岡武志3
岡武志は、あれから教室で僕を撮ろうとはしなかった。話かけてもこない。目線は度々交差したけど、合うや否や、彼は白い歯を見せながらピースサインを繰り返すばかり。僕を笑わせたいのか、それとも別の何かを伝えたいのか、意図が全く掴めないまま、一日の終わりを知らせる合図が鳴った。
窓際の外には、雲間から広がる黄色いカーテンが姿を表している。岡武志の言った通り、雨は止んでいた。天気予報までこまめにチェックしているとは、彼のカメラに対する執着心は計り知れないものだ。
そう言えば、南さんとも朝から一言も会話をしていない。一時限目を終えた後から、彼女は自ら積極的に男子生徒の輪に入り、会話を弾ませるようになっていた。写真の事を話しておきたかったんだけど、とても声をかけられる雰囲気でもなく、僕はただその場をやり過ごすことしか出来なかった。
だから、せめて最後の挨拶ぐらい言っておこうと、南さんの方へと顔を向けたんだけど――今日も帰りのホームルームが終わったと同時に、彼女は神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消していた。僕は溜息に似た吐息を漏らし、また後日にしようと強制的に心を切り替えた。
これから撮影が待っている。モチベーションが下がっては元も子もない。はしゃいでいた岡武志に迷惑をかけてしまうし、僕自身も彼の期待を裏切るような真似は絶対にしたくない。
僕は鞄を握り締めた。彼との約束の場所へ急ごうと席を立った、と同時に、前方からカメラ道具を脇に抱えた岡武志が声をかけてきた。何が入っているのか想像できないけど、見た目はかなりの重量がありそうだ。
「よっしゃ、北山! さっそく行こうぜ」
岡武志が爽やかに手刀を挙げる。
「お、岡君……下駄箱で待ち合わせはどうなったの?」
「あれ? そうだっけ? まあいいじゃん細かいことは。どうせ同じクラスなんだしさ」
――やっぱり忘れていたのかよっ!――
なら授業中の僕に対するアピールは、一体何だったんだろう。彼の思考を理解するのは、高精度を誇るプロファイリングを用いても不可能かもしれない。発言主がこんな事で大丈夫なのかと、不安が押し寄せてくる。
「そんな顔すんなって! さあ、行こうぜ!」
「う、うん……あ」
また腕を掴まれ、覚束ない僕の足取りを加速させながら、下駄箱へと向かっていった。彼の体力は底なしなのだろうか。撮影道具を抱えながら、いやらしいほどの笑顔だ。毎度のこと突拍子もない行動で、撮影前から僕の方が気疲れしてしまいそうだ。
下駄箱で靴を履き替え、校舎を出た。岡武志はスキップしながら先陣をきる。いつにも増してテンションが高い。
「岡君、一体どこに行くんだい?」
「ふふふ、良いところさ。とりあえず俺の後について来てくれよ」
そう言って、振り向きもせずに親指を突き出した。自信に満ちた行動ではあったけど、やはり目的地を知らされないと心の準備もままならない。僕は怪訝に彼の背中を見つめ、重い足取りで歩き始めた。
校門を出て桜並木のトンネルをくぐり抜けた後、右手に伸びる道路沿いを進んでいく。僕がいつも歩いている通学路だった。道路を挟むようにしてずらりと民家が立ち並んでいる、何とも味気ない景色だ。
しばらく進むと、目の前を横切るように信号機が設置された二車線道路が現れた。いつもの家に帰る感覚で信号の押しボタンに手を掛けたけど、ふと気づけば、岡武志は右の角を曲がり、真っ直ぐ続く緩やかな坂路を突き進んでいる。人差し指を引っ込め、慌てて彼の方へと歩み寄った。
僕が生まれ育った街だ。地理は意識せずとも頭に入っている。この先にあるものと言えば、市が売出し中の住宅地と、泉城湖畔公園ぐらいしか存在しない。僕を笑わせるために、公園などという何も無い場所には行かないだろう。そう思っていた。
しかし、岡武志が進む方向は、明らかにその場所だった。そして、歩みを止める。
