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十五 欲しいものは

 三枝掌膳さいぐさかしわでのじょうの局の前には加賀見かがみが立っていた。比野ひのはちらりと加賀見を見るが、それ以上なにも言わずに加賀見の横を通り過ぎた。今は加賀見に係わりあっている暇は全然ない。


「ちょっと」


 しかし、加賀見は比野のその態度が不満なようで、後ろから彼女を呼び止める。ほんとうに、めんどくさい、と比野は思った。今は忙しいところなのに、なんだってこいつに係わらないといけないんだろう。


「三枝掌膳みたいな、恐ろしい女の下で働いていたことに同情してるのに、その態度はなんなの!」


 でも、加賀見にそう言われて、頭の中の線のようなものが切れたような気がした。思わず加賀見につかみかかる。


「あんた、何て言った? もう一回言ってみろよ、くそっ!」


 自分でも安い挑発に乗ってしまったってことはわかっている。でも、人間には、安い挑発に乗らなきゃいけないときもある。大事なものを傷つけようとする人間を、そのまま捨て置くことなんてできるはずがないんだから。


 後はもう言葉にならない。比野と加賀見はつかみあいの喧嘩になって、口汚く、お互いを罵り合い、髪の毛を引っ張り合う。気がつくと、二人は女官に囲まれ、引き離されていた。



 その後、二人は尚膳かしわでのかみの元に引き立てられ、尚膳に、喧嘩したことを叱られた。尚膳に喧嘩の理由を聞かれて、比野は黙ったが、加賀見は告げ口するように言った。


「比野がいきなり、つかみかかってきたんです。わたくしは比野を心配しただけなのに」

「なに言ってんの! あんたが!」


 比野が加賀見に反論しようとすると尚膳は、大声で制止した。


「やめよ!」


 二人は黙る。尚膳は、比野の方を向いて言った。


「そなたには、ゆっくり休めと言ったはずだ。この意味がよくわかっていないようだから、はっきり言うが、三枝掌膳のことには、これ以上係わるなという命令だ。わかったな。そなたはご沙汰が下るまで、部屋からでるな」


 比野はうつむいて、唇をかんだ。


 尚膳は、そして加賀見のことも叱った。


「加賀見、そなたもだ。今、膳司かしわでのつかさには厳しい目が向けられている。騒ぎを起こすような真似をしてはならぬ。今日、そなたら和珥わに掌膳たちは、清涼殿に移った徳妃さまと積恵つむえ親王さまのための食事の用意をせねばならないのだから、そんなことをしている暇はないぞ」


 加賀見も、尚膳に言われたことを、うつむいて聞いている。でも比野、は尚膳の言葉が気になった。


「積恵親王さまはご回復なさったのですか?」


 尚膳は頷いた。


「まだ、完全にではないが、少なくとも峠は越されたらしい」


 よかった、と比野は思った。積恵親王が万一、薨去され(なくなっ)たりしたら、三枝掌膳に対する目はより厳しいものになっていただろう。少なくとも、これ以上状況が悪化しなかったという点で、不幸中の幸いだ。


 だが尚膳は、二人のことを見て、念押しした。


「比野も加賀見も、膳司全体のことをよく考えよ。そなたたちの行動一つで、膳司全体の評判に係わることもあるのだから。わかったら、もう行きなさい」


 はい、二人はそろって小声で返事をして、尚膳の前から退出した。退出後はお互いににらみ合ったが、さすがにここでまた喧嘩をするわけにはいかない。二人はそっぽをむいて、別々の方向に進んだ。



 膳司を出ると、比野は宜秋門を通り宴の松原の方に向かった。ここは人通りが少ないので、ゆっくり色々なことが考えられる。上を見上げると、揺れる木々と青い空が見えた。木々の枝の隙間から見える空は高く、渡り鳥たちの行き交う姿までわかった。


 ただただ、空を見上げてぼんやりする。そのうち、人の気配がしたので、振り返った。


「比野」


 支生しきだった。比野は目を丸くする。


「どうしたの? こんなところで」


 首を傾けてみせると、支生は自分の首を人差し指でかいた。


「実は、探してたんだ」


「探してたって、わたしを? なんで?」

「なんでって、昨日おまえと別れた後、あんな事件があっただろ? おまえが無事でいるか心配になったんだ」


 比野は、支生の言葉に驚くとともに、胸がぽかぽかするような心地がした。そっか、心配してくれたんだ。


「うん、わたしは無事。でも、わたしが下についてた掌膳さまが、とらわれてしまったんだ。もしかしたら、毒を盛った犯人として殺されてしまうかもしれない」


 比野が言うと、支生は顔をしかめた。


「それは、おまえにとってはつらいだろう。でも、とにかくおまえ無事なんだから、あまり気に病むな。宮中で過ごしていれば、そういうことにも慣れないといけない」


 そう言って支生が比野の方に一歩近寄ってきた。

 そんな、と比野は思った。支生が近寄ってきた分、後ろに一歩下がった。支生がそんなことを言うなんて、信じられなかった。

 でも、そもそも比野は支生の何を知っているっていうんだろう。昨日出会ったばっかりで、どんな人かもわからないというのに。


 多分、支生のことを信用しすぎていたのだ。そう思うと、悲しくなったけど、仕方がない。元々、宮中では、そう簡単に人を信用せずにいようと、誓っていたはずなのに。


 そう考えている間も、支生はまた比野との距離を詰めようとしてきたので、同じ分だけ遠ざかる。


「どうしたんだよ」


 支生が戸惑った表情をした。


「わたしは、三枝掌膳たちが無実だってことを、どんな方法を使っても証明するつもり」


 決意を込めた目で彼を見上げると、彼は目を見開いた。


「それは、やめろ。おまえには関係がないことだろ。そんなことに係われば、おまえも無事ではすまない」

「関係なくなんてない!」


 比野は叫んだ。そう関係なくなんてない。三枝掌膳は、比野に優しくしてくれたし、比野の提案も受け入れてくれた。それほど長いつきあいではなかったけれど、比野にとっては大事な人になっていた。 もちろん他の先輩采女だって、関係なくなんてなかった。


 そんな比野に対して、支生は困ったような顔をした。


「そうかもしれない。でも、一番大事なのは、自分の命じゃないか? おまえが命をかけたからといって、他の女官が助かるわけじゃない。死人が増えるだけだ。だから、おまえはもうこのことには係わるな」


 なんで、みんな同じことを言うんだろう。比野には何の力もない、何の価値もないって、そんな風に言うんだろう。

 でも、比野は、周りからそう言われたからといって、あきらめるつもりはなかった。自分に価値があることは自分自身で証明してみせる。


「支生、昨日聞いたでしょ。わたしが欲しがっているものは何かって。わたしそれがわかったんだ」

「なんだよ、突然」

「あのね、わたしは強さがほしいんだ。親しい人が困っていたら助ける強さが、権力にひるまない強さが、自分を信じる強さが。三枝掌膳はわたしに真心を持って接してくれた。だからわたしは、それに真心で返したい。誰も認めてくれなくても。命をかけることになったとしても。自分が弱い人間だって思いながら生きていくよりはずっとまし」


 もう決めたことだから。比野は支生の目をまっすぐ見つめた。支生の目が少し揺らいでいるのがわかった。


 支生は長い間沈黙していた。そして、少しの間空を見上げた後、大きなため息をつく。


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