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社畜だった前世の記憶で宮廷工房を直す ─ 婚約破棄された魔道具師、定時退社で国を変える ─  作者: 渚月(なづき)


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第5話 定時退社の魔道具師と、残業続きの監査官

レオンが通い始めて五日目。彼は毎日、宮廷工房の仕事が終わると鍛冶通りに駆けてくる。そして毎日、私に追い返される。


「リーゼル先輩、もう少しだけ──」


「定時です。帰りなさい」


「でも、この螺旋のコツがあと少しで──」


「明日。新鮮な頭でやれば十分で掴める。疲れた頭で三時間やるより効率がいい」


レオンは渋い顔をしたが、素直に工具を置いた。失敗した試作品を棚に並べるのは忘れない。彼の律儀さが好ましい。不器用な人間ほど、基礎を丁寧に積み上げる。


一人になった工房で、私は帳簿をつける。今日の売上、素材の消費量、新しい注文。鍛冶通りの評判は着実に広がっている。だが、売上だけでは王都の生活は楽ではない。素材の仕入れ値が高い。


(素材の仕入れルートが宮廷工房に独占されている。末端の工房には割高な価格でしか流れてこない。)


これもまた、構造の問題だ。技術の問題ではなく、利権の問題。前世の下請けいじめと同じ構図が、この世界にもある。


帳簿を閉じて、窓の外を見た。日が落ちかけている。と、鍛冶通りの角から、見慣れた長身の影が現れた。今日は書類の束がいつもの三倍はある。腕だけでは足りず、顎で押さえている書類まである。


セルジュは工房の前を素通り──しようとして、足を止めた。工房の灯りが目に入ったのだろう。彼は少し迷うような間を置いてから、扉を叩いた。


「……すまない。明日の監査報告に必要な数字を確認したい。鍛冶通りの工房の取引記録を見せてもらえるか」


「どうぞ。帳簿はここに」


作業台を片づけ、帳簿を広げた。セルジュは向かい側に座り、自分の書類と照らし合わせ始める。しばらく、二人とも無言だった。ペンが紙を走る音と、ページをめくる音だけが工房に響く。


不思議と、居心地が悪くなかった。前世のオフィスでは、沈黙は気まずさと同義だった。けれど彼との沈黙には、互いの仕事を邪魔しないという礼儀正しさがある。同じ空間にいて、それぞれの仕事をしている。それだけのことが、妙に心地よい。


「一つ聞いていいですか」


「なんだ」


「毎日そんなに書類を抱えて、定時で帰れているんですか」


セルジュのペンが止まった。


「……定時という概念が監査部にあるかどうか、疑わしい」


真顔だった。本気で疑わしいと思っている顔だ。私は小さく吹き出した。前世の自分を見ているようだった。あの頃の私も、定時は都市伝説だと思っていた。


「前の──いえ、昔の私もそうでした。でも、休まないと目が曇ります。見落としが増える。監査官が見落としをしたら、困りませんか」


セルジュは私を見た。数秒、真剣な目で。何かを量るような、けれど値踏みとは違う視線。


「……一理ある」


それだけ言って、再び書類に目を落とした。けれどペンを握る手が、わずかに緩んだ気がした。力を抜くことを、この人は知らないのかもしれない。


一時間後、セルジュが帳簿を返してきた。


「確認は済んだ。協力に感謝する」


「いいえ。それより──」


私は炉の上に置いておいた薬缶を取った。作業の合間に沸かしていた茶が、ちょうどいい温度だ。


「一杯飲んでいきませんか。書類はどうせ明日も減らないでしょう」


セルジュは一瞬、戸惑ったような顔をした。こういう申し出に慣れていないのだろう。仕事以外の文脈で人と関わることが少ない人の表情だ。三秒の沈黙のあと、彼は書類の束を膝の上に置いたまま、静かに頷いた。


二つの湯呑みから湯気が立つ。春の夜の空気が窓から入ってくる。セルジュは茶を一口含み、少しだけ肩の力を抜いた。──本当に少しだけ。それでも、さっきまでとは確かに違う。


「宮廷工房の帳簿と、物資管理局の帳簿の間に、数字の不一致がある」


唐突だった。けれど、彼なりの信頼の示し方なのだと思った。仕事の話をすることが、この人にとっての心を開くということなのだ。


「どのくらいの規模ですか」


「まだ確証はない。だが、少なくとも三年分の素材費に、帳簿上の差異がある。差額は──小さくない」


素材費の不正。それは工房の品質にも影響する。良い素材が正規に流通しなければ、末端の技師は安い代替品で補うしかない。品質が下がる。品質が下がれば、宮廷工房の権威だけが価値基準になる。


(だからオルヴァンの標準品が、あれほど非効率でも通用していたのか。)


構造が見え始めた。利権の上に胡座をかく者と、その下で声を上げられない者。前世と同じだ。だが今の私には、前世にはなかった「作る力」がある。作ったものは数字で語り、数字は嘘をつかない。


「私の工房の取引記録は、すべてお見せできます。比較材料として使えるなら、いつでも」


セルジュは茶を飲み干した。


「……助かる」


短い一言。けれどその声は、初めて会ったときより、ほんの少しだけ温かかった。氷が溶け始めるときの、あのかすかな変化に似ている。


彼が帰った後、湯呑みを洗いながら窓の外を見た。鍛冶通りは静かだ。けれどその静けさの下で、何かが動き始めている。帳簿の数字と、工房の品質と、監査官の誠実さ。三つの糸が、少しずつ絡み合い始めていた。


──翌朝、工房の前に置かれていたのは、宮廷工房の技師の名刺だった。差出人の名は、オルヴァン。


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