懐妊の条件1
その晩、夕餉を終えた私は早々に床の間に入って就寝の支度をします。
夕餉時に黒緋から晩酌の相手をしてほしいと誘われましたが、それはお断りさせていただきました。昼間の衝撃発言を忘れていません。自分の子を孕めなどという男と晩酌を楽しめるほど心は広くないのです。
私は燭台の明かりを消して寝床に入りました。
横になって睡魔が来るのを待っていると、ふと伊勢を旅立った日のことを思い出しました。
伊勢の山奥にある斎宮から旅立つ私を斎王が見送ってくれたのです。
斎王は瞳に涙を浮かべていました。
『姉さま、逃げて。遠くへ逃げて。お願いだから死なないで』
斎王が泣きながら言いました。
それは私が生き抜くことを望み、幸福を願ってくれたもの。
心優しい斎王の姿が目に焼き付いて離れません。
斎王のためにも私は生きなければならないのです。生きて、できるだけ長く生き抜いて、ずっと遠くへ逃げなければいけません。
「斎王様……。いいえ、萌黄」
私は斎王の名前を小さく呟きました。
斎王は私の双子の妹なのです。
元々、私たちは伊勢の片隅にある小さな村で暮らしていました。
両親を早くに亡くした私たちは日々飢えに苦しみながらも助けあって生きていたのです。
でも私たちが十になった頃、斎宮から迎えが訪れました。それは年老いた先代斎王が萌黄の神気を見つけだし、後継者として選んだからです。
本来、斎王になれるのは帝の血縁者の女性だけということになっています。しかし実際のお役目を果たせるほどの神気を持った女性が都合よく生まれてくるはずもなく、帝の血縁者の女性が着任するのは建前というものでした。
斎王が代替わりする時期に日本中から強い神気を持った女子を探し出し、斎王の任を命じているのです。そう、萌黄は生まれた時から強い神気を持っていました。
こうして萌黄は貧しい孤児という下賤の身から斎王へと取り立てられ、晴れて斎宮に迎えられたのです。
でも私はそういうわけにはいきません。双子なのに神気など一切無い普通の子どもだったのですから。
しかしそんな私が一緒に斎宮へ行けたのは萌黄が嘆願してくれたからでした。
斎宮に入ることが許された私は、せめて斎王の役に立とうと舞踊や横笛や琴にいたるまで雅楽を身に着けたのです。
「萌黄……」
伊勢を旅立った日のことを思い出して、目が冴えて眠れそうにありません。
眠ることを諦めて寝床から抜けると、横笛を持って渡殿に出ました。
庭園に面した渡殿からは庭の広い池が望めます。池の水面には夜空の月が映ってゆらゆら揺れていました。
静かな夜、揺らめく月を見ながら横笛を奏でます。
透明感のある音色が静寂な夜の空間にどこまでも響いていく。その聞きなれた音色に私の気持ちも落ち着いていきますが、その時、キンッと耳鳴りがしました。
「っ、これは……」
それは結界が破かれた音。
この屋敷には結界が張られているはずですが、破かれたということは鬼が侵入してきたということでしょうか。
ゾクリッ。背筋が冷たくなりました。
なにかいます。禍々《まがまが》しい何かがこちらに向かってきています。
「鶯、笛を続けろ」
ふと背後から黒緋の声がしました。
私は安堵して振り返りましたが、黒緋は厳しい面差しで宙を睨んでいます。
そして私の肩にそっと手を置きました。
「結界が破かれた。鬼が来るぞ」
「鬼っ……」
恐怖に震えそうになりました。
分かっていたことだけど接近している鬼の存在に血の気が引いていく。
でも黒緋は大丈夫だからと笛を促してきます。
「早く笛を」
「笛なんか吹いている場合ではありません」
「説明は後だ。鬼に気づかれたくなければ吹け」
「え……?」
意味が分かりません。
でも早くしろと急かされて困惑しながらも笛を吹き始めます。
緊張と困惑に指が強張りそうになりながらも、先ほど鳴らしていたのと同じ音色を響かせます。
月明かりの下で笛に集中していると、ふと黒い影が差しました。
笛を吹きながらそろりと顔を上げて、思わず恐怖で息を詰めてしまう。
「っ、!」
鬼がそこにいたのです。
しかも昨夜見たものより二回りも大きい巨体の鬼です。
月すら覆い隠してしまうくらいの巨大な鬼。人間離れした骨格と、丸太のように太くてごつごつした手足。指の爪は刃物のように長く尖り、耳まで裂けた口からは鋭い牙が覗いていました。
逃げなければと焦るのに、肩に置かれた黒緋の手にやんわり力が籠められました。大丈夫だから笛を続けろというのです。
「お前の笛の音が響いているうちは奴に俺たちは見えない」
意味は分かりませんが今は小さく頷いて笛を続けます。
庭園に現われた鬼はのそのそ歩き、周囲をきょろきょろ見回しています。
「……どこだ、白拍子。どこにいるっ。お前がいることは分かっているっ……」
地を這うような鬼の声。
夜の空気を震わせるそれに背筋に汗が伝いました。
鬼は私を探しているのです。でも黒緋の言うとおり鬼に私の姿は見えていないようで、「白拍子、どこにいる」と私を探しながら苛立っているようでした。
鬼は庭園を歩き回り、次に渡殿に上がってきます。近づく距離に恐怖と緊張が高まっていきます。
「そのまま続けろ」
黒緋が私の耳元で囁きました。
その声にちらりと振り返って、呼吸が詰まりそうになる。だって黒緋は呼吸が届くほど近くにいたのです。
黒緋はこの場に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべていて、目が合うと「俺がいるだろう」と優しく宥められました。
どうしてでしょうか、うまく呼吸ができない。なにも考えられなくなりそうなのです……。
妙な気分になってしまって慌てて振り払いました。
今は笛に集中する時なのです。
「どこだっ、どこにいる! 白拍子はどこだ!!」
鬼が怒鳴りました。
気が付けば目の前にまで近づいていて、周囲を見回している鬼の顔が私の至近距離まで寄せられました。
鬼の生臭い息が頬にかかって身震いします。でも笛を止めません。ずっと吹き続けます。
鬼はしばらく屋敷内を探し回っていましたが、やがて諦めたようで立ち去っていきました。
気配が完全になくなると、黒緋にぽんっと肩を叩かれます。
「もう大丈夫だ。鬼は去ったぞ」
「去った……?」
黒緋の言葉におそるおそる笛から唇を離します。
でも同時に緊張の糸が切れて、ぺたんっとその場に座り込んでしまいました。