十八 犯人は
「比野」
近くで、知っている声にささやきかけられたので、目を開けると、そこには支生がいた。安心すると、支生に対する理不尽な怒りがこみあげてくる。
ついつい、支生の肩を叩いてしまった。
「なんで、急に現れるの!」
こんなこと、事前の打ち合わせにはなかったのに。すると支生は、すこしむっとしたようだった。
「おまえが心配だから来たんだろ。さすがにそろそろまずそうだ。もう出ないと」
そうか、もうそんな時間が経っていたんだ。比野はすっかり、支生の理不尽な怒りが収まった。すぐに、支生に向かって言う。
「うん、じゃあ、ここから出よう」
支生の方はまだ比野にむっとしているようだったが、今は言い争いをしている場ではないと気づいたようで、比野と一緒に局を出た。
***
誰にも見られないように内裏を出て、宴の松原まで戻った。ここを密会する場所みたいに使ってるけど、それってどうなんだろうと思わないでもない。
「ねえ、火事なんて言って大丈夫だったの?」」
気になっていたことを尋ねると、支生はなんでもないことのように言った。
「ああ、火事を騙ったと疑われないように、実際に火をつけたからな」
「そっちの方が一大事じゃん! まさか燃え広がったりしてないよね!?」
「もし、燃え広がってたら、もっと騒ぎになってるはずだろ。もう騒ぎが収まってるんだから、燃え広がったりしてないってわかるはずだろ。火をつけたって言っても、もちろんすぐ消せるくらいの小さい火だ。今日は風も強くないし。燃え広がるはずがないってわかってた。たき火したみたいなものだ」
それにしたって、そこまでするなんて、心臓に毛がはえてるってのはこういうことなんだなと比野は思った。
「それはそうと、おまえはちゃんと貞観殿を見れたのか?」
「うん。それは大丈夫。今回のこと、積恵親王さまがどのように毒を摂取されたのか、だいたいわかった」
「本当か?」
支生は驚いたように比野を見る。
「うん。でも一つだけ確認したいことがあるんだ」
「確認したいこと?」
「うん。だから、亜鈴さまにもう一度会えないかな?」
「亜鈴に? それは、かまわないと思うが……」
「ほんと? できれば早めに会いたいんだけど」
比野がそう言うと、なぜだか、支生は少し疑わしそうな顔をしたが、結局同意した。
「わかった。あいつを呼んでくるから、少し待っていろ」
そうして、支生は比野に依頼された通りに、亜鈴を呼びに行ってくれた。
***
翌朝、比野は朝一番で承香殿に赴いた。中宮に会うためだ。
夜の間に亜鈴から話を聞いた比野は、自分の考えに確信を持った。その確信について話すために、比野は中宮の居室を訪れた。
比野が承香殿の女官に事の次第を告げると、承香殿の孫庇に案内された。ここからでは、承香殿の内部の様子は御簾と几帳に遮られてうかがえなかった。
大分待った後にようやく、中宮が比野に会う支度を調えたようだった。
「朝から何事だ?」
中宮の言葉を受けて、比野は下げていた頭をより深く下げて挨拶した。
「朝からお時間をいただきまして申し訳ありません。火急のご報告がありまして、参上いたしました」
「というと?」
「積恵親王さまの件にございます。積恵親王さまが、どのように毒を摂取されたのかわかりましたのでご報告にまいりました」
「何? 本当か?」
比野が来意を告げると、中宮は俄かに関心を強めたようだった。
「はい」
比野は頷いた。そして、宴の日、何があったのか、その結論を述べた。
「結論から申し上げますと、あの日、積恵親王さまに毒を食べさせたものは、存在しません」