はじめての恋4
「寒いんですか?」
焦って顔を覗きこみました。
見れば黒緋は青褪めていて、明らかに容態が急変していました。
「寒いんですね! 待っててください!」
私は黒緋の上に布団を二枚も三枚も重ねて被せました。
それでも様子は変わらなくて季節外れの火鉢まで用意してもらいます。
でも容態は変わらない。私は黒緋の小刻みに震えている手を両手で握りしめました。
「黒緋様! 黒緋様! しっかりしてください!」
何度も呼びかけるけれど目を覚ましてくれません。
早く温めなければみるみる体温が失われてしまうでしょう。
迷っている暇はありません。私は緊張で震えそうになりながらも、しゅるりっ。しゅるりっ。帯の紐を解きました。打掛を脱いで素肌をさらします。
「お、お邪魔しますっ」
そう小さく言うと、黒緋の布団をめくってそろそろと入りました。
そして、ぴたり。黒緋の鍛えられた胸板に自分の体を寄り添わせました。
体が冷えているなら熱を分け合うしかないのです。人肌の熱でもないよりずっと良い。
私は黒緋の体をぎゅっと抱きしめます。
すると黒緋の両腕が温もりに縋るように背中に回されて強く抱きしめられました。
「黒緋様……」
黒緋の無意識の反応に私の頬が熱くなります。
耳元で黒緋が夢現のままうわ言を呟いた気がしましたが、よく聞こえませんでした……。
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東の空は輝く虹色。西の空は宝玉のような瑠璃色。南の空は雲一つない青色で、北の空は魚の鱗のように銀色だった。そこは天上界、絵巻物のような景色が広がる世界。天帝・黒緋が統治する世界。
それは気位の高い女だった。
天上で指折りの美女だと称賛されながら、それを冷ややかに一瞥するような女。硬質な雰囲気は凍てつく氷のようで、その近づき難さに誰からも遠巻きにされているような女だった。
そんな女を天帝・黒緋は天妃として迎えた。
天妃の名は鶯。
愛しあったわけではない。初めて顔を見たのは婚儀の時だったくらいだ。
娶った理由は天帝に相応しい家柄だったから、それだけである。
そもそも天妃になるのは愛した女でなくていいのである。天妃として相応しい神気を持っていること、天妃に選ばれる理由はそれだけだ。
黒緋は天妃のことを麗しい美女だと思っているが、それだけの女だ。
天妃の美貌は好ましく思うが、それだけ。愛しているということはない。褥に呼んで夜伽の相手をしてほしいと思ったこともない。
そのことから黒緋は後宮に多くの姫を迎えた。
跡継ぎの子どもは天妃である天妃と作らなければならないが、夜伽の相手は天妃でなくてもいいのである。
黒緋が天妃の寝間に渡ることはなく、自由に姫たちを愛でたのである。
一人は話術の巧みな聡明な姫。この姫との睦言は格別に楽しかった。
もう一人は稀にみる床上手な姫。この姫との夜伽は日頃の憂さを忘れさせてくれた。
また一人は大きな瞳が可愛らしい姫。この姫の笑顔は愛らしく、笑顔を見たくて幾つもの贈り物をしたくらいだ。
ほかにも後宮にいた多くの姫たちが黒緋に愛されていた。黒緋が後宮で愛さなかったのは天妃だけである。
そして黒緋はそんな姫たち以上に愛するものがあった。それは地上の人間たち。
黒緋は力無い人間のささやかな暮らしを見守るのが好きだった。幸不幸が入り混じる日常のなかで人間は笑い、嘆き、悲しみ、怒る。様々な思考や感情の中で必死に生きている。そんな健気ともいえる人間を見守るのが好きで、時々地上に降りて人間の暮らしに混じることもあるくらいだ。
そんなある日、黒緋が地上から天上へと戻ってきた時のことである。
「天妃……」
予想していなかった出迎えだった。
そこに立っていたのは天妃・鶯。頭上には天妃の宝冠をいただき、金糸銀糸で刺繍が施された翡翠色の唐衣を纏っている。それは彼女の氷の美貌を引き立てるものだ。
天妃に仕えている女官が黒緋に深々とお辞儀する。
天妃も頭を下げて黒緋を出迎えた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。……驚いたぞ、後宮から出てきたのか」
天妃は後宮から滅多に出てこない。
普段から後宮の奥で琴や舞ばかりをしている女なのだ。孤独を愛しているような女で、他人に興味を示すことがないのである。
鶯を天妃に迎えて幾日が過ぎたが、夫婦のようにふるまうのは式典や人前に出るときだけだ。当代の天帝と天妃は偽りの夫婦。それは天上で暗黙の了解だった。
黒緋は冷めた気持ちで天妃を見下ろす。
こうして出迎えてくれているが、にこりともしないので気位の高さばかりが鼻につく。
「たまには笑顔で迎えてくれ」
「……善処いたします」
「善処が必要なこととは」
黒緋は肩を竦めた。
「顔を上げろ」と命じれば静かに顔を上げる。
「珍しいな、お前が後宮から出てくるとは」
「天帝がお帰りになると聞いたので参りました」
「気まぐれか」
「……しばらく宮殿にお帰りがありませんでしたので。また地上へ行っていたのですね」
「…………」
咎めるような言葉に聞こえて黒緋は内心冷ややかな気持ちになった。
後宮の奥から滅多に出てこないこの女は、地上の人間の営みの尊さが分からないのだ。
「私はどうして天帝がわざわざ地上に降りるのか存じませんが、天帝にもしものことがあれば一大事です」
「分かっている。だが、俺は人間が愛おしい。短い寿命のなかで精いっぱい生きている人間が。彼らはどんなに辛いことがあってもささやかなことに微笑んでいる。そんな人間たちを見守ることが俺の喜びだ」
黒緋は楽しそうに人間を語った。
人間を語る時、黒緋は無意識に顔が穏やかになる。思い出すだけで頬が緩み、優しい気持ちになれるのだ。
とても気分が良くなった黒緋だが、視線を感じて内心苛立った。
天妃の視線だ。
黒緋が人間を語る時、天妃はじっと黙って黒緋を見ている。その視線を疎ましく思うのは、咎められているように感じるからだ。
地上に関心がない天妃にとって黒緋の言動は理解できないものなのだろう。この女には分かるまい。
「奥で休む」
黒緋が歩き出すと、天妃も静かに後ろをついてくる。
後ろから視線を感じていたが黒緋は無視した。どうせ咎めたいだけの女なのだ。
「――――うっ、う……。……眠っていたのか……」
黒緋は重い瞼をゆっくり開けた。
霞む視界に映るのは見慣れた天井。
夢を見た。まだ天妃が天上にいた頃の夢だ。
かつての日々を思い出して黒緋はため息をついたが。
「鶯……」
息を飲んだ。
鶯が裸で自分にしがみついていたのだ。
その姿に状況を理解する。離寛と話していたところを式神の女官から鶯が買い物へ行ったと聞いたので、心配になって市へ行ったのだ。そこで野犬の群れが鶯を襲っているところを目撃し、咄嗟に庇って野犬に噛まれたのである。
野犬は猛毒を持っていたようで、黒緋はそのまま意識を失ったのだ。
「温めてくれていたのか……。ありがとう」
黒緋は鶯を抱きしめた。
抱きしめると優しいぬくもりに包まれて、その安心感に黒緋はまた眠ったのだった。
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