喰憶蛾
感情。それは一体なんだろう。世界はその感情の揺らぎを許さなかった。いや、世界ではなく、ただの一国の政権が許さなかっただけなのだが、その国に住む人はそれを世界の意思と受け取った。
その国では、「喰憶蛾」という生物の研究が進んでいた。それは、夜中花の都という対処不可特別危険区域に生息する蝶々で、体長は1メートルほど、人間の記憶を吸い取って生命活動を維持するという生態をしている。国の機関はその「記憶を吸い取る」という行為に着目した。その行為には必ず「感情の吸い取り」も付いてきていたのだ。確かに、記憶とは感情と密接に結びついたものであるから、記憶を吸い取れば感情も吸い取られるのは自然であろう。
そして、国は喰憶蛾を使った研究を始めた。その特異性を活かし、なんとかして便利な焼却機を作成しようと躍起になった。その過程で、何度も失敗作が生まれた。それらは皆殺処分された。どれも皆、歪んだ欲望を持っていたからだ。しかし、噂によれば、その中のうち数体は逃げ出したものがいるらしい。真偽は定かではないが。
そして長い月日を経て、国は感情添削機を完成させた。それは、余計な感情を全て消し去るという装置だった。瞬く間にその国から感情を持つものは消え失せ、残ったのは「完璧な人間」だけだった。
しかし、それを逃れた人間もいる。国からの通達に恐れを抱き、その制度から逃げ出そうとした人間は、確かに存在した。
人気のない裏路地に、二人の夫婦が立っていた。どちらも服は汚れ、息を切らしている。どこからか逃げているかのように、夫はチラチラと視線を彷徨わせ、妻は目的地を探すために手に持った地図に集中していた。
「レネ、誰も来ていない?心配で仕方がないわ。」
「大丈夫そうだ、アンドレア。まだ追っては来ていないみたい。そっちは?正確な場所は見つかった?」
アンドレアと呼ばれた女性は、地図の左上の方にさらに顔を近づけ、そしてはっきり言った。
「見つけたわ。ここからちょっと行った場所に、あの場所はある。」
彼女が指差した場所を目にしたレネという男は、その区域を見て怪訝そうに眉を顰めた。
「う〜ん、本当にそこなんだね?だって、そこ、崩壊区域の中心じゃないか。なんでそんなところに楽園があるんだい?」
「考えても仕方ないでしょ、レネ。どうせそこに行かなくても、私たちは死ぬのと一緒なんだから!」
「そうだね、アンドレア。僕もそう思う。君を愛する気持ちが無くなるなんて、きっと死ぬのと一緒だろうね!」
二人は抱きしめ合い、覚悟の決まった表情で、その場所に歩き出した。
しばらくすると、二人はその目的地を見つけた。あたりはすっかり夜になっていて、月も顔を出していなかったが、その場所だけは淡く水色に光っていた。美しい蝶が飛び交い、幻想的な雰囲気を出している。夜空を反射する池が、夜中花の微細な灯りで波打っている。
「ああ………あれが、夜中花の都………本当に見つけたのね、私たち。」
「そうだ、僕たちは見つけたんだ………至ったんだ………楽園の地へ!」
二人は手を繋ぎ、その楽園へ走っていった。二人がその場所に入った途端、誰かが後ろから話しかけてきた。驚き振り返ると、そこには淡い雰囲気を纏う、若い女性が立っていた。水色と黄色の入り混じった髪は、周囲を舞う蝶のようだった。しかし気になる点とすれば、その女性の斜め後ろに、バツが悪そうな男性が視線をチラチラ動かしながら立っていることだった。
「あ、あの………あなたたちは一体………。」
アンドレアが先に切り出した。せっかくここまでたどり着いたのに、この二人が国の追跡者なら、全く意味をなさないからだ。しかし、その女性はゆっくりと首を横に振り、上品に礼をした。
「こんばんは、お客様。私、この場所の管理人、アウフと申します。どうぞ、ごゆっくりしていってください。」
夫婦はその「アウフ」という言葉に安心感を覚えた。そして、その人物が追っ手でないことに喜びあった。
「アウフさんってあなたのことだったんですね、安心しました、あの手紙を送ってくれた人が、まさかじきじきに出迎えてくれるなんて………。」
「全くです、本当に助かったんですよ、僕たち、きっと死ぬんだろうなって思って、それでも夢を捨てられなかったから、ここまで来たんです。あの手紙に、希望を持っていてよかった………。」
二人は早速持ってきた荷物を近くの木に立てかけて、池のふちに並んで座った。靴を脱いで、足を入れる。冷たさに少し体が固まるが、それも涼しさに変わった。
「いやあ、本当にいい場所だな………ここは。見てよ、アンドレア。空に星が浮かんでるよ。灰のカスで見えなかった夜空が、ここではこんなに綺麗に見えるんだ………。」
二人して夜空を見上げる。安心しきったのか、二人は体の力を抜いて、しばらく池のほとりで時間を過ごした。
