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ある初夏の日に、ドイツ人のコレクターがほとんど押し掛けるようにして命のアトリエを訪ねてきた。
彼は熱心なコレクターで、命の作品が購入されていないと風の噂で知ると、どうしても一目見たいと連絡をしてきたのだ。
はるばるドイツから飛行機で羽田に到着し、寄り道もせず真っすぐ命の家にやってきた。
「お久しぶりです。今日は遠いところからお越しいただいてありがとうございます、とりあえずコーヒーでもどうぞ」
命は英語で言った。ぞんざいであることを隠しもせずに。
コレクターは出されたコーヒーに手も付けず、興奮を滲ませながら言った。
「聞いたところによると、新作はまだ誰の手にも渡っていないとか。ぜひ見せていただけませんか?」
命は悠長にコーヒーを一口飲んでから言った。
「僕は誰にも売る予定はないのですが、一目見るだけならいいですよ。どうぞこちらへ」
命は相変わらずあまり熱心ではなく、作品を飾っている部屋までぞんざいな感じで案内した。
だが、扉を開けるその時だけは、荘厳な教会の扉を初めて開く敬虔な信者のように、厳かな手つきでドアノブを回した。
天井の高い部屋には、昼下がりの優しい光が満ちていた。日当たりがいいので、空調の効いた廊下よりもずっと温かく、ぽかぽかしていた。コレクターは日本の春の日を思いだした。
「どうぞ、お入りください」
命がコレクターを中へと促した。コレクターは夢見心地で部屋の中を進んだ。火に魅せられた虫のように、窓辺に置かれた作品へと吸い寄せられていく。
作品を見たコレクターは目を見開いて、頬を紅潮させた。これまで命の作品はほとんど全て見てきたが、これは最高傑作だと直感した。彼は類まれなセンスを持った芸術家で、まだ若いが、おそらくこれを超える作品を作ることはできないだろう。
「僕、引退しようと思ってるんです」
コレクターの考えを見透かしたように命は言った。
コレクターはこれまで何度か命に会ったことがあり、彼の中にある理想の作品を作りたいという執着心の片鱗を垣間見たこともあったが、今の命の中にその怨念めいた炎がなくなっていることに気づいた。さりとて命は抜け殻には見えなかった。むしろ、全てが満たされているようだった。
「そうですか、それは残念です。では、これがあなたの最後の作品になるんですね。他に購入希望者はどれだけいますか?」
「一人もいません」
コレクターは別の意味で驚愕した。ありえない、そんなことはありえない。こんなものを見せられて、自分以外のコレクターがこの傑作を喉から手が出る程欲しいと思わないなんて、ありえるはずがない。
「鳩が豆鉄砲を食ったようなお顔ですね」
命は朗らかに微笑んで、作品の左手にそっと触れた。不気味の谷を渡らなかったその左手は、今にも命の手を握り返しそうだった。
桜貝のような爪が、なめらかな白い肌が、淡く光り輝き、プラスティネーション作品にあるべきグロテスクさがごっそり抜け落ちていた。
そう、これはおかしいのだ。人体を用いたあの特有の気持ち悪さ――それがコレクターにとってはぞくぞくするような気持ちの良さではあるが――が一切存在しない。これまで見てきたプラスティネーションとは一線を画している。命の作品はそういった要素がひどく薄い作家ではあったが、命の作品群の中でも特異だった。
命と作品の姿を見て、コレクターは伊弉諾尊が黄泉の国へ行った神話を思い出した。それから、ギリシャ神話に登場するオルフェウスの冥界下りについても。
「は、はは。ご冗談を。それで、作品についてもう少し詳しく伺いたい。どうして作品がまだあなたの手元にあるのでしょう? 彼はどういった人だったのでしょうか? どうして売るつもりがないと仰るのです?」
すべての質問に対し、命はただ一つの回答をした。
「彼は僕の最も大切な人です」
命は真っ青な顔で逃げるように帰っていくコレクターを見送った。
これまでも噂を聞きつけてやってきたコレクターの反応は、似たり寄ったりだった。作品を見た時には魂を奪われたような顔をするのに、話を聞くと顔面蒼白になって逃げていく。
命は展示室へ戻った。家にいる時はもっぱらこの部屋で時を過ごした。かつては命の父の絵画が飾られた忌まわしい部屋だったが、今は世界で最も素晴らしい展示室だった。
部屋は夕日の色で真っ赤に染まっていた。部屋の中央に置かれた作品もまた、赤く輝いていた。
天へ向けて星々のように散らばる右手の皮膚や血管や筋肉が夕日を受けてきらめき、滑らかに収束して上腕を成していく。腕や肩にかけられた半透明の布は幾重にも折り重なり、美しく鍛えられた上半身の筋肉の隆起や、今にも脈打ちそうな血管、それらを支える骨を透かし、下半身は今まさに立ち上がろうとするかのように地面を踏みしめる力強い足だけが覗いていた。
今にも開かれそうな瞼は血の赤で淡く色づき、濡れたような長い睫毛の一本一本が縁取る。薄く開いた唇の曲線は艶やかなほどに滑らかで、今まさに吐息が漏れようとするかのようだ。
その顔は、表情は、死人にあるまじきごく自然なものだった。これは生前の表情を見つめ続けた結果であり、緻密な調整により表現されたものだ。
空想の中でも、現実の上でも、死者との舞踏は終焉を迎え、生命力に満ち溢れた結末が世に存在を得ていた。
「こんなにも美しいのに」
そう呟いて、永遠の傑作となった男の手に触れた。




