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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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 週明け、命が以前通っていた病院へ車で送ってくれた。


 病院の駐車場に着いた時には、口から心臓が飛び出そうなほど緊張していた。秋人が震えそうな手でドアを開けようとすると、命があっと声を上げた。こちらも思わずびくりとする。


「すみません、忘れていたことがあって、今思い出しました」


 命が視界共有をしてきて、銀行口座やパスポート、そのほか資格や免許などの氏名が変わったという通知を見せてきた。


 二十年ほど前の法改正で、婚姻届けが受理された後、一か月以内にマイナンバーに紐づいているものは自動で婚姻して名字が変わった者の氏名変更手続きがされるようになっていた。婚姻届けを出して一週間と経っていないのに迅速なものだ。


「ずっと見せようと思っていたのに忘れていました」


 見せるのが遅くなったのは、きっと命が忘れたいただけが理由ではないだろう。秋人の調子が悪い時に話しかけられなくて、タイミングを逃していたに違いない。秋人は他人に異常に気を遣う質であるので、他人が気を遣っている時は誰より敏感に感じ取ることができた。


常盤命ときわみこと、やっぱりいい名前だと思いませんか?」

「あーはいはい、そうだな。良い名前だよ」

「結婚する気もなく生きてきましたが、なんだかんだ嬉しくなってしまうものですね」


 気恥ずかしそうに微笑む命を見ていると、こちらまで恥ずかしくなってくる。恥ずかしがる必要などないと自分に言い聞かせてどうにか気持ちを落ち着ける。


「話は終わりか? そろそろ時間だから、行くよ」

「はい、行ってらっしゃい。終わるころに迎えに来ますね」


 秋人はぶっきらぼうに返事をして、車を降りた。さっきまでの緊張はすっかり解けていて、落ち着いた状態で診察を待つことができた。


 待合室には数名の患者が順番待ちをしていた。彼らが息をしているのか疑わしいほど待合室は静かで、秋人は彼らのほとんどが無感症患者だろうと推測した。


 気分が沈み、生活がままならなくなる鬱病とは違い、無気力で無感動になり、自分の中から欲求がなくなって生活できなくなる病だ。何かをやり切ったことでかかる燃え尽き症候群とも違う。


 社会の中からストレス要因が減少し、さらにストレス対策も増大したことで、人は平たんかつ安全な生活を営むようになった。物質的、感情的にも満たされると、ストレスを感じなくなった人は、自分の感情や欲求を見失うようになった。


 治療法としては薬物療法がメインで、あとはあえてストレス環境に身を置くのが有効とされている。


 ストレスもなく満たされた生活を送ったが故に罹患する精神疾患など、常に気が休まらない生活を送る秋人からすればうらやましいとさえ思った。


 待合室で十分ほど待ってから医師の診察を受けることができた。


 診察室に入ると鼓動が一気に速まったが、どうにか引っ越しをしたので転院したいという事情を説明した。すると、あっさり紹介状を書いてもらうことができた。


 前回の通院から間が空いていたが、それについては詳しく聞かれなかった。前回は確か障害者年金を受給してはどうかと提案され、秋人が何となく居心地が悪くなって、次回の予約を先延ばしにしていた。


 予約しておきながらも一度行けないと、次の診察に行きづらくなってそのままフェードアウトしてしまうのはよくあることだから、秋人が久しぶりに診察に来たのも医師からすれば気にするほどのことでもなかったのかもしれない。


 怒られたり、嫌味を言われたり、妄想の中で何度もそういう場面を思い浮かべては委縮していたので、ただただほっとした。


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