十九 罪の行方
比野の言葉に中宮のおつき女官が怒りの声を上げた。
「愚かなことを! 事実、積恵親王さまは毒を盛られたと侍医が申したのだ。戯言しか言えないなら、とっと失せろ」
「まあ、最後まで話しを聞いてみようではないか。おまえも理由なくそう申したわけではないだろう」
中宮はそばの女官をいさめた後で、比野に言った。中宮は御簾の内側にいるので、表情はわからないが、冷徹な顔をしているだろうことが、想像できる声だった。
「はい。積恵親王さまが毒を摂取されたのは間違いありません。しかし、誰かが故意に積恵親王さまに、毒を摂取させようとしたのではない、と申し上げたのです」
比野は順を追って説明しようとする。
「どういうことだ? 故意でなく、なぜ積恵親王が毒物を摂取することになる?」
「積恵親王さまが、場合によっては毒となるものを召し上がったということです。ほとんど知られていませんが、実はわたくしたちがふだん食べているものには、毒が含まれているものがあります」
「なに?」
比野の正面の御簾が風によって揺らいだ。
普段食べているものに、毒が入っているという言葉の意味がよく理解できなかったのだろう。中宮が不審そうな声を上げた。
「例えば、松茸にも毒があります。しかし、松茸に含まれている毒はごく微量です。ふつうは松茸を大量に食べたりはしませんから、問題は生じないのです。しかし、傷んだ松茸や生の松茸を食べると体調をくずすことがあります。よい松茸でも食べ過ぎれば体によくありません」
「そういえば、あの日は松茸が出ていたな。つまり、積恵親王は松茸を食べて体調をくずしたと?」
中宮の問いかけに比野は首を振った。違う、そうではないのだ。
「いいえ。積恵親王さまが食べたのは、銀杏です」
「銀杏?」
比野の答えに中宮は、意外そうな声を出す。
「はい。銀杏は松茸よりもさらに毒性が強いです。多くの子どもが銀杏を嫌うのには理由があります。年齢の数以上の銀杏を食べると、体調をくずし、場合によっては命に関わる可能性もあります」
「そうなのか?」
「はい。わたくしが子どもの頃、近所の子どもがそれで死にかけたのです。しかし、おそらく徳妃さまはそれをご存じなかったのではないでしょうか。当日の宴は、親王さまや公主さまがたには、銀杏をお出ししてはいませんでした。ただ、銀杏好きの徳妃さまのために、徳妃さまの元には、多くの銀杏をお出ししております。また、貞観殿の女官の話では、宴の当日、宴に参加する前にも積恵親王さまは、銀杏を召し上がられていたとか。一つ、二つならともかく、多くの銀杏を召し上がると、中毒になる可能性は高まります」
比野が亜鈴を通じて確認したかったのは、このことだった。比野が貞観殿に忍びこんだとき、銀杏の皮が多く捨てられていた。このことから、比野はもしや積恵親王が銀杏を食べたのではないかと考えたのだ。だから、貞観殿の女官とも親しいという亜鈴から、貞観殿の女官に当日の様子を聞いてもらうことにした。
「銀杏、なるほどな」
中宮は、比野の説明に対して、そう返事をした後、何かを考えている様子で、沈黙した。そしてやがて口を開く。
「紅葉の宴の場だけでなく、貞観殿で食したものも影響しているとなれば、淑妃の責任を問うことはできないな」
「はい。今回の件に関しまして、淑妃さまに責任はないと存じます」
比野は頷いた。
「それにしても、おまえは、三枝掌膳や膳司の采女たちを助けたいと思っているのだろうが、紅葉の宴で出された食事にも原因がないわけではない。となれば、やはり罪は免れないだろう」
中宮は、思案しているような口調で言った。まさか、理由が判明したとしても、三枝掌膳は処刑されてしまうのだろうか。もしそう言われたら、どうしたらいいだろうか、比野はぐるぐる考えた。
「無罪放免というわけにはいかない。わかるな。起きてしまったことには誰かが責任を取らねばならぬ。積恵親王が毒を口にしたことは事実だからな。しかし、おまえの骨折りに免じて、宴の献立の責任者だった三枝掌膳は笞三十、他のものは罪に問わないことにしよう」
中宮の言葉に、比野の心に光が差した。
「ありがとうございます!」
すぐに頭を下げる。
「徳妃も、自ら積恵親王に銀杏を食べさせたわけであるから、それ以上は文句を言わないだろう。結局、陛下のお子を危険にさらしたのは自分だからな。幸い、積恵親王も回復したことであるし」
中宮の口調が少し柔らかくなった。そして、そばの女官に命じる。
「御簾を上げよ」
中宮の命によって、比野の目の前の御簾が上げられていく。やがて、中宮の姿が現れた。中宮は満足そうな顔で比野を見つめている。
