十三 釈放
「しかし、母上のお考えもあるでしょう。全員を死罪にすれば、膳司から人がいなくなりますよ」
支生が、さも憂いているという風に言うと、母は眉を寄せた。
「確かに、膳司の女官の多くを死罪とするのは現実的ではない。料理を作ることに関わった、掌膳の班の女官のみにするのがよかろう」
「でも、新入りの采女などもいるでしょうね。まだ料理には関わっておらず、掃除ばかりしているような。そういう采女を処罰してしまうのはいかがなものかと思います。料理に関わっていないのだから毒も盛りようがないでしょうに」
支生が本当に母に伝えたかったことを主張すると、母は支生の真意には気づかない様子で同意した。
「確かにな。尚膳も膳司の女官は定員に対して仕事が多いとこぼしていた。一度に多くの女官がいなくなると、様々なところに差しさわりがでるだろう。まあ新入りの采女まで処罰することもないだろう」
支生は、母の言葉に安堵した。よかった、これで比野の処分は免れた。そう思っていると、母の矛先が自分に向かい始めた。
「それにしても、そなたもそろそろいい年なのだから、身を固めてもいいのではないか?」
母が、いつもの説教体制に入ったのを察して、支生は弘徽殿からの暇を告げることにした。
***
比野は、他の采女たちとともに夜半に牢に引き立てられ、まんじりともできずに長い時間を過ごした。牢は暗く、よどんでおり、寒い。牢の天井は立ち上がれないほど低く、壁にも囲まれているのだが、どこからともなく、冷気が入ってくる。
これからのことを考えると、悲観的なことしか浮かんでこない。膳司の女官は毒を盛ったことに関わってなどいないと比野は確信している。しかし宮中は、犯人はわかりませんでしたでは、すまない場所だ。犯人がわからなければ、誰かを犯人としなければならない。
そしてその犯人には、膳司の女官が仕立て上げられることになるんだろう。
もちろん、親王の毒殺犯となれば死罪は確実だろう。
比野は、もしかしたら姉もこんな風にして死ぬことになったのかもしれないと思った。姉は優しいから、誰かの罪をかぶることになったのかもしれない。
やがて、遠くから足音が聞こえてきた。
その足音に比野は恐怖さえ感じた。この足音の持ち主が、自分たちに死を告げる使者であるのかもしれない。
でも同時に、ここで死んでなるものか、という気持ちもわいてくる。比野はまだあきらめるつもりはなかった。姉がどうして死んだのか、その理由を突き止めるまでは、絶対に死ぬわけにはいかないから。
「見習いの采女というのは誰だ?」
男は牢に近づいてくるなり聞いた。比野も伊尾も返事をしなかったが、周りの反応から察したらしい。比野に向かってその男は顎をしゃくった。
「出ろ」
言われたので、男を見上げる。牢番らしい。牢番の男は続けた。
「見習い采女は釈放せよ、との命令だ」
「どうして、わたしたちだけ?」
比野は尋ねたが、三枝掌膳は慌てて言った。
「そんなことはどうでもいいじゃない。大人しく釈放されなさい」
牢番も言った。
「理由は知らされていない。おまえたちはとにかく出ろ」
比野は三枝掌膳を振り返った。
「絶対にみなさんも釈放されるようにしますから」
自分たちだけ、釈放されるなんて、そんなのおかしいと思う。
「いいから! 自分のことだけを考えなさい!」
三枝掌膳はそういい、先輩采女たちもそれに頷いた。伊尾も自分たちだけ釈放されることに、気まずそうにしている。でも牢番は別れの時間を待たなかった。
「何をしている! 早く出ろ!」
比野と伊尾は二人だけで牢を出る。牢の外側から見ると、牢の中は暗い。比野はまだ中にいる三枝掌膳たちの姿に、胸が締め付けられるような心地になった。
引き立てられるように牢番に連れられて、外に出される。もしかしたら、釈放だと安心させて、実は何かの罰を受けることになるのではないか、などと少しばかり考えたが、それは杞憂だった。
