第一章 調査の開始と最初の犠牲者
記憶蟲との最初の遭遇から一週間が経過していた。
私は解析室で、久遠井時緒の記憶データと向き合っていた。モニターに映し出される波形は、まるで生きているかのように蠢き続けている。通常の記憶データであれば、このような動的な変化は見られないはずだ。
「慈童さん」
椿が解析室のドアをノックしながら入ってきた。彼女の表情は、いつになく深刻そうだった。
「どうした?」
「久遠井教授から連絡が入りました。どうやら、記憶に異常が出ているそうです」
私は眉をひそめた。記憶の寄託後に、このような報告を受けることは極めて稀だった。
「具体的には?」
「自分の過去の記憶が、徐々に変化しているとおっしゃっています。特に、研究に関する記憶が……」
椿の言葉は、不吉な予感を裏付けるものだった。
「すぐに来てもらおう」
私は椿に久遠井教授との面会をセットするよう指示した。
その日の午後、久遠井時緒は予定通り記憶保管所を訪れた。
彼は小柄な体躯の中年男性で、大きな丸眼鏡をかけていた。その姿は典型的な学者という印象だったが、目の奥に潜む不安の色は否めなかった。
「ここ一週間ほどでしょうか……私の記憶が、少しずつ書き換わっているような気がするんです」
久遠井教授は震える手で眼鏡を直しながら話し始めた。
「具体的に、どのような変化でしょうか?」
「最初は些細な違和感でした。研究データの一部が、どこか違うような……。でも次第に、研究室での出来事自体が変わり始めて……」
彼は言葉を詰まらせた。
「例えば?」
「私の研究室にいるはずのない人物が、記憶の中に現れるんです。しかも、その人物との会話や、実験の内容まで鮮明に思い出せる。でも、そんなことは実際には起きていないはずなんです」
久遠井教授の額には冷や汗が浮かんでいた。
「その人物について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「ええ……。黒いスーツを着た細身の男性です。名前は……確か……」
突然、久遠井教授の体が強張った。両目を見開き、口を半開きにしたまま、彼は完全に静止してしまった。
「久遠井教授?」
私が声をかけても反応はない。
「椿! 救急キットを!」
しかし、それは間に合わなかった。
久遠井教授の両目から、黒い液体が溢れ出し始めたのだ。それは墨汁のように濃く、しかし水銀のように光を帯びていた。
「こ、これは……」
椿が悲鳴を上げる。
黒い液体は、まるで意思を持つかのように床を這い、螺旋を描きながら広がっていく。そして、その軌跡に沿って、床に何かが浮かび上がり始めた。
数式だった。
量子力学の方程式が、床一面に広がっていく。しかし、それは私たちの知る数式とは明らかに異なっていた。まるで、別の世界の法則を記述しているかのような、得体の知れない記号の羅列。
その光景は、およそ3分ほど続いただろうか。
突如として、全ては消え去った。床に広がっていた黒い液体も、数式も、跡形もなく消失した。そして、久遠井教授も……。
彼の体は、まるでガラス細工のように、無数の破片となって崩れ落ちた。
しかし、その破片は床に触れる前に、光となって消散してしまった。
後には、空っぽの椅子だけが残されていた。
「こ、これは……い、いったい……」
椿は震える声で呟いた。
私は、目の前で起きた出来事を理解しようとしていた。しかし、あまりにも非現実的な光景に、思考が追いつかない。
ただ一つ、確実なことがあった。
これは、記憶蟲による最初の犠牲者の出現を意味していた。
その日の夜遅く、私は記憶保管所に残って、起きた出来事の記録を取っていた。
モニターには、事件直前までの監視カメラの映像が映し出されている。しかし、久遠井教授が消失する瞬間の映像は、ノイズで視認不能になっていた。
「慈童さん」
椿が、コーヒーを持って解析室に入ってきた。
「ああ、ありがとう」
私はマグカップを受け取り、一口啜った。
「警察には連絡しましたか?」
「ああ。だが、彼らにもこの事態を理解できるとは思えない。というより、理解させない方がいいのかもしれない」
椿は黙って頷いた。
「椿、君は記憶蟲について、どう思う?」
「はい……。私には、まるで記憶を食べているように見えました」
その表現は、意外なほど的確だった。
「食べる……か。確かにそうかもしれない。でも、何のために?」
私は立ち上がり、窓際まで歩いた。夜の街並みが、無数の光の点として広がっている。
「久遠井教授の研究内容について、調べてみた」
椿が資料を手渡してきた。
「量子記憶の研究……。記憶を量子状態として保存する新しい技術の開発か」
現在の記憶保管技術は、脳内の電気信号をデジタルデータとして変換するものだ。しかし、量子記憶技術が実現すれば、より完全な形で記憶を保存できる可能性がある。
「彼の研究室も調査しましたが……」
「何か見つかったのか?」
「いいえ、それが……研究室自体が存在しないんです」
私は椿の方を振り向いた。
「どういうことだ?」
「大学の記録では、確かに久遠井教授は在籍していました。しかし、彼の研究室があったはずの場所には、倉庫があるだけです。しかも、かなり前からそこは倉庫として使われていたようです」
私は深いため息をついた。
状況は、私たちの想像を超えて複雑化していた。記憶蟲は、単に個人の記憶を侵食するだけでなく、現実そのものに影響を及ぼしているようだった。
「慈童さん、私たちの記憶も……信用できないということでしょうか?」
椿の声には、かすかな震えが含まれていた。
「いや、まだその段階ではない。ただし……」
私は言葉を選びながら続けた。
「今後の調査では、全ての記録をデジタルとアナログの両方で残す必要がある。記憶に頼れない以上、物理的な証拠を重視しなければならない」
その夜、私は一つの決断を下した。記憶蟲の正体を突き止めるため、自分自身の記憶をおとりとして使うことにしたのだ。