「このたびは、おまえのおかげで、積恵親王に誰かが故意に毒を盛ったわけではないということがわかった。礼を言うぞ」
思いがけず、感謝の意を表されて、比野は頭を下げた。
「もったいないことにございます」
中宮は、笑って言った。
「おまえは、随分食物のことに詳しいようだな」
「いえ、それほどのことはございません」
「謙遜せずともよい。もし何か、困ったことがあれば、おまえを頼ることにしよう。さがってよい」
比野は、一例してからその場を下がった。うまくいったらしい。これで、きっと、三枝掌膳たちは助かるだろう。
***
支生は、朝から、朝から母の元を訪れた。
夜のうちに、支生は比野が出した結論を聞いていた。積恵親王は銀杏を食べて、体調をくずしたのだと。
支生からみると、比野はちんまりしていて可愛い采女、という印象だったのだが、一連の出来事で、大分変わった。
比野は、とても賢い。知識は豊富だし、洞察力にも優れている。でも、なにより強情だ。支生が比野のためを思って、こっそり奔走しているのに、比野は支生の言うことを全然聞かない。自分の信じた道を突き進んでいく。
そんな彼女に振り回されるのに、支生は心地よさすら感じた。でも同時に心配にもなる。
今頃、比野は中宮のもとに行っているだろうか。そして、中宮は比野の言い分を受け入れるだろうかと思案する。
気が気ではないが、かといって、自分が比野と一緒に中宮のもとを訪れるというわけにはいかない。だから支生は、こうして母のもとを訪れることにした。
中宮は、比野から報告を受けたあと、女官たちの処罰をどうするか確定するために、母のもとにやってくるだろう。もちろん、形式的には中宮は、そのようなことを母に相談する必要はない。しかし、皇太后という立場の母を中宮がないがしろにしたことはなかった。
中宮が母に相談するときにそばにいれば、万一、比野に危害が及びそうになったら、それを妨げることができるだろう。
それに、あれだけ一生懸命、三枝掌膳たちを助けようと奔走していたのだから、そうなるようになんとか、自分も貢献したかった。比野の悲しむ顔は見たくない。
思った通り、母に朝の挨拶をしていると、中宮がやってきた。
母は、中宮は一通りの挨拶を受けた後に、中宮に向かって言った。
「積恵の件だな」
「はい」
「どのように処罰するか決まったのか」
「仰せの通りにございます」
中宮は、母が黙って聞いているのを見ると、話を続けた。中宮が話した内容は、支生が夜のうちに比野から聞いたことと同じだった。比野はきちんと中宮に事情を話すことができたらしい。支生はまずそのことにほっとした。
支生がそう思っている間にも、中宮は続ける。
「どのように処罰するのがよいものか、皇太后さまのご意見をうかがいたく」
中宮の殊勝な言葉に母は笑った。
「後宮の権限は、そなたにある。わたしの意見など聞かなくてもよい。そなたの意見を聞かせておくれ」
母に言われたのを受けて、中宮は自分の考えを述べ始めた。
「わたくしといたしましては、今回の件について、もっとも責任が重いのは徳妃であると考えています。なぜなら、積恵親王にと出されたわけではない、食物を積恵親王に与えたのは徳妃自身なのですから。しかし、そうは言っても徳妃を処罰するわけにはいきません。こう考えますと、宴に銀杏を出した、三枝掌膳と、宴の前に徳妃に銀杏を出した和珥掌膳を同罪とし、ともに笞打ち三十とするのが落としどころではないかと思います」
「なるほどな」
中宮の意見に母は満足そうに頷いた。
「よい考えだ。そのようにするのがよかろう」
母の言葉に支生はほっと息をついた。
どうもうまくまとまったようだ。わざわざ自分が心配して出張ってくることもなかったかもしれない。
母は続けた。
「それにしても、まさか銀杏に毒があるとは知らなかった。誰がそれを知っていたのだ?」
「はい。最近膳司に入ったという采女にございます。しかし、その采女が言うには、大人が十個程度食べる分には、まったく問題ないということでございました」
「なるほどな。膳司の采女か」
母と中宮の会話の中で、比野のことが出ている。そう思うと、支生は、やたらと緊張した。暑くもないのに、汗が出てくる。
だから、やがて、母が手を振って中宮を下がらせたときには、緊張が解けた心地がした。
「まあ、よい。下がれ」
「それでは、失礼いたします」
支生は中宮が下がっていくのを見つめた。ここからでも中宮の姿の向こうの庭で、色づいた銀杏の葉が落ちていく様子がはっきりと見えた。
作中の都合で銀杏は年の数までとしていますが、銀杏は五歳以下の子どもには食べさせないことが推奨されています。




