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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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「では、仕事を始める前に改めてプラスティネーションの説明をしましょう。プラスティネーションとは、遺体に含まれる水分や脂肪分を合成樹脂に置き換えることで保存可能にする技術です」


 命は解剖台の横に設置された半透明の棺めいた容器を手で示した。


「まず初めに、ご遺体をホルマリン漬けにして、たんぱく質の性質を変化させます。それからアセトン溶液に浸し、体内の水分や油脂分を取り除きます。最後に樹脂に漬け込み、乾燥させることで完成します。

 僕が作る人体プラスティネーションの場合には、途中で変色を防ぐために処置をしたり、固める前にポージングをしたりします。僕は人体の皮膚を剥がすのがあまり好きではないので体を切り開いて筋肉や内臓を露出はさせないですが、大昔の作品はそういうものばかりでしたね。依頼主に希望によっては僕もそうすることもありますが、大抵は樹脂に浸して乾燥させたあと、必要な箇所だけ透明化したり切り開いて、皮下組織や骨を可視化しています」


 秋人は赤子のプラスティネーションを思い出した。あの赤子も、真っ赤な心臓が透けて見えていた。


「こちらのご遺体もこれから各種溶液に浸していきます。今日はホルマリン溶液に漬けるところまで作業を進めます。まずはご遺体を拭いて差し上げるところから始めていきます」


 そう言って、命は清潔な布で遺体の体を拭き清め始めた。その手つきは丁寧で、肌の隆起に合わせてすべるように動く。皮膚や筋肉を押しつぶしたり引っ張ったりはしない。まるで生きている人に触れているかのようだった。


 礼節はあり、決して遺体を軽んじてはいない。しかし、命は楽しそうだった。アトリエに足を踏み入れてからずっとそうだった。生きた人よりも、死した人の冷たい体を、おそらくは何よりも愛している。


 命は一切の邪念を表出させることなく仕事を続けているが、きっと頭の中で遺体にポーズを取らせているのだろう。空になった体が再び魂を宿したかのような、生き生きとした仕草。不気味の谷のこちら側にひっそりと息づく硬質な人体。


 命の頭の中で繰り広げられる遺体との孤独なダンスは、現実で身を結ぶことはない。彼の理想は、依頼主のためにあえなく散るのだ。


 あの手がいつか死んだ自分の体に触れることを考えると、胸がかきむしられるような思いがした。冷えた指先が徐々に熱を持つ。


 これまで数えきれないほどの人が、命の手によって作品に生まれ変わってきたのだろう。ああやって綺麗にされて、大切に扱われて、頭の中では幾度も理想の姿になる。


 ああ、それは、それは何て――


 秋人ははっと息を飲んだ。自分が抱いた思いが嫉妬であると気づいて、頭の中に混乱が広がる。あの男にだけではなく、命がこれまでああして作品にしてきた人々すべてが、妬ましく思えて仕方がなかった。いつか命の手で作品になる自分の肉体さえも、今は憤りを覚えた。


 だから、目の前に命が立っていることに声をかけられるまで気づかなかった。


「すみません、今は手が離せないので、仕事が終わるまで待っていてください」


 わずかに悪戯っぽさのにじむ声色で命は言った。自分の嫉妬心まで見透かされているのが、余計に羞恥心を煽る。


 秋人が訳もわからぬままかすかにうなずくと、耳に笑った声がかかった。


 足早にアトリエを出た。もう見学するどころではなかった。


 マスクを外そうとする手が震えて何度も失敗した。最終的にむしり取るようにマスクを取って捨てた。


 先ほど見た光景を忘れようとしたが、何度も頭の中で再生されるばかりだった。繰り返されるたびに遺体の顔が自分の顔とすり替わっていく。


 今にも死んでしまいそうなほど胸が苦しかった。だから、扉をノックする音も聞こえなかった。頬を指先でなぞられてようやく命が部屋に入ってきたことを知った。


「落ち着きましたか?」

「……いいや」

「よかった」


 何も良くないのに、命の手を振り払えなかった。


「ねえ、秋人さん」

「何?」

「人に触れられるのが死ぬほど嫌いなのに、どうして僕に許してくれるんですか?」


 ごくりと唾を飲み込んだ。


 わからない。何故って? そんなことは俺の方が知りたい。頭が働かない。嫌な理由には、思い当たる節があまりに多すぎる。


 近所に住んでいる年の近い子たちは、秋人や姉とは遊んでくれなかった。プライドが高くて他の子どもの親と全く仲良くできず、トラブルばかり起こす母のせいだった。


 あの子とは遊んだらだめよ、と親たちは自分の子に言い含めた。子どもたちはそれに従って、姉や秋人から遠ざかっていった。


 独りぼっちで遊んでいた秋人は、知らない大人に話しかけられた。あの時はちょうどそばに姉がいなかった。寂しかったから、秋人はあの手を取ってしまった。

 手を引かれて公園を出て、気づくと誰もいない場所にいた。


 そこで何をされたか理解したのは、十四歳の頃だった。他の似たような経験の意味を、その時全て一気に理解した。


 吐いた。胃の中のもの全て。

 洗った。爪の裏側まで全て。


 あの時の自分の感情は言葉にできなかった。今でも不可能だ、あの不快感を言葉だけではとてもとらえきれない。


 部屋で動けなくなっている秋人に苛立った母は、いつものように何も聞かずにぶった。痛みが辛うじて現実へと引き戻した。ゴミみたいな現実を思い出させてくれた。


 好きになれる理由は一つもなく、嫌いになる理由しかないから、人の手は嫌いだった。


 痛いか気持ち悪い、そのどちらか。


 吐き気を催す。べたべたとうっとおしい。汚くて、穢くて、それに無自覚だから平気で他人を汚す。


「わからない。あんた、あんたはなんで、それを知ってて、俺に触るんだ」


 声が震えて上ずる。胃のあたりがきりきり痛い。


 あの晩以来、命は今この時まで指一本たりとも触れてこなかった。まるでこちらの我慢の限界が来るのを待っているかのように。


「鏡を見ればきっと、あなたにもわかるでしょうね」


 命の指先は、秋人の首を撫でた。


 そんなことを許した覚えはない。触れていいかと聞かれてもいない。秋人に許可もなく触れてきた他の有象無象と同じことをしている。気持ちが悪いはずだ、自分はそう感じるはずだ。こっそり命に触れたときも、本来そう感じるべきだったのに。


 軽い力で胸を押されて、ベッドに倒れこんだ。仰向けになった体勢は、解剖台の上にあった遺体と同じだった。


「秋人さん、生きているあなたと一緒にやりたいことを考えておくと言ったのを覚えていますか?」

「忘れた、そんなこと」

「嘘はいけませんよ」


 無遠慮な指の背がするりと頬を撫でた。湧き上がる感情に名を付けたくなかった。


 なぜ命がいつもこの狭いベッドの上に居たがるのか、理解した。ここは狭くて、逃げ場がない。


「目を閉じて」


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