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二 見習い采女

 入宮して十日も経つと、大分宮中になれてきた。見習い采女は日が昇らないうちから後宮の掃除をする。比野(ひの)伊尾(いお)と、箒で後宮の庭の掃き掃除を行っていた。


 ニャオ


 どこからともなく鳴き声が聞こえてきた。声のした方を振り向くと、灰色の毛を持った猫が鳴いていた。


「お猫さま? いったいどこから来たんだろう」


 比野の近くで同じように庭を掃いていた伊尾が不安そうな声を出した。

 

 入宮した日に見習い采女たちを混乱に陥れ、一人の見習い采女が追放される原因となった、小さな白い生き物は、猫というのだと、後から知った。比野たちは、あの日初めて猫を見たが、貴妃以外の妃にも猫を飼っている人は多いらしい。


 見た目はかわいらしいので、比野はついつい猫を撫でてしまったが、伊尾が猫を見るだけで不安がるのもわかる。誤解が生じると、処罰されるかもしれないから。


「結局、杖罪となった子は、片足が不自由になっちゃたんだって。その後、宮中から追い出されて、まだ静養しなきゃいけないから、都にいるらしいけど」


 伊尾がささやく。比野は気が重くなった。確かに、無害な猫に驚いて、多少の傷をつけてしまったのは、悪かったかもしれない。

 でも、昨日ちらりと見た、貴妃の猫は、傷も治って元気そうに見えた。一方、罰を受けた見習い采女は一生残るような傷がついた。

 

 入宮した日に初めて顔を合わせて、名前だって知らなかったけれど、それでも、その子のために何もできなかった自分に腹が立った。


「うん。可哀そうにね」


 伊尾に返事をして、猫から手を放すと、猫はやがて走り去る。その方角を見ながら、比野はあの日女官長にかけられた言葉を思い出した。


「そなたたちも、女官となったからには、皇帝陛下、皇太后陛下、またお妃がたや、宮中のために、身命を捧げなければならない。郷里ではかしずかれる身分であったかもしれないが、ここでは、かしずいて生きなければならない。そして重要なことは、なにかを見たり聞いたりしても、なにも言わないこと。何があったとしても動揺し、取り乱したりしないこと」


 そう言って、女官長は見習い采女たち全員を睨みつけた。女官長は、六十近いと思われる体格のいい女だった。白髪交じりの髪を一分の隙もなく結い上げ、女官の中では女官長にのみ許された紫の打掛を羽織っている。

 比野が思わず俯くと、女官長は続けた。


「先ほどの一件については耳に入っているが、本来であれば宮中において取り乱したそなたら全員に罪があるとも言える。しかし、幸運にもそなたらは許された。宮中では、結局、罪を処罰されたものが悪く、処罰されなかったものには罪はないのだ。心しておけ。そして、罪なきそなたたちを歓迎しよう」


 正直に言えば、比野には女官長の言葉の意味がよくわからなかった。宮中では取り乱すことそのものが罪であるというなら、確かに見習い采女全員に罪があるのだろう。

 でも処罰されたものが悪く、処罰されなかったものには何の罪もないというのは、どういうことだろう。罪を犯していなくても処罰されれば罪があり、罪を犯しても処罰されなければ罪はないということなのだろうか。それではまるで、身分が上の方々が、下のものを好きに処罰できるということではないか。

 

 比野は庭を掃く箒を強く握りしめた。自分たちの罪を一人の見習い采女にすべて負わせてしまったようで、比野は心がずっと苦しかった。


「わたしたちは処罰されないようにしなきゃ」


 伊尾の言葉は、つまり危ういものには近づかず、決められたことを粛々とこなす女官となる必要があると言うことだろう。猫は高貴な方々の飼い猫の可能性が高いので、相手をするなと言うことだ。

