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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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「ただいま」


 転院後の初診で緊張しすぎてしまったのか、秋人は玄関で靴を脱ぐ力が出ず、座り込んでしまった。床板はひんやりとしていて、緩やかに体温を奪っていく。


 医師の前でさえ仮面をつけ、偶然にも今日は少しだけ調子が悪かっただけのように振舞ってしまう。いつも自分の本当の姿をさらけ出すことができない。そのせいもあってか、何度診察を受けて薬を変えてもうまくいかなかった。ある程度症状が回復しても必ず悪化してしまう。


 精神疾患の予防や治療は、秋人が子どもの頃よりもずっと進んでいる。鬱病の発症原因である脳の部位も特定されており、会社の定期健診でも鬱病の兆候が見られた場合には医師の診察を受けるよう勧められる。


 軽度の鬱病であったり兆候が見られたりする段階であれば認知行動療法もある程度の効果が見込まれるが、それより深刻な場合には治療薬と、場合によっては睡眠薬と併用しながら治していく昔ながらの薬物療法が基本だ。ゲノム編集治療の治験も進んでいるが、かなり高額で選択肢には上がりにくい。


 これまで何種類もの治療薬を服薬してきたが、どれも秋人を“普通”にはしてくれなかった。死を願わないようにはならなかった。


 でも、うまくいくことを期待したこともなかった。希死念慮とともに生きてきた。死にたいと考えなくなった自分の方が正しいものだとされるのが怖くて、死にたいと考えていた自分はいなくなってよかったのだとされるのも怖い。


 動けなくなっていた秋人を、通りがかった命が見つけた。

「そこにずっといたら寒いですよ、ソファーに移動させますね」


 と言って、靴を脱がせてから半ば引きずるようにして移動させた。


 ソファーの肘置きに頭を乗せて寝転んでいると、命はブランケットを持ってきてかけてくれた。ブランケットはほどよい重みがあって安心感を与えてくれた。玄関で座り込んでいた時と比べれば天国のような環境だった。


 命が怒っていやしないかと心底ひやひやしながら顔色を伺ったが、命の顔からは何も読み取れなかった。耐えきれずとうとう質問した。


「あんたは怒らないのか?」

「何にですか?」


 命は本当に怒る理由に思い至らないようで、大きな目をぱちぱちさせていた。


「だって、こんなところでだらけてるから」

「だらけてはいないでしょう、疲れているんですよ。それに、ここはもう秋人さんの家です。僕に気を遣う必要ないじゃないですか。誰のせいで秋人さんが今この瞬間にも思い詰めてるんですか、僕ですよね?」


 おどけたように言って、命は自分で自分を指差した。


「突き詰めたら、大体なんでもあんたのせいだ」


 本当の原因は他にもあるとわかっていたが、あえて否定しなかった。そもそも思い詰めすぎるようになったのは命のせいではない。


「そうそう、その調子です。今日は疲れたでしょう、何か飲み物でも持ってきます」


 命はコーヒーを持って戻ってきた。秋人はどうにか体を起こして受け取った、一口飲むと体の強張りが解けていくのを感じた。自分で淹れたコーヒーではこうはならないのに、他人が淹れると落ち着く飲み物になるのだから、不思議なものだ。


「真島医師はどうでした?」

「まともそうな人だった。あれじゃあんたの口利きも聞き入れそうにないな」

「聞き入れてくれそうだったら困りますよ。公正な目で診てもらって、そのうえで安楽死を申請してもらわないと」


 そう言って、命は神妙な顔でコーヒーをすすった。


「あんた、どうやってあの診療所が安楽死の申請を上げてるって知ったんだ? 真島医師の弟からだって聞き出せる話じゃないだろ、守秘義務があるんだから。ましてや公表される情報じゃないから調べたってわからない。やっぱり違法な手段でも使ってんのか?」

