息を吸い込む。ためらい混じりで喫茶店のドアノブに手をかけ、中へと入っていった。
目に飛び込んできたのは、茶褐色の世界だった。ウッド調の壁に椅子、テーブル。さりげなくおかれている黒電話。モダン調で統一された空間は、昔、ブラウン管で見た刑事ドラマで、刑事たちが情報交換をする時に入る喫茶店と良く似ていた。そのせいなのか、刑事ドラマ好きの僕も何だか初めて来た所ではない気がして、自然と緊張も解れていった。
さっそく優歌を探そうと店内を見渡す。
「クロ兄、こっち」
すぐ奥の窓際で、優歌が気だるそうに手招きしていた。僕は軽く手を挙げ、優歌が座っているテーブルへと歩み寄ると、そこには思いがけない人物がもう一人座っていた。
マサト君だった。視線を膝に落とし、僕の方を見ようともせず俯いている。しかし、どうして彼がここにいるんだろう。優歌とはもう別れたというのに。
「ほら、早く座ってよ」
「う、うん」
驚きのあまり、体が硬直していたようだ。優歌の声で我に返り、体を竦ませながら椅子に腰をかけた。
「コーヒーでいいよね?」
「え? うん。それでいいよ」
「わかった」
優歌は店員を呼び、コーヒーを一つ注文すると、自分の飲み物に口をつける。僕から目を逸らし、眉間にしわを寄せて、ストローの先を人差し指でくるくると回し始めた。普通は退屈凌ぎに起こす仕草だけど、それは優歌が何か言いたくても切り出せない、昔からの癖だということを、僕は知っている。だからこそ、沈黙のまま三人で卓を囲んでいるこの空気が、一層と重く圧し掛かってきていた。
そもそも、僕を緊急に呼びだした理由が全く読めない。二人は僕に何を言うつもりなんだろう。まるで裁判官の審判が下るのを待つ、罪人のような気分だ。
空気が冷たい。こめかみを伝う汗が、僕の制服を濡らす。喉はカラカラだ。
やがて、注文したものが僕の前に置かれた。せめて身体だけでも温めておこうとコップに手をかけた。が、想像とはかけ離れた温度差に、体が震え上がった。
まさかのアイスコーヒー。僕はホットが飲みたかったのに……
二人の様子を伺う。相変わらず変化はない。話す気があるのかすら分からなくなってくる。もう、この氷河期の中で身体の芯まで凍えさせていくのはごめんだ。僕のほうから、この状況を打破するキッカケを作らなくては。
「あ、あのさ……」
決死の覚悟で口を開いた時と、ほぼ同時だった。
すくっとマサト君が立ち上がった。僕を見ようともしなかった瞳は今、僕をはっきりと捉えていた。以前会った時の怯えた表情ではなく、瞳の中には強い意志を宿して。突然見下ろされる格好になり、僕は驚きと恐怖の両方の感情が押し寄せてきた。
何か彼を怒らせるような事をしたんだろうか。もしかして、僕から何か言うのを待っていた? それとも、恐ろしいのは僕の顔だけだと分かり、苛立っているのか?
今度は僕の方が俯いてしまった。
何が何だかさっぱりだ。だけど、今回も僕が原因だということだけはよく分かってしまう。ここはとりあえず謝っておいて、彼を落ち着かせよう。
「すいませんでしたっ!」
喫茶店で午後のひとときを満喫していた客たちが、しんと静まった。天然記念物でも見るかのように、全員がこちらを覗き込んでいる。それほどの大音量を発して謝ったのだ。
――マサト君が――
「俺……お兄さんのことをずっとヤクザだとおもってて……学校のみんなに聞いてみてもそうだと言うし……だからユウと、あ、いや、優歌さんとも距離を置こうって決めたんですけど……」
「はい?」
震える腕を押さえつつ、彼はその後の言葉を懸命に探している。何を言い出すのだろうと、僕は彼の口の動きを目で追った。
「でも、その……あの……ずっとお兄さんの事を誤解したままだと分って……だからその、つまり……」
「え? つ、つまり?」
「ヨリをもどした」
隣でストローの先を弄んでいた優歌が割って入った。
「え? ほ、本当?」
「何で嘘をかなきゃならないのよ。本当よ。文句ある?」
「いや……」
とんでもない。
文句どころか嬉しいに決まっている。そうか、元の鞘に戻ったんだ……本当によかった。その一言を聞いて、恐怖で支配されていた心が解き放たれていくのが分かった。でも、事の原因は僕だったのに、どうしてまた元通りに?
