7_5
秋人は半信半疑でついていった。美術を全く知らない秋人であっても、国立と名の付く美術館に作品が飾られているのが途轍もないことだとはわかる。だが、想像を超えすぎていて、信じるのが難しかった。
国立近代美術館の所蔵品ギャラリー二階に、命の父の作品は飾られていた。
命の父は、海野泰という名の油彩画家だとキャプションが書かれていた。抽象画を主に手掛け、拡張空間内で絵画を展開させる方法を様々試みたらしい。
飾られている作品は、見る者に想起された感情を読み取り、拡張空間内で絵と感情が融合して、一度きりのごく個人的な鑑賞体験を与えるとのことだった。
絵そのものは、おどろおどろしさと、突き抜けた爽快感を覚える不思議な絵だった。絵に吸い込まれるのではなく、深い青色が目を通して体の中に染み込んでくるような、そんな印象を与えた。
グラスを持ってこなかったのが悔やまれた。自分にはこの絵がどのように見えるか試してみたかった。
絵の横にあるキャプションには、飾られた絵そのものの解説は書かれていなかった。おそらく鑑賞者に先入観を与えないためだろう。
どれだけ作品を眺めていても、息子の絵を破り捨てるような苛烈さは読み取れなかった。
ちらりと横目で命の様子を伺う。命は心の整理はついていると言ったが、嘘なのだろう。グラスを通さず絵を見つめる横顔がそう言っていた。彼が様々な物を作っても絵だけは絶対に描かなかったのも、それが理由なのだ。
「帰りましょうか」
命がぽつりと言って、美術館を後にした。
帰りの車中では、珍しく命の方が寡黙だった。いつもはぺらぺらよく喋る人が急に黙ってしまうのは、やはり落ち着かなかった。
「あんたが作った作品も、ああやってどこかに飾られてるのか?」
「日本にある作品は、どれも遺族の元にあって、ご自宅で手元供養されています。あとは海外ですね、アムステルダムの博物館に飾られているものもあります。それから、僕としては嬉しくないですが、外国人コレクターが個人所有しています。僕の作品もまた見たいですか?」
秋人は少し考えたが、かぶりを振った。うまく言葉にできなかったが、少なくとも見たいという気持ちはなかった。出会ったころに見せてもらった赤子の作品のことを思い出しただけで、心がざわついた。
「あんたは俺を作品にしたら、父親の作品みたいに売り払うのか?」
「まさか」
「なら、ずっと手元に?」
「最大限」
命は言葉少なに答えた。それから口をぴったり閉ざして窓の外を眺め始めたので、秋人がかすかに口の端を上げたことには気づかれなかった。
「あのさ、遅くなったけど、死ぬ前にやりたいこと思いついたんだけど」
秋人はもじもじしてしまい、すぐに言い出せなかった。これから話すことは、すべてくだらなくて、笑い飛ばされるようなものだった。
命は先ほどまでまとっていた硬い空気を解き、辛抱強く秋人の言葉を待ってくれていた。
「俺が何を言っても笑うな」
「はい、お約束します」
「あんたが仕事してるところが見たい」
「いいですよ、依頼が来たら教えますね」
「あ、あと、遊園地に一緒に行ってほしい」
「わかりました、日程を決めましょう。予約も必要ですね」
命は秋人の願いを少しも笑わずに、すぐにカレンダーアプリを起動させた。その様子を見て、心底ほっとした。命が自分を馬鹿にしたり嘲笑ったりしないと理解していても、どうしても嫌な想像をしてしまうのだ。
「遊園地は、いかにもデートっぽいですね」
命が気恥ずかしそうに言った。
「そうか……?」
秋人は首を傾げた。
言われてみればそうかもしれないが、あまり共感できなかった。遊園地はデートスポットでもあるが、どんな関係性の人とも行くことがある場所だろう。秋人にとって遊園地は家族で行く場所だった。
「というか一応は結婚してるんだから、今更デートって呼ばないんじゃないか?」
「そんなことないですよ。呼び名は自由です。そういえば、デートっぽいデートは初めてですね」
秋人は苦笑した。体調の良い日は限られているし、そうでなくても外出が辛いため、命と一緒に行ったことがある場所は限られていた。それに、単に生活を共にする人との用事を済ませるための外出がほとんどで、デートではなかった。
「だからかな。僕たちあんまり結婚してる感じがしないですよね。そう思いませんか、秋人さん」
「あんた何言ってんだよ。実感もなにも婚姻届け出したし指輪もしてるだろ」
「あれ、僕だけですか? 恋人って感じがしません?」
秋人は押し黙った。そういう冗談は聞きたくなかった。どうせ死んだ後の自分にしか用がないのに、思わせぶりなことばかり言われるのは嫌だった。
それに、恋人も夫婦も、どちらもよく知らなかった。人から不快な扱いを受けた影響で恋愛を避け続けてきたし、最も身近な夫婦である両親は離婚した。
「俺にとってあんたは……」
命は何だろう、命の関係は何と言い表せばいいのだろう。兄がいたらこうだっただろうかと思ったこともあったが、兄弟とはしないこともした。単純にパートナーや夫と呼ぶには、二人の間にあるものはあまりに暗い取り決めだ。
「そんなことよりいつ予約するんだよ」
「ああ、すみません。いつ頃がいいですか?」
「あったかくなってから、来年」
「大分先になりますけど、二月後半はいかがですか?」
「やだ。二月はまだ寒い。三月がいい」
「ええっと、僕の空いている日で、遊園地に行けそうな日は……」
命の視線が、三月三十日に止まった。
ちょうど安楽死予定日の一週間前だった。一瞬だけ気まずい沈黙が流れた。それを秋人が微笑んでなかったことにした。




