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社畜だった前世の記憶で宮廷工房を直す ─ 婚約破棄された魔道具師、定時退社で国を変える ─  作者: 渚月(なづき)


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第2話 壊れた工房と、無言の監査官

埃の匂いがした。錆と、古い木と、かすかに残る魔力の残り香。それだけで、ここがかつて本物の職人の場所だったとわかる。


鍛冶通りの突き当たり。看板の文字は半分かすれて読めない。扉は蝶番が歪んで、押すと甲高い悲鳴を上げた。中に入ると、作業台が三つ、工具棚が壁一面、奥に小さな炉。すべてが埃をかぶっている。


けれど、工具の並べ方に規則性があった。使用頻度の高いものが手前、精密作業用は上段。棚の配置には、長年の動線の工夫が染みついている。この工房を作った人の、日々の仕事ぶりが目に浮かぶようだった。


(この工房を作った人は、本物だ。)


前世の私なら「居抜き物件、設備込み」と喜んだだろう。今の私は、この棚の配置を作った職人への敬意で胸が詰まる。窓を開けると朝の光が差し込んで、埃が金色に舞った。


まず掃除。次に工具の点検。使えるものと使えないものを分ける。前世で叩き込まれた「整理・整頓・清掃」の三原則が、こういうとき妙に役に立つ。炉に火を入れてみると、古い炉は低く唸ってから、ゆっくりと息を吹き返した。


(……生きてる。)


私は思わず、炉の縁に手を置いた。温かい。この温かさがあれば、ここで作れる。胸の奥で、小さな灯りが点ったような気がした。


午前中いっぱいかけて、工房をひととおり片づけた。昼過ぎには、残っていた素材の在庫も確認し終えた。銀糸が少し、水晶の欠片が数個、魔力伝導率の高い白樺の枝が束で三つ。高級品はない。けれど、基礎素材としては十分だった。


前世で言うなら、パソコンとエクセルさえあれば仕事はできる、というのと同じだ。道具があれば、あとは腕と頭の問題になる。


工房の奥に、一冊のノートが置いてあった。表紙に「トーマ」と走り書きされている。開くと、魔道具の設計図がびっしり詰まっていた。どれも既存の技法を独自に改良した痕跡があり、書き込みの端々から試行錯誤の誠実さが伝わってくる。


(トーマ──この工房の持ち主の名前だろうか。)


ノートを棚に戻し、まず一つ、簡単なものを作ることにした。照明用の魔道具。宮廷工房では見習いが最初に習う、もっとも基本的な品だ。ただし、私のやり方で。


宮廷工房の標準設計では、魔力の供給回路を一本道に通す。単純だが、効率が悪い。魔力の三割近くが回路の途中で散逸する。前世のエンジニアリング感覚で言えば、送電ロスのようなものだ。


私は白樺の枝を芯にして、銀糸を螺旋状に巻いた。回路を分岐させ、複数の経路で魔力を流す。並列回路。これだけで散逸率が半分になる。理屈は単純だが、糸の巻き方ひとつで結果が変わる繊細な作業だった。


水晶の欠片を先端に嵌め込み、魔力を注ぐ。──淡い光が灯った。宮廷工房の標準品より明るく、消費魔力は六割ほど。私は小さく息を吐いた。指先が少し震えている。嬉しいからだ。


自分の名前で、自分の設計で、自分の手で作ったもの。たったそれだけのことが、こんなにも胸を満たす。前世では一度も味わえなかった感覚が、今、指先から全身に広がっていく。


翌朝、工房の扉を叩く音で目が覚めた。作業台に突っ伏して寝てしまったらしい。前世の癖だ。首が痛い。


扉を開けると、長身の男が立っていた。黒髪に灰色の目。身なりは質素だが仕立ては良い。両腕に書類の束を抱えていて、その量は尋常ではなかった。


男は私を見て、わずかに眉を上げた。それから工房の中を一瞥し、作業台に置きっぱなしの照明用魔道具に目を止めた。視線が鋭い。職人の目ではなく、観察者の目だ。


「……王宮魔道具工房・監査部のセルジュだ。この工房の使用届が出されていないが、稼働の形跡がある。確認に来た」


淡々とした声。感情の温度が低い。けれど、声の底に職務への真摯さが感じられた。


「元宮廷三等技師のリーゼルです。昨日からここを借りています。届出は……まだ出していません。すみません」


セルジュは頷きもせず、作業台の魔道具に歩み寄った。手に取る。回す。銀糸の巻き方を指先でなぞる。その所作には、魔道具の構造を理解している人間特有の丁寧さがあった。


「……並列回路か」


短い一言。だが、その声にわずかな驚きが混じっていた。私は黙って立っていた。評価を待つのではなく、ただ事実を見てもらえればいい。作ったものが語ってくれる。


セルジュは魔道具を作業台に戻した。書類の束から一枚を抜き、差し出す。


「工房使用届だ。今日中に記入して、中央管理局に届ければいい」


それだけ言って、彼は踵を返した。扉の前で、一度だけ足を止める。


「宮廷工房の標準回路は、十五年前に策定されたまま更新されていない。並列回路の採用を提案した技師が過去にいたが、却下されている」


振り返らない。ただ事実だけを落として、彼は鍛冶通りの朝の中に消えた。背中に朝日が当たって、書類の束が白く光っていた。


私は手の中の使用届を見下ろした。


(提案が却下された。──誰に?)


答えは聞かなくても想像がつく。新しい技術は、既存の権威にとって都合が悪い。前世でも、この世界でも、構造は同じだ。


けれど、監査官は私の並列回路を見て、声の温度を変えた。あれは驚きだった。そして──もしかすると、ほんの少しの期待だったかもしれない。


使用届の記入欄を埋めながら、ペン先が止まった。「工房名」の欄。少し考えて、書いた。──「リーゼル魔道具工房」。自分の名前を、初めて自分の仕事場に冠した。たったそれだけのことに、指先がじんと熱くなった。


窓の外では、監査官が抱えた書類の束が、鍛冶通りの角を曲がるところだった。──あの書類の中に、宮廷工房の何が記されているのだろう。


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