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命の家は広く、部屋も余っていたので、秋人が急に一緒に住むことになってもさしたる問題はなかった。
命と一緒に暮らし、安楽死する日まで命の理想を目指して管理されることになる。食事や運動については細かく指示があり、はっきり言って面倒くさいの極みだが、それでも自分で自分の面倒を見ずに済むのは気が楽だった。子どものころから自己管理というものがうまくできた試しがない。
引っ越しに伴う手続きは、前の住まいを引き払うのも含めて命が代わりに行ってくれた。買ったまま手つかずになっていた新品の服や日用品以外は全て処分してくれた。
「僕、こう見えても事務仕事とか得意なんですよ」
「こう見えても?」
「アーティストって普通の仕事とか生活のこまごましたことが苦手と言われるものでしょう?」
今時大抵の申請はオンラインで簡単にできるし、事務仕事と呼ばれるような仕事は少なくなったが、それでも苦手だと感じる人は多い。そもそも義務的な地味な作業というのは精神的な負担が大きく、取り掛かるまでに時間がかかるのだ。その上一つでも間違っていたら突き返されるのだから、秋人は大の苦手だった。仕事をしている時には経費申請も気づまりで、かなり無理してやっていた。
「なるほど。でも協調性がないから会社では働けないんだろ。あんたは職業適性診断で芸術家しか出せないタイプじゃないか?」
命はわざとらしく肩をすくめた。
「またそんなひどい言い方をして……。一日六時間も労働できる人には僕の気持ちはわかりませんよ。まあいいです。さて、お部屋を引き払って引っ越し手続きも終わりましたし、結婚しましょう」
命はさらりと言って紙の婚姻届けを差し出してきた。
「は? なんて?」
「結婚です」
「なんで結婚なんてするんだって聞いてんだよ」
「簡単な話です。配偶者であれば遺体引き取り人になれますし、遺体の処置や死後の手続きもやりやすいんですよ。あ、もしかして結婚されてます? 恋人がいたり?」
「結婚もしてないし相手もいないけど……」
「なら法的に問題ないですね」
「あんたはそれでいいのかよ。だってこれじゃ、結婚がただの手段だ」
「それでも別に構いません。もうしばらく付き合っている人はいないですし、そもそも結婚する気もあまりなかったので」
秋人は命の勢いに押されて婚姻届けとペンを受け取った。
こいつ、もし俺に恋人や配偶者がいたらどうするつもりだったんだ?
婚姻届けにはすでに命の名前は書かれていた。生涯結婚することはないだろうと思って生きてきた秋人にとって、婚姻届けは未確認飛行物体並みの異世界物体感があった。
結婚は婚姻可能な年齢に到達した者同士であれば可能であるため、恋愛感情がなくとも二人の互助組織を作る目的で友人と結婚する人もいる。しかし、秋人はそれさえ考えたことはなかった。誰かに助けられる価値が自分にあると信じられなかったし、何かあったときに誰かを支えたり助けたりする自分はもっと信じられなかった。
「苗字は変えます? 僕が変えますか?」
秋人が黙り込んでいる間にも、命は勝手にしゃべり続ける。
「海野秋人か、常盤命か……。常盤命の方が語感がいいですかね。どう思いますか?」
「どっちだっていい」
どうせ俺死ぬし、とは口に出さなかった。
そうだ、まごつくべき理由なんてないのだ。だって人生のこの先には何もないのだから、ただ死ぬときが少し先になっただけなのだ。世間体とか一般常識とか、これまでうじうじ拘泥してきたことなど考える必要はない。死んだ後のことだって、目の前の男が全てやってくれるのだから。
「じゃあ僕が変えますね。常盤さんかあ、かっこいい名字ですよね」
「どうせ仕事上では海野命を名乗り続けるんだし、別にどうでもいいだろ」
憎まれ口を叩きながらも、秋人はふわふわと実感がわかないまま自分の名前を書いた。動悸がしそうだった。婚姻届けを命に渡した。急に気恥ずかしさがこみ上げて命の顔を見られなかった。
「ありがとうございます。今日は休日なので、また明日提出しに行きましょう」
「証人欄が空欄だけど、これはどうすんだよ。先に言っておくが、俺はあてがない」
「そうですねえ。僕は近所に住んでる叔父に頼もうかと」
両親に頼むと言わなかったのが意外だった。だが、突っ込まなかった。こちらも親のことはなるべく話したくない。
常識的に考えれば結婚する前に配偶者の両親に挨拶をしたり、両家顔合わせすべきだが、その話も命は一切持ち出さない。死体の引き取り人になるのが本当の目的なのだから、結婚前の一般的な形式を踏む必要はないが、いささか不安が残る。
「急に結婚するとか言い出したら、何か言われるんじゃないか?」
「そうかもしれませんが、書いてくれると思います。今聞いてみます」
命はグラスの弦に触れ、視線を動かし始めた。ほどなくして言った。
「問題ないそうです。何なら今ちょうど家にいるそうなので、叔父と従兄に二人分書いてもらいに行きます。秋人さんも一緒に行きますか?」
「え、今? 嫌だよ、というか会ったばっかりの俺をどう説明するんだよ」
「あんまり僕のこと詮索するタイプじゃないんで聞かれないと思います。でも、秋人さんが会いたくないなら全然大丈夫ですよ。うちは親戚付き合いとかほぼないですし、気を遣い合う関係ではないですから」
命は婚姻届けだけ持って家を出て、三十分ほどで海外土産のチョコレートも貰って帰ってきた。婚姻届けの証人欄には、長谷川哉、長谷川陽介という二人の名前が書かれていた。
信じられない速度で信じられない事態が進行していく。たしかにもう何も躊躇う必要はないと理解している。だが、秋人はくらくらした。命の周りだけ時間の進みが異常なのか、もしくは自分がのろまなのか、いずれにせよリズムが合う気がしない。
「親戚が急に結婚するって婚姻届け持って来ても、名前書いてくれんのかよ……」
「ね、良い人ですよね」
そうじゃない、と突っ込む気にもならなかった。
命は全ての記入が終わった婚姻届けを大事そうにファイルに入れて仕舞った。
「そうだ。天気もいいですし、指輪を買いに行きませんか?」
もうため息も出ない。次から次に予定を発生させる天才か。




