十 再びの出会い
宴は盛況のうちに終わったらしい。比野が支生に送ってもらって宮中に戻ったあと、すぐに宴が始まった。包丁をにぎれないとはいえ、食器を準備したり、洗ったりで忙しく、てんやわんやの時間だったが、それももう終わった。
今、調理場には比野と伊尾だけが残っている。宴の後の、最後の掃除のためだ。
二人とも朝早くから働いており、さらに里山にまで行って、今は残って皿洗いをこなしているせいで、疲れてくたくただった。
伊尾は比野よりもっと疲れているらしく、ときどきうとうとして、立ったまま寝そうになっている。何度目かのときに、比野は伊尾の方に手を置いて彼女が倒れないように支えながら声をかけた。
「先に帰ってて。わたしは最後にもう一度麗景殿を見に行ってくるから」
今日の宴で使った食器類が残されていないか確認するためだ。宴で使った食器や食べ物は、もちろん膳司の女官たちが下げたが、会場となった麗景殿は、淑妃が普段生活している場でもあるので、麗景殿の女官たちも、宴の後で殿舎を片付ける。
その時に出る色々なものを女官たちは麗景殿の脇に置いておくのだ。膳司の管轄のものは、そこから持って帰って処理する必要がある。とはいえ、先ほども確認して何もなかったので、もう何もなかろうとは思う。でも一応帰る前にもう一度確認しておきたい。
伊尾は自分だけ先に帰るなんてとむにゃむにゃ言っていたが、大丈夫大丈夫と言って、さっさと返した。そして比野は一人で麗景殿の脇に着く。やはり膳司所管のものは、もう何も外に出ていなかった。これで本当に宴も終わりだ。
麗景殿は静まり帰っていて、宴の後とは思えないほどだった。
比野は調理場に戻ろうと近衛兵が守る宣陽門から出た。その足で采女町まで戻ろうとしたが、宣陽門近くの建春門の脇の大きな銀杏の木に目が行った。その木の葉はだいぶ色づいているのが月明かりの中でもわかって、比野は思わず建春門近くの銀杏に近づいた。
黄色という色は、暗闇を切り裂くように、暗い夜でもはっきり見える色なんだなと、ぼんやり思う。紅葉の宴だというのに、忙しくて比野自身は紅葉を観賞する余裕がなかった。宴が終わった今くらい、銀杏の葉の色づき具合を鑑賞するのもよさそうだ。
しばらくその黄色い葉を眺めていると、じゃりっという音が聞こえたので振り向いた。
「もう宴は終わったんだから、そろそろ戻ったほうがいい」
門の外からそう声をかけてきたのは一人の男だった。でも最近どこかで聞いたことのある声のような気がする。でも暗いので、その男の顔はよく見えなかった。
夜中に知らない男と二人きりになるのは少し怖いが、無視するのもどうかと思って少しだけ近寄ってみると、男が誰だかわかった。
「支生」
ついこの前、里山で出会った男だ。支生も宮中で働いていると言っていたのだから、ここで出会ったとしてもそれほど驚くことでもないはずなのに、それでも驚いてしまって彼の名前を呼んだ。
比野の声を聞いて、支生も比野をまじまじと見返してきた。
「お前は比野か?」
支生は、この前と違って、きちんとした格好をしていた。ただし官服ではなく平服なので、彼の官位はよくわからない。特別な許可がない限り、内裏の中には官服を着なければ入れない。でも門を隔てた支生のいる場所では平服が許されている場所だ。
「これだけ広い宮中で、こんな夜中に会うなんて不思議だね」
比野が言うと、支生は比野を手招いた。自分は門の内には入れないから、ということらしい。比野が門の外にでると、支生は言った。
「その格好を見ると、お前は膳司の采女だったようだな」
支生は小袖に前掛けをかけた比野の姿を上から下まで見下ろした。
「そういうあんたは、どこのお役所務めなの?」
「わからないか?」
「わからないから聞いてるんだけど」
「門を守るのは近衛府の仕事だろ」
支生は近くの建春門を軽く叩いた。
「近衛府? じゃあ、武官なんだ」
比野はそう言いながらも、軽口でそう言っているんでは? という疑問もわいた。内裏を取りまく内郭の門には近衛兵が常駐しているが、そのさらに外側を取りまいている建春門など外郭の門は近衛兵が常に守っているというわけでもない。
