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灰にかえらない  作者: 水底 眠
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 秋人あきひとにとって叩きつける大雨はさしたる問題ではなかった。それによって引き起こされた破滅願望が問題だった。


 死ぬしかない。


 降りしきる雨の中を歩いた。当然、外に人の姿はない。雨粒に激しく叩かれて、それでも歩いた。寒くて指がかじかんで、体が震えた。


 しばらく前に退職した職場に荷物を取りに行った帰り道だった。退職日はとうに過ぎていたし、業務はしていない。ただ私物を取りに行っただけなのに、この雨に溶けてしまいそうなほど疲れていた。自分の中で張り詰めていた糸がふっつりと切れてしまった。


 冷静な頭であればこんな大雨の日ではなく別の日に行くべきだと考えられたかもしれないが、無理だった。もう何度も約束した日に家を出られなくて反故にしていたし、総務の人間に私物を捨てられるのは無性に嫌だった。


 重い体を引きずってどうにか会社へ行って、帰るときになって電車が止まった。天気予報も電車の運行情報も見なかった。だから、大雨も電車の計画運休についても知らなかった。傘も持たずに家を出ていたし、途中で買う気力もなくなった。


 恥ずかしかった。いくつになってもこの程度のことができない自分が。


 大きな橋が見えてきて、秋人はひどい安堵感を覚えた。大きな河を流れる濁流の激しい音も、全身を叩く雨の音も、ひたすらに単調で色彩がない。ただ、求めるものを与えてくれる予感へ駆り立てる。


 鞄が水溜まりに落ちて、雨水を撒き散らした。


 欄干をよじ登り、濁流を見下ろした。この大雨で川は増水していた。おびただしい数の黒々とした蛇が海へと向かって行くように見えた。


 目を閉じて、叩きつける雨を全身で感じた、足の下を流れる濁流もまた。

 顔を伝う雫に僅かな温もりが混ざった。


「あの、すみません」


 秋人はびくりと全身を震わせ、声のした方を見遣った。


 傘を差した男が、こちらを見上げていた。安っぽいどこにでも売っていそうなビニール傘が、叩きつける雨に懸命に耐えるように揺れている。


 現実から遠ざかりかけた意識が急激に引き戻され、激しい焦りを覚えた。


「見間違いでなければ、身を投げようとされてますか?」


 秋人は持ち前の人見知りを発揮することなく、喧嘩腰で答えた。怒りの制御ができなかった。


「他に何があるんだよ」


 腹の底から声を出したのは久しぶりで、それだけで息が上がりそうだった。


 否定されるだろうと思って身構えた。死にたいと言ったとき、誰もが死んではいけないと言う。死んではいけない、生きなければならない。誰一人としてそれを認めない。認めたとて、それは自分が死んで喜ぶだけの屑だ。


 男が耐えきれなくなったように口角を上げたのに気づいて、秋人は眉をひそめた。雨で視界が滲んで見えづらいが、男はたしかに微笑んでいた。


「自殺するなら、あなたの体をもらえませんか?」


 うるさい雨音のせいで聞き間違えたかと思ったが、男のまっすぐな瞳がそれを否定していた。秋人は正しく男の言葉を聞き届けていた。


「あんた、頭おかしい人?」

「よく言われます」


 照れたように男は微笑んだ。この土砂降りの中、川に身を投げようとしている男を前にして。


「立ち話も何ですから、僕の家に来ませんか?」

「今から死のうとしている人にかける言葉じゃないだろ」

「確かにそうかもしれませんね。でも、僕の家に寄ってからもう一度ここに来ることもできますよね?」


 男はなかなか引き下がらなかった。初対面の、しかも自殺をしようとしている人に対して、すさまじい図々しさを発揮している。


 秋人は自分の中にあった衝動がすっかり落ち着いてしまったことに気づいて、欄干から降りた。男はすかさず秋人の腕を掴んできた、強い力だった。秋人はその手を振りほどく気力がなかった。他人の意志を目の当たりにすると、秋人の中の意志は水に溶けるようにして消えて行ってしまう。いつものことだった。


「ああ、こんなに冷えて……。行きましょう、僕の家までそんなに遠くないですから」


 男が傘の下に入れてくれると、肌を叩く雨の痛みが消えた。事態を飲み込めないほど混乱しているのに、どこかほっとしている自分がいた。


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