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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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 腕を掴まれ、クラブの外へと連れ出された。タクシーを捕まえて乗り込んでも、命は手を離してくれなかった。自分が裸眼だということも忘れ、目の前の人が命本人か疑いそうだった。


「おい。手、放せよ。痣になったらあんたも困るだろ」


 ようやく出せた声が震えなかったのは幸いだった。命はこちらを温度の無い目で見つめていたが、ゆっくりと手を離してくれた。


「なんでずっと怒ってんの?」


 秋人の頭の中は心配でいっぱいになっていたが、命には無視された。


 命がようやく喋ったのは、家に着いてからだった。薄暗いリビングルームはとても静かで、緊張でばくばくと拍を打っているのが聞こえてしまいそうな気がした。


「人に触れられるのが嫌いなのは嘘だったんですか? 知らない人とべたべたして、キスまでしてましたよね?」


 予想外の言葉に、別の意味で頭が混乱し始めた。対する命は、余計に苛立ちを募らせたらしかった。


「してた? 感情が振り切ってたせいか記憶が曖昧でよく覚えてない」

「してましたよ。何でですか?」

「なんで? えっと……、あの中に居て感情がおかしくなってたからかな……? 勢いに流されてたから、ただただ楽しくて、いつの間にか何も考えてなくて、だからあんまり嫌なことを思い出さなかったし……」


 目を瞑っているうちにだんだんと思い出してきた。名状しがたい感情一色に染まっていて、物事を深く考えず反射的に受け入れたはずだ。


「恋愛結婚じゃなくても不貞行為って禁止されてたか?」

「秋人さんのことを舐めていたかもしれません。鈍感が服を着ているんですね」

「ふざけんなよ。なんで俺がそこまで言われなきゃ……」


 秋人は手で口元を抑えた。尋常ではない吐き気がこみ上げていた。昂ぶり過ぎた感情がフラットに引き戻されて、緊張から一気に解き放たれたのと同じで、内臓が悲鳴を上げているのだ。


「き、気持ち、悪い……」


 急いでトイレに向かい、胃の中の者を全部吐いた。胃が締め上げられているような気分だった。


「大丈夫ですか?」


 いつの間にかそばに来ていた命が背中をさすってくれた。おかげで吐き気は楽になったが、申し訳なくてたまらない。


「触んなよ、汚れるだろうが」

「気にしないですよ。それより落ち着きましたか? できればお風呂入ってから寝た方がいいですよ」


 胸元を見ると、シャツが少し汚れていた。幸いなことにシャツは自分のものだった。


 命に助け起こされて、風呂場に連れてこられた。


「わかったよ、風呂入るから出てけよ」


 シャツのボタンを外そうとしたが、手が震えてうまくいかなかった。見かねた命がボタンを外して、ジャケットも脱がせてくれた。


「リミッター解除されてるグラス使って感情操作なんてしたら当然こうなりますよ。そうでなくても不自然に感情を引き起こされたらおかしくなります。あんなグラス誰にもらったんですか? 悪い人からは何ももらっちゃいけませんよ」

「何、小言? うるせえな。わかってるよ、もうやらない。これでいいな?」

「子供みたいですよ、秋人さん」


 命はようやくいつものように笑って、風呂場から出て行った。


 秋人は風呂に入って体中隅々まで洗い、口の中も歯ブラシで丹念に磨いた。風呂場を出る頃には気持ち悪さもすっかり落ち着いていた。


 リビングへ行っても命の姿はなかったので、命の部屋へと向かった。彼は部屋着に着替えているところだった。


「風呂空いた」

「ありがとうございます。すっきりしたみたいですね」

「おかげさまで。あんたも機嫌治ったみたいだな」

「そう見えるならおめでたいですね」


 命はゆっくりとこちらに近づいてきて、左手に触れた。指輪を嵌めていないことを思い出して、急に気まずさを覚える。とはいえ、命から指輪を常日頃つけておくように言われた覚えはない。普段つけっぱなしにしているのは、自分の不注意で失くさないようにするためだ。


「失くしたんですか?」

「違う。ジャケットの内ポケットの中だ」


 命は微笑を湛えながら左手を開いてみせた。手のひらには秋人の指輪があった。


「ちゃんとつけておいてください」

「人を試すなよ」


 命から視線をそらして指輪をさっと奪い返した。


「別に、あんたと離婚したいわけじゃない。ただ、あんたには言ってなかったけど、死ぬ前にやってみたいことができたから。俺は友だちもろくにいたことがないし、人と付き合ったこともない。こんな、このまま死にたくない。友だちとするようなことはあんたとできるけど、でも……」


 しどろもどろ言ったが、これ以上は恥ずかしさで言葉が出てこなかった。

 とっくに成人してるのに、キスしたいとか、セックスしてみたいとか、口にすることを考えるだけで恥ずかしさで死にそうになる。


 命のことだから、そうなんですね、と至って普通の調子で返してくるのは予想ができていた。それでも、年相応の経験をしていないと知られるのは恥ずかしくてたまらなかった。

 

「恋人とするようなことも、僕とじゃだめですか?」


 言ってる意味が分からず、秋人はしばらく呆けた顔で命と見つめ合った。


 やがて、頭の中でばらばらになっていたピースが少しずつはまっていって、体の中が、芯から、心から、かあっと熱くなっていく。氷より冷たい命の視線の意味がようやく理解できた。


「秋人さん」

「な、何?」

「指輪、嵌めてください。僕の見ている前で」


 今まで何気なく着けていた指輪が、急に全く見覚えのない代物に変わってしまったようだった。やけに冷たく感じられて、その存在を訴えてくるみたいだ。


 命を睨みつけながら指輪を嵌めた。迫力はあまりなかっただろう、顔が赤くなっているのが自分でも嫌と言うほどわかっていた。


「本当は、僕はもう誰にも生きているあなたを見せたくはないんですよ。でも、現実問題そうはいかないから、指輪を贈ったんです」


 秋人の指輪の輪郭をなぞるように撫でて、ようやく命は微笑んだ。


「おやすみなさい、秋人さん。また明日」


 命は秋人の横をすり抜けて部屋を出て行った。秋人はしばらくその場から動けなかった。


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