十七 侵入
「はい、そうです。あなたの質問に答えるように彼から言われています」
亜鈴はちらっと支生を見ながら言った。
「ありがとうございます! えっと、あの日起こったことをできるだけ詳しく知りたいんです。出席されていた方はどなたですか?」
「そうですね、皇帝陛下とそのお妃がたは全員参加されていましたね。積恵親王さまと、公主さまお二人も。それから、皇弟殿下と大臣方も皆さまご出席されていました。人数が多いので後で一覧をお渡しします。それから、わたしのような近衛武官や文官の一部も参列していましたね。しかし、参列者には、到底積恵親王さまやその料理に近づく方法はなかったことは申し添えておかなければならないでしょう」
比野は頷いた。
「実質的に積恵親王さまが口にされたものに近づく機会があったのは、料理を作った、膳司の女官、配膳を手伝っていただいた麗景殿の女官、そして徳妃さまや貞観殿の女官だけ、ということですね」
比野の言葉を亜鈴は認めた。
「はい。当日、積恵親王さまの召し上がったものに、それほど注目していなかったので、誰がいつ、料理を運んだか、誰から誰の手に渡ったか、ということはわかりませんが」
それは当然だろう。まさか積恵親王に毒が盛られるなど予想していないはずなので、そこまで注意して、配膳の様子などに気を配っていなかったに違いない。
「ただ、顔見知りの麗景殿の女官によれば、徳妃さまの分も積恵親王の分も膳司からは麗景殿に運ばれてきた料理はすべて一度、貞観殿の女官に預けた、と言っていました。そして、誰がどのあたりを担当するか決まっているわけではないので、麗景殿の女官のほとんどは、一度は貞観殿の女官まで料理を運んだそうです」
つまり、積恵親王のもとに運ばれる料理は、膳司から麗景殿の女官へ、麗景殿の女官から貞観殿の女官へとわたったことになる。
「どの料理に毒が入っていたのか、わかっていないんでしたよね」
「はい」
とすると、膳司の女官、麗景殿の女官、貞観殿の女官、すべてに毒を盛る機会はあったと考えられるのではないだろうか。
「それから、積恵親王さまは具体的にどんな症状だったか知りたいんです。症状から毒の種類をある程度絞れるかもしれません」
「そうですね……」
そこまで言って、亜鈴は支生の方をちらりと見た。支生が一つ頷いて見せると、亜鈴は口を開く。
「貞観殿に戻って、一刻ほど経った後、まず嘔吐されたようです。その後、発熱、下痢、また、痙攣などの症状もでたようですね」
「なるほど……」
比野は、このような症状が出る毒は色々あるが、果たしてそのうちのどれが使われたのだろうか。よく考えてみなければならない。
比野は、あごに手を当てた。その後、亜鈴にお礼を言う。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
すると、亜鈴はにっこり笑った。
「どういたしまして。では、申し訳ありませんが、わたしは仕事がありますので、ここで失礼します」
去っていく亜鈴の後ろ姿を見ると、すごく頼りがいがありそうな背中に思えてくる。
だからついつい、支生に言ってしまった。
「亜鈴さまってすっごくいい人だね」
支生はむっとしたようだった。
「おれだってそんなに負けてないと思うんだが」
支生はそう言いながら、近くの石ころを去りゆく亜鈴の方に向けて蹴っ飛ばした。もちろん、その石ころは亜鈴には届かず、ほんの少しだけ転がっていって、そして止まった。
「なんで、比べようとするの? 頼りになる同僚を持ってよかったねって意味じゃん」
「もういい」
支生がそっぽを向いたので、比野は首をかしげた。
「変なの」
支生はしばらくの間、そっぽを向いていたが、やがて気を取り直したらしく、比野に向かって言った。
「やっぱり貞観殿に忍び込むのをやめる気になったりは……」
「してない」
比野がきっぱり言うと、支生はやはり、という顔をした。そして仕方なさそうに声をかけてくる。
「じゃあ、さっそく行くか」
「うん」
そんな支生に比野は笑って頷いた。
***
内裏にいたる門をくぐり、貞観殿の前までやって来た。采女と近衛兵が一緒に歩いているのは目立つので、比野は一人でここまで来た。しばらく後で、支生がやってきて人を引きつける役目を担ってくれる手はずになっている。
日はもう完全に落ちた。そろそろ、妃のおつき女官たちも自分の局に戻って休み始める時間帯である。内裏の門近くには篝火が灯っているが、内裏の奥にはそのようなものもなく暗かった。
ただ、欠け始めたばかりの月は、未だに明るく輝いている。
沓を脱いで、階段を上がり、下ろされた蔀に耳をつけて貞観殿の中の様子を窺う。徳妃と積恵親王がいないこともあって静かだったが、人の気配が皆無というわけではなかった。女官たちのささやき声が聞こえてくる。
そのとき、向こうから支生の声が聞こえてきた。
「火事だ! 逃げろ!」
すると、次々に周りの火事だ! 火事だ! と叫ぶ声がする
貞観殿の中でも女官が慌てている気配がする。
その気配を察して比野が物陰に隠れると、貞観殿の中から出てきた女官が身の回りのものを抱えて、急いで出てくるのが見えた。
支生が、貞観殿の中にいる女官を外に出すための手段を考えるとは言っていたけど、火事を騙るなんて。ばれたら大変なことになりそうだけど、とは思うが、とにかく貞観殿はおそらくこれで人がいなくなった。
比野は、さきほど女官たちが出て行った入り口から、貞観殿の中にこっそり忍び込んだ。さすがに室内は暗い。灯りを持ってきてよかった。西庇から、さらに一段高くなった内部に入る。心臓が高鳴った。もちろん、こんなことしているとばれたら、ただではすまない。
部屋は広いが、時間はそれほどないだろう。すぐに、実は火事ではないと知り、女官たちは戻ってくると思われる。
だから、手際よく調査を進めなければ。
多くの衣装のしまってある棚をさわって、衣装の間になにかないが探すが、特に不審なものは見つからなかった。ただ、質の良い沈香の香りがする。隣の文机には写しかけた文書が残されていた。近寄って読んでみると平群九意の詩だとわかる。
賢貴妃は九意にいい感情を持っていなかったようだが、徳妃はそうではなかったのかもしれない。文机のそばのくず入れには、墨汁のこぼれた紙に、栗や銀杏の皮が捨てられていた。三枝掌膳が、徳妃や銀杏や栗が好きだと言っていたことを思い出す。
また、部屋の隅には、積恵親王が遊んでいたと思われる、鞠や、『千字文』などの子ども用の手習いの本がまとめて積んであった。それも触って調べてみるが、特におかしいところはないようだった。
次に東庇に設けられた女官たちの局を確認する。一人ひとりに与えられた局は広くはないが、人数が多いので、確認するのにも時間がかかった。道具入れ、屑籠入れ、文机とできるだけ手早く確認していく。
ようやく最後の局にたどりつき、比野は小さいため息をついた。しかし、すぐに身を固くする。
誰かの気配がした。
耳を澄ましてみると、やはり誰かがこの局に向かっている。比野は慌てて明かりを吹き消すと、局の中を見回した。
だめだ。狭いので隠れる場所はどこにもない。仕方がなく、比野はできるだけ奥の月あかりの射さない場所にじっとうずくまった。
お願い、通りすぎて!
その願いもむなしく、人の気配はどんどんこちらに近づいてくる。そして、ついに比野のいる局にその気配が入ってきた。
比野はうずくまって顔を上げないまま、ぎゅっと目を閉じた。ああ、この距離だと、さすがに絶対気づかれる!