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湾曲した窓は一階のフロアの上に張り出していた。覗き込めば、フロアを真上から見下ろすことができた。フロアには音楽に乗って踊る人がひしめいている。
「さっきの人はイラストレーターで、私は書家なんですよお」
じゃっかん呂律の回っていない口調で南は言った。
「やったことありますかあ、書道?」
「学校の書初めくらいはあります」
「ちゃんとやってたんですかあ? とおっても偉いですねえ」
そう言って、南は秋人の頭を撫でた。急なことだったので避けられなかったが、その手つきが小学生の子ども相手にするようなものだったので、少し苛立ちを覚えただけだった。
安楽死が認められて心が軽くなった時を境に不快な過去を思い出す時間が減ったせいか、人に触れられるのは相変わらず不快だが、いちいち払いのけなくなった。
「橋爪さんのお知合いですか? どんな作品を作られるんですかあ?」
「俺は皆さんのようにアーティストじゃないんです。付き添いで来ました。あそこにいる人の結婚相手です」
同級生に絡まれている命を指差すと、南は目を見開いた。
「海野先輩、結婚したんだあ! 絶対生涯独身だと思ってたあ」
けたたましく笑う南の内側からは生命力が溢れるようだった。その力強さは純粋にうらやましいと思った。
南はひとしきり笑うと、赤ワインをぐっと飲んだ。顔が真っ赤になっているが、目だけは爛々と輝いていた。
「南さんはどういった作品を書かれるんですか?」
「昔昔の巻物とか想像できますかあ? ああいうのです、細かい字を書くんですよお。仮名じゃなくて、漢字でえ。それでねえ、私はあ、紙の中に一が見えるんですよお。漢数字の一が」
急に話題が変わった。秋人は首をひねった。面倒だなあと思いながら臨んだ書初め用紙は当然真っ白で、何も見えなかった。
「究極の一が、あの中にはあるんですよお。私はそれを掘り起こしたいんです。在るべき場所に、在るべき線が、見えてないだけで、それはもう存在してるんですよお」
「それは理想の話ですか?」
「そうですねえ、そういう境地が、たぶん理想ですねえ」
南はぐっと手を伸ばし、空に一を書いた。その洗練された動きだけで、彼女が今まで恐ろしいほどに線を描いてきたのか読み取ることができた。
「人には世界に何かを残したいっていう欲望があるんですよお。だから何千年も昔の言葉が残っててえ……」
「秋人さん、大丈夫ですか?」
急に命の声が耳元でして、びくりと肩が上下した。
「すみません、南さんに絡まれてるのかと思って」
南は命に気づくとわざとらしく体をくねらせた。
「海野先輩、ひどいじゃないですかあ。ていうかあ、結婚したって報告遅くないですかあ?」
「ああ、こんなに酔って……」
命はろくに取り合わず、南のグラスを持っていた水のペットボトルと交換してそばにあった椅子に座らせた。南はしばらく文句を言っていたが、水を飲み始めると静かになった。
「楽しんでいるみたいですね」
戻ってきた命が言った。その口調は努めて感情を抑えているようだった。友人達との会話で不快なことでもあったのだろうか。はたから見れば楽しそうに見えたが、違ったのだろか。
「ああ、けっこう楽しい。来てよかった」
命が隣に立とうとしたが、入れ替わりに秋人はその場を離れた。命の楽しい時間を邪魔したくなかったから、今は一緒にいたくなかった。
「みんなあんたの学生時代の友だちなんだろ? せっかく久しぶりに会ったんだから俺のことは気にすんなよ」
「どこ行くんですか?」
秋人はガラスの向こうを指差した。
「下行ってくる」
「変な人についていったらだめですよ」
「俺はガキじゃねえんだから放っておけよ」
笑いながら振り返ったが、命はすこしも笑っていなかった。それどころか抑えきれなかった感情が、おそらくは怒りが、引き結んだ唇から読み取れてしまった。




