序章 記憶保管所と記憶蟲の発見
私は今、ある記憶を思い出しながらこの記録を綴っている。それは確かに私の記憶であるはずなのだが、同時に私のものではないような……そんな奇妙な違和感を伴う記憶だ。
しかし、この物語を語るには、まずは記憶保管所という場所について説明しなければならないだろう。
西暦2045年、人類は遂に記憶を「モノ」として扱うことに成功した。脳内の電気信号をデジタルデータとして抽出し、それを保存、編集、さらには他者と共有することができるようになったのだ。
私、鷹觜慈童は、そんな記憶を預かる施設「記憶保管所」で働いている。正確に言えば、働いていた。今では誰も訪れることのない、廃墟と化したこの建物で、最後の管理人として残されている。
「慈童さん、新しい寄託品が届きました」
その日も、いつものように助手の小鳥遊椿が声をかけてきた。彼女は着任して間もない新人だったが、仕事は几帳面で信頼できる相手だった。
私は目の前の光学ディスプレイから視線を外し、椿の方を向いた。
「ああ、了解した。預かり証の発行は?」
「はい、もう済ませてあります。でも……これ、ちょっと変わったデータかもしれません」
椿の声には、どこか不安げな響きがあった。
「変わった?」
「はい。通常の記憶データには見られない異常な波形が混じっているんです」
私は立ち上がり、椿の持つタブレットを覗き込んだ。確かに、通常のデータとは明らかに異なる波形が記録されている。まるで……何かが記憶の中を這い回っているような、そんな不気味な模様を描いていた。
これが、後に「記憶蟲」と呼ばれることになる異常の、最初の発見だった。
私は当時、この発見が私たちの、いや、人類の「記憶」という概念そのものを根底から覆すことになるとは想像もしていなかった。
記憶保管所は、高層ビルの中層階に位置していた。外観は一般的なオフィスビルと変わらないが、内部には最先端のデータ処理設備が整っている。壁一面がディスプレイになった受付フロア、記憶データの保管庫、解析室……そして、最も重要な「記憶抽出室」がある。
「慈童さん、この異常データ、どうしましょう?」
「一旦、隔離保管だ。解析室でも詳しく調べてみよう」
私は椿にそう指示を出しながら、記憶抽出室へと向かった。
抽出室は、まるで手術室のような無機質な空間だ。中央には特殊な装置を備えた椅子が据え付けられており、その周囲には様々なモニターが配置されている。記憶を抽出する際、被験者はこの椅子に座り、特殊なヘッドセットを装着する。
私は端末を操作し、先ほどのデータを呼び出した。画面には、波形とともに記憶の所有者の情報が表示される。
名前:久遠井時緒
年齢:34歳
職業:大学教授(量子物理学)
寄託目的:研究データの保存
「ふむ……」
私は眉をひそめた。通常、研究データの保存であれば、もっと整然としたデータのはずだ。しかし、この波形は明らかに異常だった。まるで……記憶そのものが腐食しているような。
その時、モニターに異変が起きた。波形が突如として乱れ、まるで生き物のように蠢き始めたのだ。
「これは……!」
私は慌てて isolation プロトコルを起動した。データを完全に隔離し、他のシステムへの感染を防ぐためのものだ。
しかし、その直後、私の視界が歪み始めた。
「な……」
目の前の景色が溶け始めたかと思うと、見知らぬ光景が重なり合う。それは確かに研究室のような場所……だが、私の知らない空間だった。
(これは、久遠井時緒の記憶?)
私は自分の意識が、何者かによって侵食されていることを悟った。急いでシステムとの接続を切断し、椅子から離れる。
冷や汗が背中を伝う。これは明らかに、通常のシステム障害ではない。何か別のもの、私たちの理解を超えた何かが、記憶データの中に潜んでいる。
「慈童さん!」
椿が駆け寄ってきた。私は深いため息をつきながら、彼女に向き直る。
「椿、全てのデータへのアクセスを一時停止してくれ。この件は、しばらく内密に調査する必要がありそうだ」
そう告げながら、私は右手の震えを隠すように白衣のポケットに手を入れた。これが単なる偶然でないことは、明白だった。
記憶という、最も私的な領域に潜む「何か」。それは、やがて私たちの想像を遥かに超える存在として、その姿を現すことになる。