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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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 命と視界共有をしている時に、認知行動療法AIから通知が来た。治療プログラムを受けましょう、と。視線でスワイプして消す。


 真島医師からも続けるように言われて以後、認知行動療法は一度もやっていなかった。


 そもそも認知行動療法プログラムは苦手だった。自分の内面を見つめ直し、考えを具に検分しなくてはならず、ぐったりさせられるのだ。


「秋人さん、通知消していいんですか?」

「俺にはもう将来の困りごとはない、矯正したい思考も行動もない。それに無理は禁物だ」


 鬱病の症状がひどい時には認知行動療法はできないし、気分が向かない時に無理やりやるのも気が引ける。と、あれこれ理由をつけてはやっていない。


「初めてお会いした時と比べるとかなり表情が明るくなったと思いますが、秋人さんは今も症状が重いんですか?」

「……やりたくないからやらない。心に従わないと、辛い気分になるんだよ」


 秋人は命の肩に軽くもたれかかった。面倒になりそうなときは少し甘える姿勢を見せればだいたいどうにかなる。好みの顔だからだろう、ちょろい男だ。


「ま、まあ、大事ないならそれでいいんですけど……」


 今度は共有視界の中に命の通知が出現した。家を出る三十分前のアラームだ。命の手の中から仮想コントローラーが消える。秋人もコントローラーを手放して、グラスを外した。


「すみません、僕は時間なのでそろそろ出かける準備しますね」

「今日はどこ行くんだ?」

「今日は大学の同期の個展に行ってきます。そのまま飲み会なので、僕の夕食はお構いなく。夜遅いので先に寝ていてください」


 立ち上がりかけた命に言う。


「それってさ、俺もついてってもいいか?」


 命は目を大きく見開いた。


「いいですけど、知らない人だらけの場所に行って大丈夫ですか?」

「わからない、ちなみに場所どこ?」


 秋人が紙のチラシを渡してきた。


 『橋爪功はしづめこう展』と書かれた薄緑色のシンプルなポスターだ。名前以外に情報はなく、一見しただけでは何の展覧会かわからない。


「それ、拡張空間でだけ展開されますよ」


 命に言われ、グラスをかけて改めてポスターを見ると、ポスターの枠から洪水のようにイラストがあふれ出し、最後に展覧会場と会期情報が出た。どうやらデジタルグラフィティのアーティストらしい。この情報をクリップしますか、というポップアップにいいえと答えた。


「あんたが足につけてるステッカーもこの人が作ったやつ?」

「そうです、洒落てますよね」


 グラス越しに見える命の足元にはモノクロのグラフィティがつけられている。よく見てみると、『STONE MASON』という文字だった。


 今まであまり意識したことがなかったので石工という意味だとは気づいていなかった。もしかして、墓標を作る人という意味で石工だろうか? だとしたら何という悪趣味な人だろう。それを付けている命も命だ。


「……ここって展覧会やるような場所なのか?」


 開催場所の『ClubSPARK』の文字を注視すると、地図が視界に現れて詳細を教えてくれた。どう見てもナイトクラブだ。


 命も同じ情報を目にしたのか、眉根を寄せた。


「滅茶苦茶人を集めるって言ってたので変だなと思ってたんですがそういうことでしたか。僕はだいぶ行く気が失せましたが、秋人さんはどうですか?」

「行く」

「なら僕も行きます。着替えて出発しましょうか」

「ドレスコードがある、ジャケット着て来いってさ」


 命はため息をついた。


 道案内に従って辿り着いた先は、調べた通りのナイトクラブがあった。橋爪の展覧会というかイベントをやっているためか、会場内に入る前に並ばなくてはならなかった。並んでいる人々の顔をちらっと見たが、年齢や性別はばらばらだった。


「珍しいな、あんたも不機嫌になるんだ」


 普段なら人の機嫌を取るのが癖になっている秋人だが、命に対しては純粋に物珍しさが勝っていた。


「なりますよ。うるさい場所は苦手なんです。橋爪はあちこちで空間演出の仕事をしてるのもあって、場にそぐわない服を着て行くとねちねち言われるもので、不慣れな場所は気が重いです」


 命は適当にオールバックにした髪を直した。きれいなおでこに髪の束がはらりと落ちる。


 冬物のコートの下に艶のある黒いジャケットをさらりと着こなして、淡いミディアムグリーンのカラーレンズグラスを掛けているあたり、ナイトクラブに馴染みそうに見えた。


 秋人は命のクローゼットから勝手に拝借したセットアップを着ていた。命とは身長が一・五センチしか変わらないので問題なく着ることができた。


「珍しいのは秋人さんの方でしょう。僕の外出についてくるなんて初めてじゃないですか?」

「そうだったかな。まあ、気分だよ、気分」


 適当に誤魔化したところで、列が動き始めた。入り口で年齢確認をされ、暗い通路へと足を踏み入れた。


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