終章 新たな記憶の始まり
あれから一ヶ月が経過した。
世界は、驚くべき速さで変容を遂げていった。しかし、それは破壊的な変化ではなく、むしろ自然な進化のように見えた。
記憶保管所は、もはや単なるデータの保管施設ではない。それは、無数の可能性が交差する「記憶の結節点」となっていた。
「慈童さん、新しいデータが入りました」
椿が、いつものように報告に来る。彼女自身も、この一ヶ月で大きく変わった。父親との記憶を受け入れ、それを新たな可能性として活かすことを学んだのだ。
「ありがとう」
私は光学ディスプレイから目を上げた。そこには、世界中から集められる新しい形の記憶が表示されている。
もはや、それは単なる過去の記録ではない。
現在進行形で生まれ続ける、無数の可能性の結晶だった。
「面白い現象が起きています」
椿が続ける。
「人々の記憶が、自発的に共鳴し始めているんです」
確かに、モニターには興味深いパターンが表示されていた。
異なる人々の記憶が、自然に同調し、新たな物語を紡ぎ出している。
「これは、予想していた通りの進化だ」
私は立ち上がり、窓際まで歩いた。
外の景色は、一見すると何も変わっていないように見える。しかし、注意深く見れば、わずかな「揺らぎ」が見えた。
それは、様々な可能性が重なり合う様を示す現象だった。
「ねえ、慈童さん」
椿が、少し躊躇いがちに話しかけてきた。
「はい?」
「私たちの役目は、これからどうなっていくんでしょうか?」
その問いには、深い意味が込められていた。
「私たちは、『記憶の案内人』になるんだ」
私は答えた。
「もはや記憶を管理するのではない。可能性の海を航海する人々の、道標となるのが私たちの新しい役目だ」
椿は小さく頷いた。
その時、来訪者を告げる音が鳴った。
「どうぞ」
扉が開き、一人の少女が入ってきた。
彼女は10歳ほどだろうか。小さな体に似合わない、澄んだ瞳をしていた。
「記憶を……探しています」
少女は、ためらいがちに言った。
「でも、それは私の記憶じゃないかもしれません。だけど、確かにあるはずなんです」
私は微笑んだ。
「ああ、分かります。それは、まだ実現していない可能性かもしれない。でも、確かにあなたの中に存在している」
少女の目が輝いた。
「本当ですか?」
「ええ。では、一緒に探してみましょう」
私は立ち上がり、記憶の海への案内人として、少女と向き合った。
これが、新しい時代の始まり。
全ての記憶が、可能性として解き放たれた世界での、最初の一歩。
私たちは今、その物語の証人となっているのだ。
## 跋文:或る記憶管理人の手記として
この記録を書き終えようとしている今、私の目の前には無数の可能性が広がっている。
それは時として混沢としているが、決して無秩序ではない。
むしろ、より高次の秩序が、そこには存在している。
記憶蟲は、もはや存在しない。
いや、正確に言えば、それは私たち自身の中に溶け込んだのだ。
可能性を食らう蟲は、可能性を育む種となった。
そして、その種は今、無数の物語を生み出し続けている。
私は、この記録が誰かの手に渡り、新たな可能性を紡ぎ出すきっかけになることを願っている。
なぜなら、これは終わりの物語ではない。
これは、無限の始まりの物語なのだから。
――2045年某月某日
記憶管理人 鷹觜慈童
終