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真島医師の診療所へ通い始めて三か月が経過しても、秋人の病状は改善の兆しを見せなかった。
高度治療シミュレーション結果にも変動はなかった。リストバンド型のメンタルバイタルサイン測定器で二十四時間測定した結果と過去の治療歴を元に導き出された最適な薬の飲み合わせ以上の最適解はなく、寛解と呼べる状態になるまで約十五年という数字に変化はなかった。治療シミュレーションの精度は非常に高く、実際の治療結果と遜色ない結果が得られてしまう。
鬱病を含めた精神疾患は、ほとんどの病が駆逐された現代においても確実な治療法はない。脳という器官には未だ謎が多く、万民に必ず効く治療法もない。
抗鬱薬は百年以上昔からある薬で、長い時間をかけて改良を続けられてきた。おかげで、軽い鬱傾向がある患者であれば一度服薬すればすぐに回復することもあるほどだ。副作用も軽く依存性のない抗鬱薬は、ドラッグストアにも並んでいる。
しかし、秋人は薬の効きが悪い体質だった。薬を飲んで少しよくなり始めても、それ以上快方に向かうこともないし、減薬が始まると坂道を転げ落ちるように悪化していくのだ。
こうなってようやく、真島医師は秋人の安楽死申請を出すことを決めた。ゲノム編集治療が保険適用だったら試してからでないと申請されなかっただろうが、秋人はすでに標準治療の範囲内で可能な治療全てに努めた。真島医師の指示で受けた検査でも別の疾患は一つも見つからなかった。
三年を超える長期にわたる治療でも回復の兆しがない、もしくは回復したとしても繰り返し再発し、患者の治療意思の存続が困難であること。安楽死が認められる要件の一つだ。
秋人に安楽死申請のことを伝えた真島医師の表情は硬く、この人に見てもらえてよかったと心から思えた。
日本における安楽死は、医師による薬剤注入と、本人による薬剤摂取が認められている。秋人は自身での薬剤摂取を選んだ。
「最期くらい迷惑をかけずに死にたいんです」
真島医師は複雑そうな顔で頷く。
「わかりました。申請を進めます。もしも安楽死が認められた場合でもご自身が決定を撤回したい場合には、すぐにでも取りやめることが可能です」
「いいえ、何があっても俺はやめません」
自分で言ったのに、ふわふわとして実感が湧かなかった。他人に対して自らの意志をはっきり表明したのは随分と久しぶりだった。
家に帰って命に安楽死申請の件を報告した。
「よかったですね。ひとまずお疲れ様でした。真島医師が申請を出したなら、おそらくは受理されるでしょう」
「なんでわかる?」
「安楽死申請は、申請を上げて却下された件数はごくわずかだからです。条件をクリアしていないと申請できないので、役所も突っぱねる理由がないのでしょう」
「そうか。なら、期待して待つことにするよ」
言いながら、おかしくなってくすっと笑った。安楽死の申請が通ることを期待するのは、どう考えてもおかしい。自殺を望んで自ら身を投げたり首を吊ったり、そうでなければ死ねない世の中の方がよほど健全だった気がした。
命は笑っていなかった。
まだ申請を上げた段階で、安楽死することが確定していないからだろうか。その唇に、瞳の向こうに、暗い喜びの陽炎が見えやしないかと覗き込んだが、ついぞ見つけられなかった。
死体欲しさに自殺を止めさせ安楽死を勧めたのは命だが、彼は秋人の死を望んでいるのか、時々わからなくなった。
秋人も、命に自分の死を喜んでほしいのか悲しんでほしいのか、自分で自分がわからなかった。
「死ぬまでにやりたいことを何でもやりましょう」
命はずっと前から決めていたみたいに、決然と言った。
「何でもって、そう言われても困る」
安楽死がほとんど確定事項になってから、秋人は心持ちが随分と軽くなったのを感じていた。明確な死の手ごたえを感じた人にはよくある反応だった。
だから、死ぬ日までを真剣に生き抜こうと言われても、すぐに、はい、とは言えなかった。まだ自分の足が雲を踏みしめている気がしている。
「じゃあ、これから見つけてください。僕が手伝えることならなんでもやります」
「探しておくよ」
軽い調子で、にやっと笑いながら言うと、命はちょっとむすっとした。
いつもならここで息苦しい場の空気を普段通りに戻したいと必死になるところだが、今日の秋人はそうではなかった。むしろ、もっと命をおちょくってやりたい気になった。
「あんたも何か考えておけば? 生きてる俺としたいことがあれば、だけど」
「ええ、探しておきます。ひとまず抱きしめてもいいですか?」
命が控えめに両手を広げた。秋人は目を瞬いた。命がスキンシップを求めてきたのはこれが初めてだった。
「人に触れられるの、お嫌いだと思いますが……。労いです」
秋人は、半歩だけ命に近づいた。誰かに抱きしめられるのは姉が家にいた時以来で、どう動いていいか思い出せなかった。命も、珍しく恥ずかしがっているのか、ぎこちなく秋人の背に手を回した。
命の体は意外とがっしりしていて、それでも幼いころにお互いを守り合っていた姉の腕の中を思い出させた。目の奥が熱くなるのを感じた。
死ぬ前に姉さんに会えたら、そんなことを思ったが、すぐに打ち消した。姉が出て行った日が、互いが互いの中で死んだ日だった、生き延びるために。
命はすぐに離れた。ちょっとした挨拶のハグみたいだった。
「本当にお疲れ様です。今日は秋人さんの好きなものを食べましょう」
「食事制限はなしか?」
「ええ、今日だけはね。特別ですよ」
そう言って、命は目を細めて笑った。




