第二章 広がる感染と過去への懐疑
記憶保管所の一室で、私は特殊な装置に繋がれていた。自分の記憶を監視しながら、記憶蟲を誘き寄せるという危険な実験だ。
「本当に大丈夫でしょうか……」
椿が心配そうに見守る中、私は目を閉じた。
「ああ。むしろ、これ以外に方法がないんだ」
私の記憶の中で、最も鮮明なものを呼び起こす。幼い頃、母に連れられて行った水族館での出来事――。
暗い通路の向こうに広がる巨大な水槽。そこには、見たこともない深海生物が泳いでいた。しかし、どこかおかしい。その生物は、当時の技術では絶対に飼育できないはずのものだ。
「慈童さん、記憶波形に変化が!」
椿の声が遠くなっていく。私の意識は、徐々に過去へと引き込まれていった。
水族館の光景が、まるで実際にそこにいるかのように鮮明になる。しかし、それは確実に「誤った」記憶だった。
(これは……私の記憶に紛れ込んでいた記憶蟲か?)
その時、視界の端に黒い影が映った。振り向くと、そこには黒いスーツの男が立っていた。
「久遠井教授が見た人物……?」
男は私の方を向き、ゆっくりと口を開いた。しかし、そこから出てきたのは言葉ではなく、黒い液体だった。
「切断します!」
椿の声とともに、私の意識は現実へと引き戻された。
額には冷や汗が滴り、心臓は激しく鼓動していた。しかし、データの記録には成功していた。
「これは……」
モニターには、通常の記憶波形とは明らかに異なる、複雑な干渉パターンが表示されていた。
「慈童さん、大丈夫ですか?」
「ああ。それより、この波形を解析してくれ。特に、黒いスーツの男が現れた時点での変化を重点的に」
その日から、記憶保管所には不気味な沈黙が流れ始めた。来訪者の数が激減し、職員たちの間でも不安が広がっていった。
そして、二週間後。
記憶保管の利用者たちの間で、奇妙な噂が広まり始めた。
「記憶が勝手に書き換わる」
「知らない記憶が紛れ込んでいる」
「過去の出来事の順序が入れ替わっている」
そして最も不気味だったのは、黒いスーツの男の目撃証言が増えていったことだ。
「慈童さん!」
ある朝、椿が慌てた様子で私のオフィスに飛び込んできた。
「どうした?」
「記憶データベースに異常が……。保管されている記憶の30%以上が、感染の兆候を示しています」
私は椿から受け取ったタブレットに目を通した。確かに、記憶蟲特有の波形が、データベース全体に広がりつつあった。
「これは……」
私の言葉は、突然の警報音によって遮られた。
「緊急事態です! 記憶保管庫でデータの暴走が発生!」
管制室からのアナウンスが響き渡る。
私たちが保管庫に駆けつけた時、そこは既にカオスと化していた。
壁一面のモニターが不規則に点滅し、保管されている記憶データが次々と異常な波形を示し始めている。まるで、伝染病のように記憶蟲が広がっていくのが見て取れた。
「隔離プロトコルを実行!」
私の指示に従い、椿が端末を操作する。しかし――。
「だめです! システムが応答しません!」
その時、モニターに映し出される波形が一斉に変化し始めた。それは、まるで無数の蟲が這い回るような、不気味な模様を描いていく。
そして、その波形の中に、人の顔のような形が浮かび上がった。
「あれは……」
椿が息を呑む。
確かに、それは人の顔に見えた。しかし、次の瞬間、その顔は歪み、別の顔に変わっていく。それは延々と続き、まるで記憶の中の全ての人々が、一つの存在へと溶け合っていくかのようだった。
「全システム、強制シャットダウン!」
私は最後の手段を取った。
施設全体が一瞬暗闇に包まれ、やがて非常用電源が作動する。
しかし、その短い暗闇の間に、私は確かに「それ」を見た。
黒いスーツの男が、保管庫の隅に立っていたのだ。
そして彼は、私を見て微笑んでいた。
その夜、私は自分のオフィスで記録を取っていた。
緊急シャットダウン後、システムは一応の安定を取り戻した。しかし、保管されていた記憶データの多くが破損しており、復旧の見込みは薄い。
「慈童さん」
椿がコーヒーを持って入ってきた。彼女の顔には疲れの色が濃く出ていた。
「ありがとう」
私はコーヒーを受け取りながら、椿の様子を観察した。
「椿、君は自分の記憶に、違和感を覚えることはないか?」
彼女は一瞬躊躇したように見えた。
「実は……最近、子供の頃の記憶が、少しずつ変わってきているような気がします」
私は椿の言葉に、予感が的中したことを悟った。記憶蟲は、私たちの中にまで侵入し始めているのだ。
「具体的には?」
「私の父は、私が小学生の時に事故で亡くなったはずです。でも最近、父が中学生の頃まで生きていて、一緒に旅行に行った記憶が……」
椿の声が震えている。
「しかも、その記憶があまりにも鮮明で。本当に起きたことのような気さえしてきて……」
私は立ち上がり、窓の外を見た。夜の街並みが、いつもと同じように輝いている。しかし、その光景にさえ、今は違和感を覚えてしまう。
「椿、君は記憶蟲の正体について、どう思う?」
「はい……。私には、まるで何かを探しているように見えます」
「探している?」
「はい。まるで、正しい記憶を探すように、次々と記憶を書き換えていく。でも、その『正しい』というのが、私たちの認識している現実とは違うような……」
その解釈は、私の考えと一致していた。
記憶蟲は、単なるデータの破壊者ではない。それは、何か別の「現実」を求めているのかもしれない。
しかし、その「現実」とは何なのか? そして、なぜ黒いスーツの男が繰り返し現れるのか?
疑問は深まるばかりだった。
そして、それは私自身の記憶への懐疑へとつながっていく。
幼い頃の水族館での記憶。あれは本当に「誤った」記憶だったのか? それとも、記憶蟲によって書き換えられる前の、「正しい」記憶だったのか?
私は自分のデスクの引き出しから、古い写真を取り出した。
そこには、幼い私と母が写っている。背景には確かに水族館の水槽が写っているのだが、その中に映っているはずの深海生物の姿は、やけに不鮮明だった。
写真を裏返すと、日付が記されている。
しかし、その数字が、目の前でゆっくりと変化していくのが見えた。
「これは……」
私は慌てて写真を机に置いた。しかし、もう遅かった。
写真の中の私と母の姿が、まるでインクが滲むように歪み始め、そこに別の情景が浮かび上がってくる。
そこに映っていたのは、黒いスーツの男と、幼い私が手を繋いで立っている姿だった。
私は写真を握りしめ、震える手で額の汗を拭った。
記憶蟲は、既に現実世界にまで影響を及ぼし始めているのだ。
そして、その感染源は、どうやら私自身の中にあるようだった。