第三章 記憶蟲の正体に迫る
翌朝、私は早めに記憶保管所に来ていた。システムの再起動作業を見守りながら、昨夜の出来事について考えを巡らせていた。
「おはようございます」
椿が、いつもより疲れた様子で出勤してきた。
「ああ、おはよう。どうした? 顔色が悪いぞ」
「昨夜、奇妙な夢を……いいえ、夢というより記憶かもしれません」
私は身を乗り出した。
「どんな内容だ?」
「私の父が……黒いスーツを着ていました」
椿の言葉に、私は背筋が凍る思いがした。
「具体的に、どんな様子だった?」
「父は私に何かを伝えようとしていました。でも、口を開くと黒い液体が……」
突然、警報が鳴り響いた。
「記憶保管庫からの異常検知です!」
私たちは急いで保管庫に向かった。
扉を開けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
保管庫の壁一面に、黒い液体が這い回っている。そして、その液体は明確な意思を持つかのように、一つの場所に集まり始めた。
「あれは……」
液体は人の形を形作り始めていた。
黒いスーツの男だった。
「久遠井教授の時と同じです!」
椿が叫ぶ。
しかし、今回は状況が違った。男は私たちの方をじっと見つめ、そして……話し始めたのだ。
「鷹觜慈童……私たちは、ずっとあなたを探していました」
その声は、まるで複数の声が重なり合ったような不気味な響きを持っていた。
「私を? なぜ?」
「あなたは……鍵です」
男の体が、まるで霧のように揺らめき始める。
「何の鍵だ?」
「量子の檻を……解き放つための」
その言葉とともに、男の姿が崩れ始めた。しかし、消失する直前、彼は最後の言葉を残した。
「あの日の水族館で……あなたは選ばれたのです」
男の姿が完全に消えると、保管庫内は静寂に包まれた。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「慈童さん、これを見てください!」
椿が指さす先のモニターには、これまでとは全く異なる波形が表示されていた。
「これは……」
それは明らかに量子力学的な振る舞いを示していた。記憶データが、量子的な重ね合わせ状態に入っているのだ。
「久遠井教授の研究……。量子記憶との関連があるのかもしれない」
私は端末を操作し、データの詳細な解析を始めた。
そして、驚くべき事実が明らかになった。
記憶蟲は、単なるデータの破壊者ではなかった。それは、私たちの記憶を量子状態へと変換しようとしていたのだ。
「しかし、なぜ?」
その時、私の脳裏に一つの可能性が閃いた。
「椿、仮説があるんだが……」
私は椿に向き直った。
「記憶蟲は、量子的な記憶の在り方を探っている。つまり、全ての可能性が同時に存在する状態を作り出そうとしているのではないか」
「それは……平行世界の記憶、ということですか?」
「ああ。記憶が量子状態になれば、理論上、全ての可能性を同時に保持できる。例えば、君の父親が事故で亡くなった世界と、生存していた世界、両方の記憶が共存できるようになる」
椿は息を呑んだ。
「でも、それは危険すぎます。人間の意識は、そんな状態に耐えられないはず……」
「その通りだ。だからこそ、久遠井教授のような事態が起きる」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
「しかし、まだ分からないことがある。なぜ私が『鍵』なのか。そして、あの水族館での出来事とは……」
その瞬間、激しい頭痛が私を襲った。
視界が歪み、耳鳴りが響く。そして、これまで断片的にしか思い出せなかった記憶が、一気に蘇ってきた。
水族館の巨大水槽の前。幼い私は、そこで確かに「何か」を見ていた。それは人知を超えた存在で、現実の法則では説明のつかないものだった。
そして、その存在は私に何かを……。
「慈童さん!」
椿の声で我に返る。
「大丈夫です。ただ、少し記憶が……」
その時、施設全体に緊急警報が鳴り響いた。
「これは!」
私たちは急いで管制室に向かった。
そこで目にした光景は、さらなる謎を投げかけるものだった。
全てのモニターに、同じ映像が映し出されている。
水族館の巨大水槽。そして、その前に立つ幼い私と、黒いスーツの男の姿。
しかし、その映像は現実のものではなかった。まるで、量子コンピュータが計算した無数の可能性の一つが、具現化したかのようだった。
「これは、私の記憶……?」
しかし、それは単なる記憶の再生ではなかった。
映像の中の水槽には、この世界には存在しないはずの生物が泳いでいた。そして、その生物の姿は、まるで私たちの世界の法則を無視するかのように、絶えず形を変えている。
「慈童さん、あれは……」
椿の声が震えていた。
「ああ。おそらく、これが全ての始まりだ。記憶蟲の起源。そして、私が『鍵』と呼ばれる理由」
私は、モニターに映る光景をじっと見つめた。
そこには、この世界とは異なる可能性の海が広がっていた。そして、その海の中で、無数の記憶が交錯し、新たな現実を形作ろうとしていた。
記憶蟲の正体――それは、量子の檻に閉じ込められた可能性たちの、必死の解放への試みだったのかもしれない。
そして私は、その檻の扉を開く鍵を、幼い頃から持っていたのだ。