さようなら、私の愛しい御方。どうかおげんきで。6
「私はもう……斎宮に帰れないから。もうすぐ斎王のお役目ができなくなるから」
「萌黄……」
私は言葉が出てこない。
三日夜餅で夜這いが成立すれば萌黄は処女ではなくなります。純潔は斎王の条件。どんな強い神気を持っていても一度でも抱かれれば斎王ではいられなくなるのです。
そして今、萌黄の三日夜餅の最中でした。一夜目はなにもなかったけれど、二夜、三夜と続くのです。昨夜のようになにもないなどということはあり得ません。
「もしかして……斎王を辞めたくないんですか?」
「…………」
萌黄は無言のまま顔を伏せました。
無言の肯定に私は胸が詰まる。
私は今まで萌黄は斎王という立場にそれほど深い思い入れはないと思っていました。
だって斎王として選ばれた時、萌黄は斎宮にあがることを泣いて嫌がったのです。
十歳の萌黄がおんぼろの小さな家の柱にしがみついて、斎宮からのお迎えの使者をとても困らせたほどでした。
そんな萌黄を私は必死に宥めて説得したのを覚えています。
どうして拒むのか私には分かりませんでした。なぜなら斎王になって斎宮にあがるということは、貧しい生活から抜け出せるということなのです。
斎王になれば隙間風が吹くおんぼろな家で寒さに震えることはなく、飢えに苦しむことはありません。斎宮に行けば貧しさから解放されて明日を心配することなく生きていけます。
私は萌黄と離ればなれになることは寂しかったけれど、萌黄が寒さと飢えに苦しまなくていいのだと思うと安心したのです。
でも萌黄が斎王になる条件として私も斎宮に行くことを要求し、そのお陰で一緒に斎宮にあがることができたのです。もちろん私は白拍子になるまで下働きという立場でしたが、萌黄の近くにいられるのですから充分でした。
沈黙が落ちる中、萌黄が私を見つめて話しだします。
「……鶯がいてくれたからだよ」
「私が?」
「うん。本当は斎王になんてなりたくなかった。鶯と離ればなれなんて絶対に嫌だったし、自由に外に出られなくなるのも嫌だった。でも鶯がいつも近くにいてくれたから、私は斎王のお役目に向き合うことができたの」
萌黄はそう言うと自分の手のひらを見つめ、大切なものを握りしめるようにぎゅっと閉じる。
「鶯がいつも私の手を繋いでいてくれたから。手を引いて歩いてくれたから。だから私は斎王を受け入れることができた。斎王を受け入れて、そのお役目を果たすうちに自分を誇れるようになったわ。姉さまが、姉さまが私をいつも守ってくれたから」
姉さま。
いつも私のことは『鶯』と呼ぶのに、萌黄は大切なことを伝えたい時には私を『姉さま』と呼ぶ。
萌黄は私を見つめて瞳に涙を滲ませました。
そして私にぎゅっと抱きついてきます。子どものように。
「姉さま、大好き。どうか私を嫌いにならないで。お願い、嫌いにならないでっ。もし私が天妃になることで姉さまに嫌われたら、私は、私は天帝を恨んでしまうっ……」
それは斎王として許されない言葉でした。
萌黄は覚悟しているのです。
斎王だからこそ天帝に嫁がなければならないことを。
でも私の気持ちも知っているから、その狭間で苦しんでいるのです。
「あなた、苦しいのですね」
「姉さまっ……、ぅっ」
萌黄がぽろぽろと涙を零しました。
私は萌黄をそっと抱きしめて背中を撫でてあげます。何度も何度もよしよししてあげます。子どもの時から何度もしてあげたように。
「萌黄、泣かないでください。泣いてはいけません。私はあなたのことを決して嫌ったりしませんよ。なにがあってもあなたは私の可愛い妹です」
「姉さまっ、姉さま……!」
小さく震える萌黄を強く抱きしめました。
この萌黄の覚悟を前に、私は自分が猛烈に恥ずかしくなりました。
私はなんて矮小で醜い人間なんでしょうね。浅ましく嫉妬し、役に立とうとすることで黒緋に縋りついて。
初めての恋に翻弄されて、心が嵐のように荒れて。大切な萌黄のことをなにも考えていなかったのです。萌黄はこんなに胸を痛めて苦しんでいたのに。
……ああ、あなたがもっと嫌な人間だったらよかったのに。
もっと狡猾で、嫌味で、意地が悪くて、冷淡で、無神経で。あなたがそんな人間なら私は自分の矮小さに気づかずに済んだのに。
自分こそが黒緋の特別な人間だと勘違いしたまま、黒緋の側にいることもできたのに。
でも、それは出来ません。だってあなたは私の可愛い妹だから。
萌黄が本当の気持ちを殺して天帝に嫁ぐことを覚悟したのに、私が側にいては萌黄を傷つけてしまう。これ以上、萌黄を苦しめたくありませんでした。
だから私も決意します。
萌黄の覚悟に恥じぬ決意を。




