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公共の場の寄生者には適切な生態系を

僕、観月奏みづき かなでの日常は、極めて規則的だ。

毎朝7時32分のバスに乗り、6番目の停留所で降りる。揺られる時間は約15分。僕にとっては、思考を整理するための貴重な時間だ。

だが最近、この平穏な生態系を乱す、外来種が侵入してきた。


週に数回、同じバスに乗り込んでくる派手な服装の中年女性。僕は心の中で彼女を「マダム」と呼んでいる。

彼女の行動は、予測可能かつ非常に非合理的だ。


まず、列に並ばない。ドアが開くと、横からスッと体を滑り込ませ、一番に乗り込む。

次に、二人掛けの座席の一つに陣取ると、空いている隣の席に、これ見よがしに大きなブランド物のバッグを置く。満員になっても、決してどけようとはしない。まるで、その席の乗車券まで購入したかのような態度だ。

そして、車内が静寂に包まれていても、お構いなしに大声で電話を始める。

「ええ、聞いてくださるぅ? 昨日、デパートでぇ……」


周囲の乗客たちは、迷惑そうな顔でちらりと彼女を見るが、誰も何も言わない。波風を立てることを嫌う、典型的な日本人の反応だ。運転手がマイク越しに「お席は詰めてお座りください」とアナウンスしても、彼女は窓の外を眺めて聞こえないフリをする。


これは、公共リソースの著しい私物化であり、システムのバグだ。

彼女は「他人が注意してこない」という人間の心理的コストを巧みに利用し、本来一人の乗客に許される以上の快適さ(スペース、自由)を不当に享受している。この非効率な状態は、僕の秩序ある世界においてノイズでしかない。


排除すべきだ。しかし、直接対決は愚の骨頂。感情的な口論はエネルギーの無駄遣いだし、僕が変人扱いされるリスクもある。

最も合理的な解決策は、彼女自身に「このバスは居心地が悪い」と認識させ、自発的にこの生態系から去るように誘導することだ。


僕は数日間、観察と分析に徹した。

彼女が乗降するバス停。持っている荷物に入っている、高級スーパーやカルチャースクールらしきロゴ。電話口で話す内容の断片。それらの情報を統合し、彼女の生活圏を特定するのは、さほど難しいことではなかった。


準備は整った。オペレーションを開始する。


フェーズ1:システムの利用

まず、僕はバス会社のウェブサイトを開いた。「ご意見・ご要望」というフォームがある。素晴らしい。企業という組織は、「お客様の声」、特に「コンプライアンス」や「安全運行」に関わる指摘を無視できないように設計されている。


僕は、複数のフリーメールアドレスを取得し、それぞれ異なる乗客を演じた。

ある時は、「高齢の母が利用している者」として。

『〇月〇日、〇時台の〇〇行き(車両ナンバーXXXX)において、特定の女性客による座席占有行為が常習化しており、高齢者が着席できず危険です。ドライブレコーダーの映像をご確認の上、厳正な対応を求めます』


またある時は、「毎日通学で利用する学生」として。

『大声での通話、荷物による座席の占有など、マナーの悪い乗客がいます。他の乗客が萎縮しており、車内の雰囲気が非常に悪いです。改善が見られない場合、SNS等での問題提起も考えます』

最後の一文は、企業の評判リスクを刺激するための、ささやかな脅しだ。


フェーズ2:社会的圧力

次に、僕が特定した彼女が通うカルチャースクールの、地域の口コミサイトに投稿した。もちろん、匿名で。

『こちらのスクールは評判が良いと聞いていますが、生徒さんと思われる方の、公共交通機関でのマナーが少々気になりました。派手なバッグを座席に置き、大声で話す方が……。スクール全体の品位に関わることかと、老婆心ながらお伝えします』

個人名は出さない。だが、心当たりのある者が読めば、自分のことだとわかる。そして、彼女の周囲の人間も「もしかして……」と気づく。これで十分だ。


結果は、数日後に現れ始めた。


いつものバス。マダムが乗り込んでくると、運転手がマイクを使わず、しかし車内にはっきりと聞こえる声で言った。

「お客様、恐れ入ります。お荷物は膝の上か、足元へお願いします。他のお客様が座れませんので」

それは、いつもの形式的なアナウンスとは違う、明確な「個人への指示」だった。

マダムは一瞬ムッとした顔をしたが、周囲の視線も感じ、しぶしぶバッグを膝の上に乗せた。


さらに数日後、バスに乗ってきた彼女の顔は、明らかに不機嫌だった。おそらく、カルチャースクールで何か言われたのだろう。噂話、あるいは講師からのそれとない注意か。

彼女が座ると、以前なら無言で立っていた学生が、彼女の隣に「失礼します」としっかり座るようになった。僕が流した「情報」によって、乗客たちの「これくらいはっきり要求してもいいんだ」という心理的ハードルが下がったのだ。


かつて彼女の支配下にあった快適な空間は、今や四方八方から監視されているかのような、息苦しい場所へと変わった。彼女の武器だった「鈍感力」は、明確な「指示」と「視線」の前では無力だ。


そして、オペレーション開始から二週間が過ぎた朝。

いつものバスに、マダムの姿はなかった。その次の日も、そのまた次の日も、彼女がバスに乗り込んでくることはなかった。


彼女は、この生態系から去った。プライドを守るため、よりコストのかかる交通手段を選んだのだろう。それは彼女の選択であり、僕が知る必要のないことだ。


バスの車内には、平穏な静けさが戻っていた。

僕は窓の外を流れゆく景色を眺めながら、静かに結論づけた。

環境を最適化すれば、不適合な個体は自然に淘汰される。それは、この世界の、実に合理的で美しい法則の一つだ。

ただ、その「環境」に、少しだけ人為的な手を加えてあげただけのこと。

僕の平穏な15分間が守られるなら、それくらいの労力は惜しくない。

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