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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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 二杯目の飲み物を注文しようとすると、「おごるよ」と声を掛けられた。


 青ざめた肌を染めるように彫られた刺青が目を引く女が隣に立っていた。顔には蛇の鱗を思わせる模様が彫られていて、タンクトップの肩からは蛇の顔が覗いている。刺青は本物のようで、拡張空間でだけ見えるデジタルタトゥーではない。


 凝視されていることに気づいた女は大口を開けて笑った。舌にピアスがついていて、思いがけずどきりとした。彼女は耳にもいくつもピアスをつけていた。


「刺青って言うんだよ、知ってる?」


 女は低めの柔らかい声で囁いた。静かな場所でもっと話をしてみたいと思わせる声だった。


「それくらいは知ってる」

「ね、お兄さん、一人?」

「御覧の通りね」


 すこし微笑んで見せると、女の表情が緩んだ。見慣れた表情だった。


「もう作品に触ってみた?」

「まだ」

「もったいない! こっち来なよ」

「俺、踊れないよ」

「そんなの適当でいいんだよ」


 腕を組まれ、音楽と作品に熱狂している人々の中へと連れ込まれる。すると、視界の中に自分の感情メーターが表示された。


「こうすんの」


 女は音楽に合わせて降ってきたグラフィティに触れてみせた。顔をくしゃくしゃにして女は笑った。秋人もそれに倣ってグラフィティに触れてみた。その瞬間、指先から全身にかけて一気に感情が駆け抜けた。紛れもなく楽しい時に湧き上がる感情そのものだった。グラスの感情測定・操作機能を使ったものだろう。


 感情測定機能は十年以上前から登場していたが、感情操作システムは数年前に登場し、グラスに標準装備されるようになった。記憶や行動に伴うべき感情だけを抽出して引き起こすシステムは、一つの感情を全く同時に人々に共有させ、人々を前人未到の共感境地へと押し上げた。もっとも、秋人は共有する他人を持たなかったので、ろくに使ったことがなかった。


「あとは音楽に合わせて揺れるだけ」


 微笑みかけられて、おのずと微笑み返していた。それだけの力が、引き起こされた喜びにはあった。


 知らない音楽が、名前も知らない人々の高揚が、波のように押し寄せる。視界の端に映るメーターの針が振り切れて、赤から白へと色が変わった。


 音楽の調子がアップテンポに変化して、グラフィティが雨のように降ってくる。どれもこれも橋爪の作品で、一つとして同じものなどないように見えた。


 たくさんの手が上空へと伸ばされ、一つの作品に何人もの手が同時に触れた。グラフィティごとに埋め込まれた感情コードが、全く同じ感情体験を作品に触れた人々の脳に与えた。


 秋人は息を止めた。脳への酸素供給を止めないと沸騰しそうだったからだ。


 これは怒り? いや違う、興奮そのものだ。


 同じ作品に触れた人々は互いの顔を見合っていた。そして、同じ感情を共有したことを確かめて、互いの間で感情をさらに増幅させた。


 こんなことがフロアのあちこちで起きている。小規模の感情爆発がさらに共有されて増幅されて異様な熱狂を生み出していた。


 秋人は自分が踊っているのか揺れているのかよろめいたのかもわからなくなった。自分の目の前にいる女がさっきの女なのか全く別の女なのかはたまた男なのかもわからなくなった。感情を激しく揺さぶられて目の前の光景さえ処理ができないのだ。


 感情からは逃げられない。人が多すぎて逃げ場がない。どこにいても何もしなくても頭上から喜怒哀楽を流し込まれ、飲み込まざるを得ない。感情を引き金としてささやかな綺麗な思い出が脳裏をよぎる。走馬灯のようなそれは、とても目に留まるような速度ではなく、一瞬で消えて見えなくなっていった。自分の脳が作り出す幸福な非現実だけが目に映る。


 肌の蛇が這い、こちらに何かを言った。音楽や叫び声がそれをかき消した。もっと耳を寄せないととても聞き取れそうになかった。それにしても、いつのまに刺青をいれたのだろう?


 首に腕を回されて、引き寄せられた。どうして俺の方が背が高い?


 入り込んだ薄い舌は口の中を遊ぶように這いまわった。どうして嬉しくない?


 消えずに残った疑念でわずかに正気を取り戻し、激しく動揺し、後悔を覚えた。


 からみついていた腕が離れていくと、秋人は後ろへ下がった。共感の輪から抜けた秋人に冷めた目を向ける女は、人混みの中に見えなくなっていく。


 認識できていたものが剥がれ落ちて、混乱だけが残った。一晩くらい遊んでもいいかもと思った自分は欠片も残らなかった。火遊びなんてまるで適性がなかった。


 音楽のテンポはいつのまにかスローになっていて、上空ではグラフィティが音楽に合わせて攪拌されながらゆっくりと地面に向かって落ちてくる。


 ぞっとした。頭上にある作品は群れとなっていて、どれがどれだかもわからず、触れたらどうなってしまうのかも想像ができなかった。


「秋人さん」


 強い力で肩を掴まれた。後ろに命が立っていて、彼は珍しくひどく狼狽していた。

 放せよ、と言いたかったが、うまく声が出せなかった。


「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」


 秋人が見慣れないグラスをかけていることに気づいた命は、そのグラスを取って検めた。


「リミッター解除されてる違法グラスじゃないですか」


 命は手にしたグラスを床に落とし、踏みつぶした。粉々になったグラスの破片がレーザーの光を受けて輝いた。二人の間でだけ、騒音という騒音が全て消えていた。


「帰りますよ、秋人さん」


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