比野は形式的な尋問を受けたのちに、膳司に戻された。いつもの調理場に入っていくと、女官たちが比野と伊尾を遠巻きにながめている。
一方で、女官たちの中央には、なんと尚膳が待っていた。そして比野と伊尾に近づいてきて、二人の肩を叩いて、苦労をねぎらってくれた。
「大変な目にあったな。そなたたち、牢に入っていて、眠れていないだろう。今日は休みなさい。その後どうするかは、追って沙汰する」
尚膳の手は暖かかった。尚膳の言う通り、牢で過ごした一晩はつらく、よく眠れなかったので、ありがたかった。
でも比野は、今は休むよりも三枝掌膳たちを助けたかった。そのためにできることをしたい。
「三枝掌膳たちはどうなるのでしょうか」
念のために聞いてみる。もしかしたら比野が悲観的になりすぎているだけかもしれない。しかし、比野の問いかけに、尚膳は黙った。そして目を閉じて首を振る。
「そなたたちは、もうその名を口に出すな。運がよければ、戻って来られるだろうが……」
尚膳はそれ以上言わなかったが、言わなかった言葉の先に何があるかは明確だった。でもだからこそ、比野の決意は明確になった。
「では、三枝掌膳の無実を証明すればいいのですね」
比野は顔を上げて、尚膳に告げた。尚膳は目を見開いた。そして宥めるように比野の肩をさする。
「そなたの思いはわかる。だが、それはやめなさい。そなたの望む通りには決してならないだろう。膳司にはそなたのような人材が必要だ。有望な人材をこれ以上失うかもしれないと思うと気が気でない。とにかく、今日は休みなさい。そしてそなたは自分の幸運を喜ぶがよい」
比野は反論しようとしたが、口をつぐんだ。これ以上ここで議論しても、時間の無駄になるだけだろう。調査は自分だけでやればいい。初めからそのつもりだったのだ。尚膳が心配してくれているのは事実だし、これ以上、ことを荒立てる必要はないだろう。
だから、比野は尚膳に頷いてみせた。
「わかりました」
それを聞いて、尚膳もようやく少しの笑顔を見せてくれた。
「わかればよい」
そう言って、二人の肩を軽く二回叩くと、二人の横を過ぎていった。
すると、膳司で働いている采女たちの視線が、直接比野と伊尾に突き刺さった。多くは、比野たちを心配してくれているようではあったが、一方で、どう声をかけたらいいのかわからないようでもあった。そんな中で、一人の采女が逡巡の末に口を開いた。
「二人とも無事に戻って来れてよかったね。尚膳さまも、ああ言っていたでしょ。今日はゆっくり休みなさい。でもその前に朝食を食べていきなさいよ」
ありがたい申し出だった。伊尾が、その采女に向かって返事をした。
「ありがとうございます」
疲れた笑顔になってしまっているが、こういう状況では仕方がないと、もちろん声をかけてくれた采女も思っただろう。彼女は何も言わずに比野と伊尾に、暖かい食事を用意してくれた。
朝食を食べた後に、二人は自分たちの部屋に戻る。その部屋は、昨日の夜、慌てて飛び起きたままの状態が保たれていて、妙に静かだった。ここを出た後、自分、そして、他の采女たちの身に、あんなことが起きたなんて信じられないくらい、いつも通りだった。
「疲れたね」
伊尾がぽつりと言った。比野も同感だった。本当に疲れた。そんな比野に伊尾は続けた。
「尚膳さまも、ああ言ってくださったし、休もうか」
その言葉に比野はおとなしく同意した。同じ程に二人は寝床に潜り込む。
「おやすみ」
そう言い合って、比野たちは目を閉じた。
しばらくして、伊尾の寝息が聞こえてくると、比野はそっと布団を抜け出した。
もちろん三枝掌膳たちの無実を証明するには、寝ている暇なんてない。いつ、臭いものには蓋をしろ、といった風に三枝掌膳たちの口が塞がれてしまうかわからないから。とはいえ、尚膳にもこのことに関わらないほうがいいと言われるくらい危ないことをしようとしている。こんなことに伊尾を巻き込むことはできない。