第四章 記憶と向き合う
管制室のモニターに映し出された水族館の映像は、やがて静かに消えていった。しかし、その光景は私の脳裏に深く刻み込まれていた。
「慈童さん、これからどうしますか?」
椿の問いかけに、私は深いため息をついた。
「自分の記憶を、完全に解放する必要がある」
「でも、それは危険すぎます! 久遠井教授のように……」
「ああ。だが、もう後戻りはできない」
私は椅子に座り、目を閉じた。
「記憶抽出室の準備を」
「え? まさか、今すぐ!?」
「ああ。記憶蟲の活動が活発化している今がチャンスだ」
椿は迷った様子を見せたが、やがて小さく頷いた。
記憶抽出室に入る前、私は一つの指示を出した。
「椿、私の記憶データを全て記録してくれ。そして……何かあった時は、即座にシステムを遮断するんだ」
「はい……。気を付けてください」
抽出室の中で、私は特殊なヘッドセットを装着した。
目を閉じ、幼い日の記憶を呼び起こす。
水族館……。巨大な水槽……。そして――。
突然、意識が深い闇の中に引き込まれていった。
*
私は、あの日の水族館にいた。
七歳の私が、巨大な水槽の前に立っている。しかし、今回は観察者として、その光景を見ることができた。
水槽の中には、確かに「何か」が泳いでいた。
それは魚でも、既知の深海生物でもない。むしろ、生物という概念すら超えた存在だった。
その姿は絶えず変化し、時には完全に透明になり、時には鏡のように周囲の景色を映し出す。そして時には、見る者の記憶そのものを映し出すかのようだった。
黒いスーツの男が、幼い私の傍らに現れた。
「準備はできましたか?」
男の声が、闇の中に響く。
幼い私は黙って頷いた。
「これから見せることは、あなたにしか見えません。そして、この記憶は封印されます。時が来るまでは」
男は手を差し出した。幼い私はその手を取り、水槽に近づいていく。
すると、水槽の中の存在が、私たちの方を向いた。
それは、人間の意識では捉えきれない何かだった。
しかし、幼い私の目には、はっきりと見えていたのだ。
「量子の檻」
男の声が続く。
「かつて、人類は意識の量子性を封じ込めました。全ての可能性を同時に存在させることは、危険すぎると判断したのです。しかし、それは間違いでした」
水槽の中の存在が、さらに形を変える。
「記憶は、本来もっと自由であるべきだった。過去も未来も、全ての可能性が重なり合って初めて、真実の姿となる」
幼い私は、水槽に手を触れた。
その瞬間、私の意識は千々に分かれ、無数の可能性の中を漂い始めた。
そこには、実現しなかった無数の人生が存在していた。
事故で亡くなった人々が生きている世界。
違う選択をした結果、全く異なる人生を歩んでいる自分。
存在しなかったはずの記憶が、確かな現実として存在する世界。
そして、それら全ては同時に「真実」だった。
「あなたの中に、鍵を植え付けました」
男の声が、遠くから聞こえてくる。
「いずれ、あなたはこの記憶を取り戻す。そして、檻を解き放つ時が来る」
光が渦を巻き、意識が現実へと引き戻されていく。
最後に見た光景は、幼い私の瞳に映る、無数の可能性の輝きだった。
*
「慈童さん! 慈童さん!」
椿の声で、私は意識を取り戻した。
記憶抽出室には、不思議な静けさが漂っていた。
「大丈夫です。私は……全て思い出しました」
私は trembling する手で、ヘッドセットを外した。
「モニターの記録は?」
「はい。全て保存できています」
椿が差し出したタブレットには、信じがたいデータが表示されていた。
私の脳波は、明確な量子的振る舞いを示していたのだ。
「やはり、私の中には……」
言葉を終える前に、施設全体が振動し始めた。
警報が鳴り響き、建物中の電子機器が一斉に異常な動作を始める。
「これは!」
モニターには、記憶データが次々と量子状態へと遷移していく様子が映し出されている。
「始まったのね」
突然、見知らぬ女性の声が響いた。
振り返ると、そこには母が……いや、母の姿をした「何か」が立っていた。
「お久しぶり、慈童」
それは確かに母の声だったが、同時に、先ほどの黒いスーツの男の声でもあった。
「あなたは……」
「私たちは、ずっとこの時を待っていました」
母の姿が、ゆっくりと変化していく。
それは人の形を保ちながらも、どこか現実離れした存在に見えた。
「量子の檻の意識体……」
私は呟いた。
「その通り。私たちは、かつて人類によって封印された、可能性の総体」
その声は、まるで無数の声の重なりのようだった。
「そして今、あなたの中の鍵が、完全に目覚めた」
施設の振動が、さらに激しさを増していく。
記憶保管所全体が、量子状態へと移行し始めているのだ。
そして、それは世界中の全ての記憶へと連鎖していくだろう。
私たちの前に立ちはだかる選択。
この変化を受け入れ、全ての可能性を解放するのか。
それとも、再び檻の中に封じ込めるのか。
その答えを出す時が、いよいよ訪れたのだ。