それに、よく考えるとマサト君が僕に対して謝る理由も分らない。マサト君とはあの朝、初対面で挨拶を交わしたけだし、僕にとっては彼に不快感を与えられたりした覚えもない。ヨリが戻ったとしても、優歌が自宅で直接僕に伝えてくれれば済むことじゃないか。
「でも、どうしてまた?」
「そ、それはですね、実は……」
「あー! あー! ストップ! まーくんは謝るだけで余計なこと言わないでいいの!」
優歌が慌てて彼の袖をひっぱり、言葉を遮断させた。こんなに慌てた優歌を見るのはいつぶりだろう。
「べ、別に理由なんてないんだからねっ! ただクロ兄はもう気にしなくていいってこと。変な詮索はやめてよね」
気にするなと言われても、目を泳がせながら話す優歌を疑わずにはいられない。納得できずに探りを入れようと口を開いた矢先、優歌は自分の鞄を肩にかけて席を立った。
「話はそれだけ。それじゃ、わたしは先に行くわ」
「え? ちょ、ちょっとまだ話が……!」
「まーくん、後はよろしく」
呼び止める僕の声を完全に無視し、優歌はそそくさと一人喫茶店を出て行ってしまった。僕の挙げた右手は行き場を失い、やがてだらりと重力の赴くままとなった。自分から呼び出しておいて、言いたい放題しゃべって去っていくなんて、あまりにも傍若無人すぎる。
僕は困ったように頭を掻きながら、テーブル前のマサト君と向き合った。興奮していた彼はすでに落ち着きを取り戻していて、今は椅子に座っている。照れくさそうな顔で「どうも」と小さくお辞儀をした。
「あんなワガママな妹でごめんね」
謝られた僕がなんだかバツが悪く、マサト君に頭を下げる。
「そ、そんなことないですっ! 優歌さんは兄思いの心優しい女性です!」
「まさか。それはないよ」
僕は首を横に振った。優歌が兄思いだなんてあり得ない。家ではあからさまに僕の事を避けているというのに。きっと僕に対して気を使った一言なんだろう。
「やはり理解し難いですよね……優歌さんもその事で悩んでましたし」
「うん。ずっと僕の事を嫌っていると思っているからね……って、えっ? 優歌が悩んでた?」
「はい」
どういうことだ? 僕の頭の中は途端に散らかった部屋のように混迷してしまった。。
彼の話から察すると、優歌は僕に対しての酷い態度で悩んでいたという事になる。でもそれって、僕がマサト君と会う前から悩みを打ち明けていたということなんだろうか?
いや、もしそうだとしたらあの時、マサト君は恐怖することもなかっただろうし、僕が原因で別れるには至らなかったはず。そもそも優歌が僕の事で悩んでいる事自体が疑わしいわけで……
ああっ、ますます混乱してきたぞ。
しばらく頭を抱えてうな垂れていると、それに耐え兼ねたのか、彼は喉の奥から声を絞り出すようにして話し出した。
「……実は優歌さんに口止めされていたのですが……僕もこのままではやっぱりいけないと思いますし……今までの出来事を全てお話します」
「あ、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」
「でもほんと、優歌さんには絶対に言わないようにお願いします」
「うん。分かったよ」
彼はアイスコーヒーを手に取り一口啜る。軽く呼吸をして僕へと視線を向け直すと、やがて堰を切ったかのように、事の経緯を打ち明け始めた。
お姉さん! ビシッ!(親指を突き出して)
「エメマン!」




