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社畜だった前世の記憶で宮廷工房を直す ─ 婚約破棄された魔道具師、定時退社で国を変える ─  作者: 渚月(なづき)


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第10話 工房の窓から差す光

裁定会議から一ヶ月が過ぎた。季節は春から初夏に移っている。鍛冶通りの木々が青々と葉を広げ、工房の窓から入る風が少しだけ暖かくなった。


鍛冶通りの工房には、毎日のように客が来るようになった。鍛冶屋の親方は定期的に工具の調整を依頼してくれる。宝飾細工師の老婆は「あんたの工房の灯りが一番目に優しい」と言って、照明具を追加注文した。


宮廷工房からの依頼も来始めた。新しい筆頭技師──老師トーマが復帰し、工房改革を進めている。並列回路の導入は、まず照明具から段階的に始まった。十五年間止まっていた技術の更新が、ようやく動き出した。


レオンは正式に弟子になった。毎日、宮廷工房で基礎を学んだあと、鍛冶通りに来て応用を練習する。定時退社の原則は守らせている。


「先輩、この螺旋の巻き方、昨日より上手くいきました」


「うん。手の力が抜けてきたね。いい傾向」


彼の大きな手が、少しずつ繊細な動きを覚えている。不器用な人間が技術を身につけていく過程は、見ていて飽きない。かつての自分を見ているようでもあり、自分とは違う成長の仕方をしているのが眩しくもある。


ナディアは相変わらず、時々工房に顔を出す。


「王妃様がね、『鍛冶通りの工房の品質報告書を定期的に出すように』って。これ、実質的な王室御用達の内示よ」


「……報告書、か。書類仕事は減らないね」


「贅沢な悩みよ、それ」


ナディアは笑った。私も笑った。一ヶ月前には想像もできなかった穏やかさが、今の日常にある。


メリッサからは、一通の手紙が届いていた。謝罪の言葉が、侯爵家の便箋に丁寧な字で綴られていた。本心かどうかはわからない。けれど、彼女なりに踏み出した一歩なのだろう。手紙は引き出しにしまった。返事は──もう少し考えてから。


オルヴァンは王都を離れたと聞いた。侯爵家の地方領地で、静かに暮らしているらしい。彼の才能がなかったとは思わない。ただ、自分より優れた者を認められなかった。その一点が、すべてを歪ませた。


恨みはない。ただ、二度と同じことを繰り返させない仕組みを作ること。それが、私にできる答えだ。


夕方。レオンを帰した後、工房に一人で残る。帳簿をつけ、明日の素材を確認し、工具を磨く。前世では苦痛でしかなかった残業後の片づけが、今は穏やかな時間になっている。


ここは私の場所だ。自分の手で整え、自分の技術で成り立たせている場所。誰かに与えられたのではなく、自分で選び取った場所。その実感が、毎日少しずつ、胸の中に積もっていく。


扉を叩く音がした。セルジュだった。今日は書類を持っていない。珍しい。


「巡回か?」


「いや。──帰り道だ」


嘘だ。監査部から鍛冶通りは帰り道ではない。けれど、指摘しなかった。彼が嘘をつくのは珍しいから、大事にしたかった。


「茶、飲んでいく?」


「……ああ」


炉の上の薬缶がちょうど鳴った。二つの湯呑みを出す。もう何度目だろう。いつの間にか、彼専用の湯呑みができていた。彼もそれに気づいているはずだが、何も言わない。


二人で作業台の前に座り、茶を飲む。窓の外は夕焼け。鍛冶通りの煤けた屋根の向こうに、赤い空が広がっている。


「工房改革の進捗報告がまとまった。並列回路の導入で、宮廷工房の魔力効率が平均一・四倍になった」


「トーマ老師のおかげだよ」


「老師は『リーゼルが種を蒔いた』と言っていた」


私は茶を啜った。照れ隠しに。褒められることに、まだ慣れない。前世では褒められた記憶がほとんどない。


セルジュが湯呑みを置いた。まっすぐに、私を見た。灰色の目に、夕焼けの光が射している。


「定期巡回の対象に、この工房を加えたい」


「……もう加わってませんか、事実上」


「正式に、だ」


沈黙。夕焼けの光が、彼の灰色の目を琥珀色に染めている。この人の目は、光の加減で色が変わる。いつからそんなことを観察するようになったのか、自分でもわからない。


「巡回だけじゃなく──」


彼は言葉を切った。視線を逸らし、それからもう一度、私を見た。不器用に、けれど真っ直ぐに。


「帰り道に、寄ってもいいか。これからも」


不器用だ。どこまでも。でも、その不器用さが、彼だ。報告書に他人の功績を一行も漏らさず書く人。書類を抱えて鍛冶通りを歩く人。私の肩に、必要なときだけ手を置く人。


「うん」


私は、たった一語で答えた。それ以上は言わなかった。言葉より、隣にいることのほうが、ずっと多くを伝えるから。


セルジュは小さく頷いた。それから──あの日と同じように、少しだけ笑った。不器用で、ぎこちなくて、けれどそれだけに嘘がない笑顔。


窓から入る風が、作業台の上の銀糸をかすかに揺らした。私は茶を飲み干し、立ち上がった。


「さて。そろそろ定時です」


「……お前に言われると、複雑だな」


「監査官こそ、定時で帰ってください」


二人で工房の灯りを消した。鍛冶通りに出ると、夕焼けは紫に変わり始めていた。並んで歩く。歩幅は、いつの間にか揃っている。


前の人生では、退社後の夜道はいつも一人だった。この人生では、隣に誰かがいる。


──工房の窓から差す最後の光が、鍛冶通りの石畳を、やわらかく照らしていた。


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