「やっぱりって何ですか、違いますよ。インターネット上では絶対に出回らない情報も、現実では意外とやりとりされてるんですよ。人の口には戸が立てられないですからね」

「なるほどね。だが、そんな情報はまともな場所じゃやりとりされねえだろ。やっぱりあんた、相当な計画魔だな? 俺という死体以外は全部準備して考えてあった、違うか?」

「そうですよ。安楽死法が成立してからずっと考えてました。とはいえ、夢物語もいいところでした」


 命はあっさり認めて、まるで悪びれもせず微笑んだ。


「あとは理想的な人物と出会うだけでしたが、正直そんな都合の良い人なんて探しても会える訳がなく……。だから、秋人さんに会ったときは驚きすぎて心臓が止まるかと思いました。だって、思い描いていた通りの人が現実にいたんですから」


 どおりで自殺しようとしている人を目前にしているとは思えない言動だったわけだ。命はとにかく嬉しくて嬉しくてたまらなかったのだろう。こっちは怪異に会ったのかと思って自殺衝動ごと失せたというのに。


「それより、診察はどうでしたか?」

「あ、ああ……」


 それから秋人は診察中のことをぽつぽつと話したが、ゲノム編集治療については言わなかった。


 ゲノム編集治療。それは究極的なオーダーメイド治療法。


 がん治療や根本治療のない難病においては標準治療とされつつある。だが、精神疾患についてはまだ自費診療の域を出ない。


 遺伝子をいじることに対する忌避感は世間的には薄れている。スーパーにも普通に遺伝子編集された食料品が売られているし、購入者は特段気にもしない。


 しかし、秋人は自分の遺伝子をいじることを心の奥底で恐れていた。自分が自分であることを揺るがされるような、聖域を侵されるような、そういうおそれだった。


 すでに鬱病の治療薬をいくつも服用して脳の神経伝達物質をいじっているのに、薬を飲んだだけで自分の性格が変わるのを知っているのに、それでも遺伝子をいじるのは怖い。遺伝子レベルまで変わらないと普通になれず、幸福を感じられるようにならないと思い知らされるのは、もっと怖い。


「治療、うまくいきますかね」


 何気なく命が言った。深く考えた末の言葉ではなく、単純に医者にかかった人に対する一般的な言葉。


 その言葉は、秋人の病が寛解しても喜ばない人が言うべきではない、無神経なものだった。


 一瞬だけ苛立ちが熱風のように心の中をざあっと吹いて、すぐに消えた。


「さあな。俺にはわからない」


 空になったカップをテーブルの上において、ブランケットを被って寝返りを打った。


「そのままここで眠るんですか?」

「怠い、動けない」

「ベッドの方が寝心地いいのに……」


 命はカップを持って立ち上がり、リビングルームを後にした。部屋は暗くなって、静かになった。


 秋人がぼうっと暗い天井を眺めていると、寝間着の命が枕と敷布団を抱えて戻ってきた。


「隣で寝てもいいですか?」


 聞きながら、命はすでにソファーの横に布団を敷いて枕を置いていた。


「なんで?」

「リビングで寝るのってちょっと特別感あるので、秋人さんを見てたら久しぶりにやりたくなって。学生の時とか、飲んだ後に友だちとこうやって寝たりしませんでしたか?」


 秋人はまた喉の奥がきゅっと閉まるのを感じた。


 そんな友だちはいなかった。友だちがいたことはない。学校にいい思い出などない。


 この顔のせいで近づいてくる同級生は多かった、だが、誰にも心を開けなかった。

 そばに居たがる人も多かったが、秋人のことを綺麗な花か何かのように扱うその態度が嫌で、秋人の方から逃げた。誰も彼も、秋人を前にするとおかしくなっていくのだ。


 秋人が寂しい学生時代の思い出に胸を刺されて黙っている間に、命はすっかり寝る支度を整えて、ソファーの背もたれにかかっていた青いブランケットを被った。


「おやすみなさい、秋人さん」

「……おやすみ」


 しばらくすると命の寝息が聞こえてきた。秋人は相変わらず眠れなかった。睡眠薬は薬箱に入っているが、そこまで行くのが面倒だった。


 寝返りを打って、布団で眠る命の顔を見下ろした。呑気な顔で眠っているのを見ていると、つい強めに指でその頬をつついてしまった。命がうっすらと目を開けたが、すぐに閉じた。


「なんだよ」


 自分が何を期待していたのかわからなかったが、文句だけが口を突いて出た。

 秋人はそのまま暗闇の中でかすかに見える命の寝顔をずっと眺めていた。


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