十四 調査
比野は伊尾を起こさないように部屋を出ると、走った。まずは、時間を確保しないといけない。そのためには、しばらくの間、三枝掌膳たちが殺されたりしないという保証がほしかった。
采女町を駆け抜けて、内裏に入る。そして、常寧殿そばの庭までやってきた。
この場所では、いつも中宮が猫を遊ばせていることを、比野は知っていた。とはいえ、積恵親王に毒が盛られるという事件のあった翌日まで、中宮がその習慣を続けるかどうかは、正直わからなかった。
だからこれは一種の賭けだ。比野は、心の中で来い、来いと念じながら、中宮の猫が庭に出てくるのを待った。
庭の目立たない場所にしゃがんで、猫を待っていると、果たして中宮の猫がやってきた。灰色の毛を持つ猫だ。
ニャオ
と鳴いて、比野の前に現れたので、調理室に捨ててあった魚の切り身を、ほんの少しだけ猫にあげた。中宮の猫は後宮で飼われている猫の中では、一番自由に外に出ていて、ときどき庭をうろついていることがあった。たぶん中宮の女官はそのたびに猫探しに忙しかったんだろうけど、比野は猫をみかけるたびにこっそり一緒に遊んだ。そして、ときどき食べ物をあげていた。
だから、魚の匂いをさせた比野に、猫はためらわずに近づいてきた。もちろん普段は中宮と一緒にいるときは猫には近づいたりしない。でも、今は中宮と話をしたかったので、猫を利用させてもらおうとしているのだ。
比野は食事の終わった猫を抱き上げて、中宮の方に近づき、跪いた。
「中宮さま」
話しかけると、中宮は猫を連れてきてくれたと思ったらしい。比野に礼を言った。
「猫が元気すぎて、あっという間に駆けていくのだ。おまえが捕まえてくれて助かった」
もちろん比野は中宮に猫を渡すことが目的というわけではない。これ以上のことを言えば、無事ではすまないかもしれない。でも、三枝掌膳を助けるためだ。
「中宮さま、お願いがございます」
言うと、すぐに中宮そばに控えていた女官が叫んだ。
「無礼な! 下がれ!」
中宮は、もちろん比野などの采女が気安く声をかけてよい相手ではない。猫を渡す程度であれば黙認されたとしても、中宮に何か願い事をするなど、もっての他だ。
でも、比野は女官の制止を無視して続けた。
「中宮さま、三枝掌膳は無実でございます。もちろん、淑妃さまも。わたくしは淑妃さまや三枝掌膳の無実を必ず証明してみせます! ですから、どうか、少しだけ時間をください! お願いいたします!」
比野は猫を抱いたままで頭を下げた。中宮にとって三枝掌膳がどうでもよい存在なのは知っている。でも、淑妃のことはそうではないはずだ。だから、二人そろって無実を証明すると言えば、中宮も少しは猶予をくれるのではないかと考えた。
跪いた比野の目線の先に、蟻が這っていくのが見えた。そして、その蟻が視界の外に消えるくらいまで、中宮は無言だった。
だめか、と比野は覚悟した。中宮のそばの女官が比野を引っ立てるために近づいてくるのが見える。それなのに、中宮の猫は比野の腕の中から逃げないままでいて、比野の顔をなめた。
「おまえ、随分猫に懐かれているな」
やっと中宮が比野に話しかけてきた。比野は、予想外の問いになんと答えればいいのか迷った。はあ、とあいまいな返事をすると、中宮は続けた。
「それにしても、わたしは猫の世話で忙しいのだ。明日の昼頃までは、たとえ皇帝陛下に何を言われても、他のことは何も手につかないであろうな。さあ、猫を女官に渡して、おまえはさっさと下がるがよい」
中宮は、比野を、というより、比野の腕の中の猫を見つめながら言った。比野は一度中宮を見上げ、そして、また頭を下げた。
「感謝いたします」
そして、近づいてきた恐ろしい顔をした女官に灰色の猫をわたして、常寧殿の庭から下がった。
***
内裏を出て、采女町の方に歩いて戻りながら、比野は考えた。中宮は明日の昼頃までは猫の世話しか手につかないと言った。つまりは明日の昼までは、三枝掌膳を処刑しないようにしてくれる、ということだ。これから一日以上は時間があるとは言っても、それほど長い時間というわけではない。
その間に急いで、三枝掌膳が無実である証拠をみつけなければならない。そのためには、真犯人を捜すことが最も早い。
昨日、何があったのか、だいたいのところは、牢の中で三枝掌膳に聞いた。宴の後で、皇帝の唯一の親王である積恵親王が突如体調不良を訴え、侍医の診察の結果、毒を摂取していたことがわかったのだ。
そして、三枝掌膳が淑妃に命じられて毒を盛ったのではないかと疑われている。
比野が頭の中で、そんな風に現状を整理している間に、三枝掌膳の局の前に到着した。
掌膳以上の女官は、相部屋ではなく、独自の局を持つことが許されている。周囲に誰もいないことを確認して、中に入る。ここは既に捜査の手が入ったらしく、三枝掌膳らしくなくごちゃついていた。棚の引き出しが開けっぱなしになっていたり、脇息が倒れていたり、文机が斜めになっている。
ここは捜査した人たちは、何か証拠を発見したのだろうか。いや、なにもあるはずがない。比野は三枝掌膳が毒など盛るはずがないという確信があった。
三枝掌膳の局を眺めていると、文机のそばの床に一枚の紙が落ちているのを見つけた。
それを文机の上に広げてみる。そこには、宴の献立が事細かにしるされていた。
すみからすみまで、目をこらしてみても、その献立におかしなところは一つもなかった。もちろん、当日、調理しているところを見ていたので、毒になるものを献立に入れるはずがないと知ってはいたが、こういう事件があった以上念のための確認も必要だ。
比野は安心して三枝掌膳の局を出た。やはり、故意でも、そうでなくても、三枝掌膳は積恵親王に毒を盛っていない。
そこに、突然、意地の悪そうな声が聞こえてきた。
「比野、あんたは牢屋に入ってなくていいの?」