「………そういえば、ああ、アウフさんはわかるんだけど、後ろにいた人なんだったのかしら?」
アンドレアがふと浮かんだ疑問を口に出した。しばし現実から離れていたレネもその疑問に頷き、それを解決するべく、二人は湖から足を出して、その男を探すべく周囲を彷徨った。
「あ、居たよ、あの男だ。話を聞いてみたら、もしかしたら僕たちみたいに逃げてきた人で、気が合うかもしれない。おーい、ジェントルマン、ちょっと話をしないかい?」
レネは声を大きくして、その男に話しかけた。その男は灰色の髪を無造作に伸ばし、場所に合わないようなスーツを着ていた。違和感は大きかったが、服を持ってくる暇もなかったんだろうと結論づけた。男はゆっくりと視線を夫婦に定めて、何かぶつくさ呟きながらやって来た。
「…ねえ、レネ。もしかしたら、あの人と私たち、あまり親しくなれないかもしれないわ………。
小声でアンドレアがレネに言う。ぶっきらぼうそうな男と、それなりにいい暮らしをしてきて、丁寧な所作のみについている夫婦では、感覚が合わないかもと思ったのだ。
「ああ、お二人さん。挨拶が遅れたな………俺はフェアラート。元、便利屋だ。今じゃあ、こんなところの管理を手伝ってるが………まあ、以後よろしくな………。」
疲れた顔で、右手を差し出す。若干の笑みを浮かべる努力はしていることが窺えるが、どうしても陰気な雰囲気が抜けておらず、その努力を台無しにしていた。
「あ、そうだね、よろしくね、フェアラートさん。僕はレネ、小さいけど、工房主だったよ。こっちは、アンドレア。僕の妻で、製薬会社の外交販売員やっててね、仲良くしていきましょう。」
レネとアンドレアはぎこちなく手を差し出した。まさか同時に出されるとは思っていなかったようで、フェアラートは頭を書いた後、なんとか両手を使って握手をした。どちらも硬い笑顔だった。
二人は寝泊まりするべく、いい場所を探した。ここには何もないので、泊まれるものを用意しておいてくださいと言われていたから、キャンプ用具を少ないながらも持って来ていた。そのため、平地が良かった。
「ここなら良いと思うわ。地面も硬いし、水場も近くにある………流石に獣は寄ってこないだろうし、虫も蝶が食べてくれるだろうし、きっと良いわよ。」
アンドレアはテントを張るのに適切な場所を見つけるとすぐ、用品のボタンを押した。すると、すぐに小さなカプセルが飛び出して、組み合わさっていって、そして大きなテントを作った。かなり高価なものだが、二人はそれなりに金を持っていたし、地べたで寝るのはあまり良い気はしなかったから、躊躇せず使用した。
そして二人は眠った。一体どうしてお忘れなのか、ここは喰憶蛾が住まう夜中花の都。どうして対処不可特別危険区域の怪物と共に寝られよう。二人の眠るテントに、ひっそりと近づく影があった。
「………さて、マスター。いったい今回はどうしますか………?また飛び起きさせて殺すのか…?」
スーツを着た灰色の髪の男が、隣に立つ白衣の女性に質問する。その女性は質問に対し簡単な返事を返した。
「いえ、今回はこのままにしましょう。今回私が欲しいのは愛の感情なの。恐れと絶望は要らないわ。」
「へいへい、そうですかマスター。………よっと。」
男はどこからか暗殺用の短剣を取り出すと、それを二人に向かって突き立てた。幸にして、毒は強力、一瞬にして二人は命を落とした。最後まで、笑顔で死んだ。男はそれを見てため息をついたが、女はその二人から漏れ出す何かを掴み取ると、それを食った。
「………やっぱり、そんなふうにしてるの慣れねえな………いったい何食ったらそんな音出るんだ。」
「記憶と感情よ。わかるでしょう?」
ノイズ混じりの機械音声だったり、誰か知らない人間の声だったり、そんな音を出しながら食われていく記憶を見るのは、まあ何とも不思議な気持ちだった。
「で、マスター、俺はこれからこの死体をいつものように処理すればいいんだよな。はぁ〜、心が痛む。」
頭を掻きながら、男は───フェアラートは───死体を湖に放り投げた。しかし、そのまま投げたのではない。そんなことしたら、水性生物の悪喰魚が死体を食べてくれない。だからフェアラートは、死体を切り刻む。この時でも、彼は疲れた顔と余裕そうな面持ちを崩さない。それが本当に何も感じていないからなのか、それともまた違ったものなのか、それはわからない。
フェアラートが下処理をして、湖に手際よく投げ入れているのを見て、白衣の女性───アウフ───が口を挟んだ。無表情で。
「あら、フェアラート、随分と上手くなったじゃない。最初来た時は、もっと酷い有様だったのに………成長するものね。何はともあれ、役立たずじゃなくなってよかったわ。」
