第7話 肩に触れた手の温度
検品の前日。私は工房で最後の準備をしていた。トーマ老師の設計図の模写、宮廷工房の標準回路との比較資料、自分の工房で制作した並列回路の実測データ。すべて数字で語れるように整えた。
前世の社畜時代に叩き込まれた「資料は事実と数字だけで構成しろ」という鉄則が、こういうときに生きる。感情は排除する。主張ではなく、事実を並べる。結論は読む人が出せばいい。
と、扉が開いた。ノックなし。トーマ老師が立っていた。白髪の小柄な老人。片目に魔道具製の義眼を嵌めている。今まで一度も会ったことがない。だがノートの筆跡と、義眼の精巧な造りで、すぐにわかった。
「お前がリーゼルか」
「はい。あなたは──トーマ老師」
「ノートを読んだな」
「はい。勝手に申し訳ありません」
老師は手を振った。謝罪に興味はないらしい。彼は工房の中に入り、作業台の上の模写を一瞥し、私が作った携行灯を手に取った。目を閉じ、長く触れた。指先で回路を辿るように、ゆっくりと、丁寧に。
一分ほどの沈黙のあと、老師は目を開けた。義眼のほうの目が、かすかに光った気がした。
「並列回路を実用化したのか。わしが三十年前に論文を書いて、却下された技術だ」
「老師の論文は読めていません。独自にたどり着きました」
「……ほう」
老師の口元が、わずかに緩んだ。笑みと呼ぶには硬いが、不機嫌ではない。技術者同士が通じ合う瞬間の、あの独特の空気があった。
「明日の検品。お前、儀式杖に疑義があるのだろう」
「はい」
「わしも同じだ。あの杖は、わしの設計を表面だけなぞった偽物だ。回路の深層構造を理解せずに作れば、短期間で魔力飽和を起こす」
魔力飽和。回路が許容量を超えた魔力で溢れ、暴走する現象。祝典の最中に起これば、周囲に被害が出る。杖を握っている人間はもちろん、近くにいる者すべてが危険にさらされる。
「老師、明日の検品に来ていただけますか」
「元筆頭技師の立場で口を出せば、ただの老害の嫉妬に見える。だが──」
老師は懐から小さな木箱を出した。中には精密な測定器具。魔力飽和度を数値で計測する装置だった。老師自身の手で作られたものだと、一目でわかる精度だ。
「これを使え。わしの名前は出すな。数字で語れ。──お前なら、できるだろう」
私は木箱を受け取った。ずっしりと重い。三十年分の技術と矜持が詰まっている気がした。この人は、自分の名前ではなく、事実が勝つことを望んでいる。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。工房の炉を使い続けろ。あの炉は、腕のある職人にしか応えん」
老師は来たときと同じように、ノックもなく去っていった。小柄な背中が鍛冶通りに消えるまで、私は扉の前に立っていた。
◇
検品の当日。夜明け前に目が覚めた。工房の前に、セルジュが立っていた。今日は書類を持っていない。代わりに、監査部の正装を着ている。濃紺の上着に銀のボタン。普段とは別人のように見える。
「早いですね」
「監査官は検品より先に会場に入る規定だ」
規定。この人は規定を盾にして、心配で早く来たことを隠す。わかっている。わかっているけれど、指摘はしない。
二人で鍛冶通りを歩いた。朝の空気が冷たい。息が白い。無言のまま、王都の中央通りに出る。石畳に朝露が光っている。
セルジュが、少しだけ歩幅を緩めた。私の歩幅に合わせている。無意識かもしれない。けれど、前を歩く人ではなく、隣を歩く人の距離感だった。その些細な変化が、思いのほか胸に沁みた。
「緊張しているか」
「……少し。でも、準備はしました」
「お前の準備は信用している」
信用。彼はその言葉を、事実と同じ重さで使う人だ。軽々しく信じるとは言わない。だからこそ、その一言が重い。胸の奥が、じんと温かくなった。
返事はできなかった。代わりに、少しだけ歩幅を広げた。彼の隣を、遅れずに歩くために。
宮廷の検品会場に着いた。広間の中央に、祝典用の儀式杖が台座に据えられている。金と白銀の装飾。一見すると壮麗だ。だが私の目は装飾ではなく、柄の部分から透けて見える回路のラインを追っていた。
(銀糸の配置が不均等。負荷が一点に集中する構造になっている。)
広間にはオルヴァンがいた。金髪碧眼、完璧な身なり。白の正装が似合いすぎていて、逆に作り物めいて見える。私と目が合った。彼は一瞬だけ瞳孔を揺らし──そしてすぐ、穏やかな微笑みを作った。
「リーゼル。久しぶりだね。こんなところで会えるとは思わなかった」
声は滑らかだ。周囲に聞かせるための声。彼はいつも、観客を意識して話す。
「お久しぶりです。立派な儀式杖ですね」
私も笑顔を返した。感情は出さない。これから出すのは、数字だけだ。
検品が始まった。審査の担当は王宮の上級技師三名と、監査部──セルジュ。そして、広間の最奥の席に、銀髪を高く結い上げた女性が静かに座っていた。王妃フィリーネ。
彼女の視線が、儀式杖の上で──わずかに曇った。──この広間で、すべてが動き始めようとしていた。




