世界で一番優しくて、世界で一番ひどい男3
「黒緋様、今日の鍛錬で紫紺が猪を狩ってきてくれるそうですよ」
「そうか、それは楽しみだな」
「はい」
今日の鍛錬は離寛が指導してくれています。
鍛錬の合間に離寛が猪狩りに付き合ってくれるそうで紫紺も楽しみにしていました。
私は「ふふっ」と思い出し笑いをしてしまう。初めての鍛錬で泣きながら帰って来たのを思い出したのです。
「紫紺が狩りまでするようになるなんて不思議です。鍛錬を嫌がっていたこともあったのに」
「そんなこともあったな。ずいぶん前のことのように思える」
「そうですね。紫紺はとても強くなりました」
今も鍛錬中の紫紺が思い浮かんで笑みが零れました。
黒緋から子どもが欲しいと初めて言われた時は驚き、戸惑いと不安ばかりでした。でもこうして紫紺という子どもを得たことは私の喜びになりました。
それが天妃のためだと思うと胸がキリリと痛みますが、今ここに天妃はいないのです。いるのは黒緋と私と紫紺だけ。
今この時間がずっと続けばいい。
今この地上で黒緋の一番近くにいて、側にいることを許されているのは自分だけ。ずっと、ずっとこの時間が続けばいい。
「そういえば、離寛が都の見回りを紫紺に手伝わせたいと言っていた」
「離寛様が?」
離寛は黒緋の古くからの友人で、天上の武将の一人でした。黒緋が天妃を探すために地上へ降りた時に一緒に降りてきたのだそうです。
「ここ最近、都の結界が何度か破壊されている。そのせいで都に魑魅魍魎が侵入しやすくなっていてな」
「もしかして、それは羅紗染の……?」
「ほぼ間違いない、あいつの目的は俺への復讐だ。また四凶を復活させる気だろう」
黒緋の目が据わりました。
離寛の調査で羅紗染が邪神の分身だということが分かりました。
現在、邪神は黒緋に封じられていますが、その力の一部が漏れでて分身を作ったのです。
私は黒緋を見上げました。
怖い顔をしていますね。四凶を封じているのは天妃です。天妃が地上に落ちた時のことを思い出しているのでしょう。
「……大丈夫ですか?」
声を掛けました。
彼の気を引くように、心を天妃から引き離すように。
黒緋は私を見て優しく微笑んでくれます。
「不思議だな。お前といると安らぐんだ。いつも側にいてくれてありがとう」
「いいえ、私こそ」
心が甘く締め付けられました。
私もあなたといると嬉しくて、楽しくて、安らいで。心がぬくもりでいっぱいになるのです。
私の心を満たすぬくもりが、あなたも同じでありますように。
「黒緋様、あそこの露店に寄ってください。山芋とごぼうを買っていきたいんです」
「分かった。晩酌用の肴も欲しいな」
「分かっていますよ。なにか作ります」
「お前もどうだ? 付き合ってほしいんだが」
「ふふふ、喜んで」
嬉しいお誘いです。
晩酌なんてしたことはありませんが、紫紺を寝かしつけたらぜひお付き合いしましょう。
こうして二人でなにげない会話を楽しみながら市を歩いていると、ガラガラと牛車の車輪の音が聞こえてきました。
見れば貴族のものと思われる立派な牛車が通りをゆっくり進んでいます。
私と黒緋は邪魔にならぬように道の端に寄りましたが、牛車が目の前を通り過ぎようとした時。
ガタガタガタ! ガタガタガタ! ふと牛車の中が騒がしくなりました。
しかも牛車は私たちの前で停車して、なにごとかと私と黒緋は顔を見合わせます。
「……どうしたんでしょうか」
「さあ?」
停車した牛車を見つめていましたが、バサバサッ! 突然、高貴な衣装の女性が勢いよく転がり落ちてきました。
「きゃあっ! い、いたい〜っ!」
地面に不時着した女性は情けない声をあげました。
でも私はその姿に大きく目を見開く。だって、だって!
「萌黄!!」
そう、双子の妹の萌黄だったのです。
私は慌てて萌黄に駆け寄りました。
「だ、大丈夫ですか萌黄! どうしてあなたがここにいるんです!」
意味が分かりません。斎王の萌黄は伊勢の斎宮にいるはずなのにっ……。
ここで会えた混乱と喜びで頭がいっぱいになってしまいます。
でもやっぱり嬉しくて、萌黄を抱きしめて顔を覗きこみました。ああ、伊勢でお別れした時と変わっていませんね。私のかわいい妹です。
「萌黄、元気そうですねっ……」
「鶯、会いたかったっ。ずっと会いたかったわ……!」
萌黄が感極まって私に抱きついてきました。
私も両腕にしっかり抱きしめて、幼い頃からしていたように何度も何度も背中を撫でてあげます。
萌黄がおずおずと顔を上げました。
萌黄の大きな瞳が涙で潤んでいます。私の視界もぼやけてしまって、お互いによく見えなくて泣き笑いました。