 でも、本当にそれでいいのだろうか。比野が返事をできずにいたところで、一人の女官が庭に下りてきた。


「そなたら、お猫さまを見なかったか? 灰色の毛のお猫さまだ」


 さっきの猫のことだろう。比野が返事をしようとすると、それを遮って、伊尾が答えた。


「いえ、見ませんでした」

「そうか。もし見つけたら、承香殿まで報告せよ」


 女官はそう言って、さっき猫が走りさったのとは別の方角に去っていった。


「探してるみたいだったのに」

「これでいいんだよ。お猫さまには関わらない方がいい。聞いたでしょ。承香殿ってことは、あのお猫さまは中宮さまのものなんだよ」


 後宮では、妃たちは一人あるいは複数人で殿舎に暮らしている。妃の頂点に立つ中宮は、承香殿の主だ。


「でも、探しているお猫さまを見つけたのに、処罰される理由なんてないでしょ」


 比野が反論すると、伊尾はため息をついた。


「そんなの、わかんないじゃない? どうして引き留めておかなかったか、なんて理不尽な言いがかりをつけられるかもしれない。始めっから関わらないほうがいいんだよ」


 そう言われると、それも間違っていない気がしてくる。


「そうなのかもしれないね」


 比野はまだ伊尾ほど宮中での振る舞い方に確信を持ててはいなかっただが、そう答えた。


「そろそろ、時間だ。戻らなきゃ」


 伊尾にせかされて、比野たちは次の仕事に向かう。すれ違う、先輩采女たちにおはようございます! と挨拶するも、采女たちは顔をこちらに向けることすらしなかった。



 ***



 長い1日が終わるとやっと寝る時間になる。見習い采女たちは、一つの部屋に五十九人全員が雑魚寝している。自分の時間は持てないが、同年代の女の子たちが集まっているので、楽しくもあった。ただ、見習い女官だけの空間なので、ついつい本心が漏れてしまう。


「ねぇ、なんか先輩が怖いよね。挨拶しても無視されるし」


 一人の見習い采女が口火を切ると、他の見習い采女たちも次々に喋りはじめた。 


「そうそう、何かをしろって命令されることはあるけど、こっちから何か質問しても、まともに答えてくれないし」

「ほんとだよね。一年ばかり先に采女になったからって、そんなに偉いの?」


 その中で、一人の見習采女が言った。


「実は、わたしの姉が二年前に采女になっていて、姉から聞いた話なんだけどね、見習い采女って、だいたいいつも一年で半分になるらしいよ」


 他の見習い采女たちは顔を見合わせた。


「つまりね、わたしたちも、もう六十人から一人減ってしまったでしょ。そういう感じで、お妃がたからなにか罰を受けて追放されたりとか、別にそうでなくても、仕事が大変だからって辞めちゃったりとかする人が多いんだって。だから先輩たちも、最初はどうせすぐ止めるでしょって思って、まともに相手にしてくれないんだって話だよ」


 姉から聞いたという見習い采女の話に、他の見習い采女は驚いた顔をする。


「やっぱり、罰を受けることって珍しくないんだ」

「こわいねぇ」


 怖い話をした見習い采女はあわてて続けた。


「でも、一年経てば、先輩たちも同僚として認めてくれるってそう言ってた! それに罰されて追放される人より自分で辞める人の方が多いって!」


 無理もないなと比野は思った。采女になる女を選ぶのは地方の長官や国王だが、選定されるには、一定以上の家柄を持つこと、という条件がある。

 比野だって、父親は千州の国王だ。地方では良家の子女として生まれ育ったのに、突然雑用係になっては、不満が溜まるのは当たり前だ。


「先輩に認めてもらうのに一年もかかるの? わたしたちもうしばらくすると、配属になるのに、そこでも長いこと先輩に認められずに働かないといけないんだね」


 見習い采女たちはこれから先のことを思って暗澹とした。

 

 見習い采女たちが正式な采女になるのは、入宮から一月後のことだ。見習い采女たちは入宮した後一月は、様々な雑用をこなしながら、宮中のしきたりを身につける。そして、一月後に後宮十二司と呼ばれる各官司の試験を受けて、配属され、正式な采女となる。采女とは、女官の中の一番下の位である。

 采女として宮仕えを終える女官は少なくないが、その内の何人かは、出世してそれぞれの司の(じょう)となる。その掌の内の何人かは(すけ)に出世し、さらに司を統べるのが(かみ)である。入宮した日に会った女官長は、さらにその上の後宮すべての女官を従える存在だ。

 

 また、後宮十二司とは別に妃たちに直接使える女官もいる。侍女と呼ばれるお付き女官は、後宮十二司には含まれないが、各官司の掌と同じほどの位階を持っている。


 こういった女官についての事項は、入宮してすぐに憶えた。でも、と比野は思う。采女が楽でないことは、知っていた。だから、怖くなんてないし、辞めたりもしない。



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