そう言う彼女の言葉には抑揚もない、感情も滲まない。その声はどうしても苦手だった。なぜなら、共に暮らすことになってしまった彼女が、人間ではないと言うことをはっきり実感させられてしまうからだ。しかも、何の侮蔑の感情もなしに、きつい評価を受けていたと言うことを真正面から言われるのだから、尚更きつい。
「あはは、まあ、その評価は妥当っちゃ妥当だったな………。」
乾いた笑いで返す。そうだ、言い返すこともできない。だが、流石に俺がこの場所に入ってきた時の第一声があれで、訳もわからないまま召使ということにされて、どうしてまともな仕事ができるんだろうか。いや無理だろう。
時は遡る。フェアラートは何も考えずに、だだっ広い砂漠を歩いていた。砂漠といっても、砂が広がる、乾き切った場所ではなく、マトモな生命の息吹が全く感じられない対処不可特別危険区域のことである。ふらふらと何の目的もなさそうなその姿は滑稽というに相応しかった。そして、フェアラートは砂漠を歩いているうちに、鱗粉煌めく怪しげな場所に辿り着いた。
初め見た時、その場所はフェアラートにとって、非常に懐かしいものに思えた。どこか失ってしまったものの片鱗を感じ取ったからだ。それに引き込まれるようにして、彼はその夜中花の都に入って行った。
まず彼を出迎えたのは、懐かしい暖かさでも、煌めくような美しい景色でもなかった。彼を出迎えたのは手荒い暴力だったのである。
「あなたはいったい誰かしら。私はあなたをここに招いた覚えはないのだけど。」
左から、女性の声がした。とても優しいなどとは思えないような、尖った敵意剥き出しの声だった。しばし応えることも忘れ、声のした方を見ていると、突然右目に鋭い痛みが走った。熱い釘をそのまま突っ込まれているような耐え難い痛み。間違いなく出血はしていただろう。
「………お前、一体誰だ?何で俺はここにいる?ちょっと待て、訳がわからないんだ。招いた?何の話だ?まさか、ここは人間ホイホイみたいn───」
膝裏、いや、足の膝下が無くなったことを感じた。今まで体を立たせていたものが無くなってしまったため、体は前に倒れる。
「早く誰だか答えなさい。良い?私はあなたみたいに会話を楽しむ気などさらさらないの。それに、無駄な時間は過ごしたくない。」
「ああ、わかった、答えるから。───俺の名前はフェアラート、職業は便利屋、独り身だ。全くいったい何でこんなことになっちまったんだ?俺はただ夜の散歩をしていただけなんだ、なのに何でこんなふうに───」
両腕が持っていかれる。また、体の一部を失った。痛みは強い。意識が朦朧としてきたのを感じる。
「無駄な時間を使うなといったはずだけど?はあ、全く、聞き分けが悪いのね。どうやってここに入ってきたの?」
「なんか暗い砂漠を歩いてたら───ここにいつのまにか───。」
着いていた、その言葉を口にする前に、ものの見事に意識を手放した。がくり、とスイッチが切れたように視界がブラックアウトする。
「………気絶したわね。はあ、面倒なことになったわ………。」
暗がりから目を覚ます。目の端で、蝶がひらひら舞っている。
「目が覚めたかしら?」
「うおっ!」
あの声が上の方から聞こえてきたことに驚き、飛び起きた。そこには先ほどフェアラートの四肢をもぎ取った女がいた。即座に立ち上がり、臨戦体制をとる………と、ここで違和感に気づいた。
「………あれ、立ててる?」
先ほど失ったはずの足が生えている。一体なぜだろうか。怪物の力かなんかでくっつけたのだろうか。
「ああ、それはね、喰憶蛾の力よ。再現、ってことになるかしら。とにかく、ここに入ってきた時のあなたの状態を記録しておいたの。そして手足を再現してくっつけた、という感じね。」
「いや、本当に怪物の力かよ………。」
「何か問題でも?」
「いえ、ないです、すんません。」
全力の食い気味な否定に、目の前の女はため息をついた。呆れているのだろうか。そして、微笑を浮かべてこちらに手を差し出した。
「私はアウフ。ここの管理人よ。これからよろしく、フェアラート。」
こちらも息をこぼす。何が何だか、ここまで早く物事が進むと疲れるんだな。ともあれ、この状況で握手を求められて返さない馬鹿はいないだろう。差し出された手を握り返す。
「ああ、よろしく………管理人さん。」
管理人。なんだか、その言葉を口にすると気分が悪くなる。
「………いや、申し訳ないんだが、管理人じゃなくて、マスターって呼んでもいいか?いや、これは俺の都合だかr───」
「良いわよ。そんな些細なことで業務が早くなるなら、許可しないわけないでしょう?」
「……そうか、ありがとう、マスター。」
俺は感情を否定する。