近衛府の武官は、この国では優秀で、家柄も見た目も良い若者しか、入れないことになっているらしい。果たして本当に、支生そんな近衛兵なのだろうか。近衛兵がだれもいないのを良いことに適当なことを言っているだけかもしれない。まあ、見た目だけは合格点だけど、と比野は思った。
「格好いいだろ?」
でも支生がそうやってにやりと笑ったので、比野はあきれてどうでもよくなってしまった。
「帰る」
「送るよ」
「大丈夫。すぐだから」
「こんな時間じゃないか。念のためだ。采女町の中までは入らないよ」
「当たり前でしょ」
比野はそうは言って歩き始めたが、後ろから支生がついてくるのを止めようとは思わなかった。しばらく行くと、支生は後ろから声をかけてきた。
「お前も、今日の宴の料理を作ったのか?」
「ううん。わたしはまだ新入りだから」
「ふーん」
そう言った支生の声は、残念そうに聞こえた。
「お前の料理が食べたいんだけど」
「その代わりに、あんたはわたしに何をくれるの?」
支生の要求にそっけなく返す。ただで料理を作ってやるほど、比野の料理は安くない。
「なにが欲しいんだよ」
言われて、ふと、考えてしまった。自分が欲しいものは一体なんなんだろう。一番はもちろん姉にもう一度会うことだが、それは難しい。だから姉がどうして死んだかその理由が知りたい。でも、それ以外でなにか欲しいものがあるかどうか、比野にはよくわからなかった。
「わかんない」
しばらく考えても、自分の欲しいものがよくわからなかったので、正直に答えると、支生はため息をついた。
「あるだろ、女の子なんだから、いい反物とか髪飾りとか」
「仕事中の服は支給されるから、そういうものは別に興味ない。それに女の子なんだからってひとまとめにされるのは嫌い。わたしは女の子っていう生き物じゃなくてわたしっていう一人の人間」
「あ、そう」
比野が支生の言葉に反論すると、彼は少し鼻白んだ。そして、彼の足音が止まった。
だから比野は、支生が比野にあきれて、帰ってしまうつもりなんじゃないかと思った。それならそれで別にいいけど。がっかりなんてしてないから。そう自分に言い聞かせながら、支生を振り返ると、支生はまっすぐ比野を見つめていた。
「なら、考えておいて教えろよ。お前が、何を欲しがっているのか」
なぜかわからないけど、その言葉を聞いて、顔に血が上った。支生の顔を直視できずに、くるりと支生に背を向けてみる。そして答える。
「うん。考えとく」
「ああ、考えとけ」
「考えとくことを考えとく!」
「なんだそれ」
門をくぐれば采女町はすぐそこだ。笑う支生から走って離れて、最後に振り向いた。
「今日は、ありがと。またね」
そう言って、返事もまたずに采女町に駆け込んだ。こんなにどきどきしているのは、走ったからに違いない。比野は、秋の夜の冷たい風で自分の頬の熱を冷やしてから、自分たちに与えられている部屋まで戻った。
***
比野たち三枝掌膳のもとの采女は、皆同じ部屋を使っている。比野は、休んでいる他の采女たちを起こさないようにして、自分の布団にもぐりこんだ。まだ、どきどきがおさまらない。
でも、今日を振り返ると、忙しかったけれど、いい一日だった。比野は満足した気持ちで、眠りにつくことができそうだった。
しかし、うとうとしかけたころ、突然外が騒がしくなったかと思うと、比野たち采女の部屋の扉が開いた。
「寝てる場合じゃないよ」
言いながら、別の掌膳のもとで働く采女が入ってきた。
「なに。こんな夜中に」
先輩采女がうるさそうに返事をする。みなを起こした采女は、部屋の真ん中まで進むと、まだ寝ぼけている采女たちを見まわしてから、こう言った。
「三枝掌膳が、捕らえられたって」
「どういうこと?」
まだ布団に入ったままだった采女たちはその言葉を聞いて飛び起きた。一体全体どういうわけで、そんな事態になったんだろう。
「宴のあと、親王さまが体調をくずされたんだって。徳妃さまは、毒のせいだって大騒ぎしているらしい」
「そんな・・・・・・」
比野たちは絶句することしかできなかった。