「よっしゃ、着いたぜ! さあさあ、中に入ってさっそく撮影開始だぜ!」
僕の予想を完全に裏切ってくれた。泉城湖畔公園だ。
目の前には赤レンガが規則正しく埋め込まれた歩道が、園内の奥へと伸びている。周りは木々たちが鬱蒼と生い茂り、気味悪く映る深緑が、園内へと踏み出そうとしている僕の足を躊躇させた。
「ぼーっとつっ立ってないで、行くぜ!」
背後に回り込んだ岡武志が、両手で僕の背中を押すことで、ようやく園内へと進むことができた。
「お、岡君。公園にきて、一体何をしようとしているんだ?」
「まぁまぁ、奥まで行けば分かるさ」
岡武志はカラカラと笑った。
この泉城湖畔公園は、地元でも定番のデートスポットだ。通路脇には花壇が設けられていて、複数色が混じったパンジーが咲いている。このフラワーロードが、恋人たちの雰囲気を徐々に高めていくのだろう。この道の突き当たりまで行くと、穏やかな湖が広がっていて、数隻のスワンボートがひょっこり顔を出す。それに乗って、二人きりの世界へ旅立つわけだ。
思わずこちらが赤面してしまいそうな所を今、僕たちは歩いている。それも、若い年頃の男が二人きりで……
背中にゾクリとしたものが走った。まさか、岡武志の撮影という話は嘘で、『そっち』のつもりで僕を誘ったんじゃないよね?
そんなことを思いながら歩いていると、
「ほら、あそこだぜ!」
と、岡武志は公衆トイレを指差した。まるで僕の身体にヒビが入ったような感触が、全身を襲う。
「ちょ、な、なんでトイレ……」
「何でって、撮影に決まってんじゃん?」
「だから、どうしてトイレで撮影なの? まさか、こ、ここで、お、押し倒そうとしているんじゃないだろうね?」
「ん、確かに押し倒すシチュエーションもあるかもしれんが、それとこれとは別」
「何が別なんだよ! 一緒じゃないか!」
やばい。マジでやばい。
岡武士はきっと、ここで僕を辱めようとしているに違いない! 僕のあらわな姿を撮影して、『そっち』方面のマニア層をターゲットに、ネット配信でもする気なんだろう。
「いや、だからさ、ムフフなシチュエーションはあるが、撮る相手はあくまでも北山だってこと」
「やっぱり! 岡君は襲おうとしているんだな? 僕をだまして、恥ずかしい写真を撮ろうとしているんだろう」
「まあ確かに、本音を言ってみれば? めっちゃ撮りまくってパソコンに永久保存しておきたいんだけどな。そこまですると俺、逮捕されちまうからさ。犯罪には絶対に手を染めねぇし。だから、安心しなって」
「だったら君は、何を撮ろうとしてるんだよ!」
「さっきから言ってるじゃん。北山だって!」
「言ってる意味が全然理解できないよ! 今、君は撮らないって言ったでしょ?」
「あーもう、だからそれとこれとは話が違うって言ってるだろ!」
「一緒じゃないか!」
だめだ。まともに会話すら出来ないほど、彼の思考はぶっ飛んでいる。自分の欲望を満たすことしか考えなくなると、人というものはこうも容易く本能を剥き出しにするものなのか?
「ええい、ガタガタうるさい! とりあえず来てみろって! 楽しい事が起こるからさ」
「や、やめ……むがが……」
岡武士はその豪腕で、僕の首元を絞めつけた。獣相手に僕の貞操を奪われてたまるものかと抵抗をしたけれど、どんなに暴れようとも彼の腕の力は緩まない。このまま僕は彼の餌食になってしまうのだろうか。ずるずると僕を引きずり、公衆トイレの方へと近づいていく。
「いいか? 静かにしてろよ?」
その目は、獣を追うハンターの如く鋭い眼差しだ。
公衆トイレ入口まで後数メートル。
――もう、だめかもしれない――
そう諦めかけた時だった。岡武志はくるりと方向を変え、公衆トイレの裏側へと回り込んだ。
他の人が個室に入ってフン闘していたら、臭いがダダ漏れですね。
食事中の方ごめんなさい。




