第6話 偽りの聖杖、本物の亀裂
オルヴァンの名刺には一行だけ添え書きがあった。「近日中に話がしたい。旧交を温めよう」。旧交。婚約を破棄し、私の功績を奪い、追放した人間の口から出る言葉ではない。
だが、動揺はしなかった。彼が接触してくるということは、私が無視できない存在になりつつあるということだ。名刺は引き出しにしまった。返答はしない。焦っているのは向こうだ。
(向こうから来たなら、こちらの土俵で受ければいい。)
それよりも、気になることがあった。鍛冶通りの顧客の一人──宝飾細工師の老婆が、先日こんなことを言っていた。
「王宮が今度の祝典で使う儀式杖、宮廷工房が新しく作り直すんだってね。オルヴァン殿が自ら設計したとか」
祝典の儀式杖。王家の重要な祭具であり、宮廷工房の技術力を示す象徴でもある。気になったのは「作り直す」という部分だ。従来の儀式杖はトーマ老師が現役時代に制作したもので、二十年以上問題なく機能してきたはずだ。なぜ今、作り替える必要があるのか。
その日の夕方、ナディアが工房を訪ねてきた。学生時代の友人であり、王妃付きの侍女頭。黒髪のショートカットに、きびきびした身のこなし。彼女が来るときは、いつも何かの情報を持っている。
「リーゼル、元気そうで安心した。──と言いたいところだけど、あなた寝てる? 目の下の隈が前より濃くなってるわ」
「昔よりは寝てるよ。用件は?」
「用件って言い方やめてよ。……でも、うん、用件でもあるの」
ナディアの声が低くなった。周囲を確認するように視線を巡らせてから、声を潜める。
「祝典の儀式杖。王妃様が気にされてる。オルヴァンが持ってきた試作品を見て、何か引っかかるとおっしゃったの」
「引っかかる?」
「技術的なことは私にはわからない。ただ、王妃様が『前の杖と比べて、手に伝わる感触が違う』と」
王妃フィリーネは魔法の素養がある方だと聞いている。魔力の伝導に敏感ならば、回路設計の違いを肌で感じ取っても不思議はない。本物を知る人の手は、偽物を見逃さない。
(オルヴァンが「自ら設計した」儀式杖。──本当に彼の設計なのだろうか。)
私の脳裏に、宮廷工房時代の記憶がよぎる。彼は常に、部下の成果を自分の名前で提出していた。設計図を書く姿を、私は一度も見たことがない。会議では雄弁だったが、作業台の前に座る彼を見たことは、ただの一度も。
「ナディア。一つだけ教えて。その試作品、見る機会はある?」
「……祝典準備の最終検品が来週ある。検品は公開制だから、技師資格を持っていれば立ち会える」
ナディアは私の袖をそっと引いた。いつもの癖。心配しているときの仕草だ。彼女はいつも、言葉より先に手が動く。
「気をつけてね。相手は侯爵家の後ろ盾がある人だから」
ナディアが帰った後、私はトーマ老師のノートを開いた。儀式杖の設計図が載っているページがある。老師独特の、繊細で精密な回路図。二十年前の設計だが、今見ても隙がない。むしろ、当時の技術水準でここまでの精度を出していたことに驚く。
もしオルヴァンがこの設計を模倣しようとして、理解しきれずに劣化コピーを作っていたら。もし儀式杖の品質が基準を満たしていなかったら。祝典の場で杖が機能不全を起こせば、王家の面目は潰れる。それは個人の問題ではなく、国の問題だ。
私は作業台に座り、ノートの設計図を丁寧に模写した。検品の日に、比較材料として持っていくために。一本一本の線を、老師の意図を読み取りながら写す。これは復讐ではない。証拠を積み上げ、事実を示す。それだけだ。
翌日、セルジュが定例の巡回で工房に来た。
「祝典の検品に出るつもりか」
もう隠す意味はなかった。この人には、隠し事が通じない気がする。
「はい。確認したいことがあります」
「監査部も検品には立ち会う。──公正な目で見届ける義務がある」
公正な目。彼はいつもそう言う。けれど最近、その「公正」の矛先が何に向いているか、言葉にしなくても伝わるようになってきた。彼は正しいことを正しいと言いたいのだ。ただ、監査官という立場が、それを感情ではなく事実で語ることを求める。
セルジュは帰り際、扉の前で──今度は振り返った。
「無茶はするな」
短い。ぶっきらぼう。けれど私は、その一言の重さを正確に受け取った。前世では、こんなふうに言ってくれる人はいなかった。
検品の日まであと五日。──私の手の中にはトーマ老師の設計図があり、セルジュの手の中には帳簿の不一致がある。二つの糸が、一つの場所で交わろうとしていた。




