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一般向けのエッセイ

理性なき意見はいかに消失していくか

 リンカーンに次のような名言があるそうです。

 

 「少数の人を永遠に騙す事はできる。多数の人を一時的に騙す事はできる。しかし、多数の人を永遠に騙す事はできない。」

 

 これはリンカーンの素朴な民主主義信頼とでも言うべきものでしょうが、この言葉から「意見」について考えてみます。

 

 小説家になろうのエッセイで、森喜朗を叩きすぎだという意見を見ました。「寛容の精神」を持ち出し、叩きすぎは良くない、という事らしいです。

 

 それに賛同しているコメントもたくさんありました。「エッセイランキング」でも一位になっていました。

 

 今の問題はこの「ランキング」というやつですが…こんな風になっていると、一見、多数の人間が賛同しているのでそういう意見は普遍性があるように見えますが、そうではないと思います。

 

 森喜朗の発言は「女性蔑視」があり、それに対する批判が巻き起こり、批判に対する反動として、また森喜朗擁護が現れるという状況です。その擁護にあたるのが先のエッセイであると思います。

 

 それでそのエッセイというのは読んだ限り、何の内容もないという印象でした。まあよくある話です。…こんな風に書くと、「お前はリベラル・左翼だから反対するのだろう!」と党派性に持っていきたい人がほとんどだというのは、よくわかっています。しかし、先に書いた「『私的なおしゃべり』が全ての世界」では、小島慶子というアナウンサーを批判的に持ち出しています。小島慶子はどちらかと言えば、女性・リベラルに属するでしょう。

 

 私が言いたいのは一見反対に見える「男性・保守=森喜朗」も「女性・リベラル=小島慶子」も、現在においては全く同じ問題でしかないという事です。それについて言いたいわけです。(この時点でついてこられない人が沢山いるのもわかっているつもりです)

 

 答えから書いていきますと、そこには主観的な同意しかありません。森喜朗擁護の意見に内容を感じないのは、森喜朗の発言に内容を感じないのと同じです。またそれに対する賛同も私は何も感じませんでした。感じないというのはどういう事かと言えば、理性を感じないという事です。

 

 わかりやすく言えば、要するに「でも、なんだかんだ言って、森さんの気持ちもわかる!」という事です。件のエッセイに賛同している人は「よくぞ言ってくれた!」という気分だったでしょう。この爽快感はあくまでも「気分」であり、理知が作用していないというのがポイントです。自分を相対化する作用のない人が、おそらくは年配の男性でしょうが、情緒的に共感しているのだと思います。この共感の「量」が普遍性と誤認されているのが今の問題だという事です。

 

 さてこの問題をリンカーンの言葉と照らし合わせて考えてみます。

 

 リンカーンは「多数者を永遠に騙す事はできない」と言っています。これは多様性というのが時間と空間に伸びていく事により、何が正しいのか、少しずつ示されていくという風に理解できると思います。

 

 森喜朗の発言で言えば、年配の男性は「共感」できる人が多かったでしょうから、そこで賛同がある。あるいは、叩きすぎだ、森さん・森さんの家族をもっと労れというような意見だったのでしょう。しかし、世の中は年配の男性だけではなく、女性も半分くらいいますから、それだけでは普遍的な意見にはなりません。

 

 逆の事も同じで、小島慶子の意見に賛同する人達が女性・リベラル系だとすれば、これも「それ以外」の人も多数いるので、情緒的共感だけでは普遍的な意見にはならないという事です。

 

 もっと言えば、日本人が全員一致で、一つの意見を肯定したとしても、世界にはそれ以外の人達が沢山いますので、それらとの競合によって何が正しいのか、決まっていくという事です。ヘーゲルの言う通り「世界史とは一つの法廷」なのです。

 

 今は空間的な事だけ言いましたが、時間の連続性はより大切です。一つの意見の支持というものが、連続的な時間性を持つのがいかに難しいか。人々は十年前の意見を覚えているでしょうか? 今も保持しているでしょうか? …様々なものが、時間と空間によって散布された多様性によって濾過され、選ばれたものだけが精錬されていくのです。残ったものが、歴史的な古典と名著とか呼ばれるものなのです。

 

 インターネットは、一部の人の熱狂を集めただけでも、多数者の支持を集めたような見かけになります。しかし、それは空間的・時間的に短く刈り取られたものに過ぎない。ほんの一部の人間の瞬間的な狂熱を集めただけでも金になる世界ですから、みんながそれに飛びつくのですが、その結果として現れるのは断片につぐ断片に過ぎない。我々が毎日見せられているのは日々の断片。積み重ねっていく時間ではなく、断片化された自分達の生そのものなのです。我々は日々、自分を失っているのですが、それは瞬間によって常に自分が裏切られているという事です。現代において成熟というのはほとんど困難な事業なのです。

 

 さて、リンカーンの言葉「多数者を永遠に騙す事はできない」を、ヘーゲルの言葉「世界史とは一つの法廷である」と等価とみなすのが許されるのではないかと思います。世界史とは多数者が世代交代しながら運動していく事ですから、それらの競合によって価値あるものが決定されていきます。

 

 多数者は以上のように、時間と空間の中で蠢動しつつ、価値を決定していきます。現在=インターネットの問題は、時間も空間も短く切り取っているにも関わらず、それが「一つの法廷」であるかのような顔をしているという事です。この法廷の意味が、より大きな本物の法廷によって決定されていくでしょう。私はそう思います。

 

 それと、これまでで長くなりすぎたので細説できませんが、もうひとつの重要な事も簡単に書いておきます。

 

 多数者においては時間と空間を広く取る事によって価値が決定されていくと言いましたが、個人レベルにおいて、多数者の競合にあたるのは、理性による自己認識です。

 

 理性とは何か。自己認識とは何か。これ以上長々書くのもどうかと思いますので、例だけ示しておきます。

 

 ニーチェの「ツァラトゥストラ」は今は町の本屋さんでも買えますが、最初は全く売れませんでしまた。ニーチェは私家版で四十部刷って、知り合いに配布しましたが、褒める人間はゼロでした。

 

 ではこんなにも不評、無視されていた「ツァラトゥストラ」が何故、町の本屋でも買えるのか。それは具体的にニーチェの哲学の読解になるので、雑に書きますが、要するにニーチェは理性的に自己の内部を深くえぐり出していったという事です。

 

 ここで自己認識と言っているのは、自己の中の深い部分に、他なるものが含まれているという私の哲学を言っているのですが…要するに、ニーチェは自己自身の非常に深い部分まで洞察していったので、その深さが他者である我々の「振動」を生んだという事です。「共鳴」と呼んでもいい。しかしその深部における胎動は、表面においての影響は遅々たるものなので、最初は不評というのはよくある事なのです。

 

 ニーチェに関しては説明不足ですが、簡単にまとめてみましょう。

 

 ① 普遍性は多数者の時間・空間における競合によって決定されていく。インターネットは時間と空間を短く切り取っており、そこでの評価はただちに普遍性があるとは言えない。

 

 ② 多数者における価値の決定は、個人においては深部への理性的な開削である。個人は自己の内部を深く探っていく。深部への道行きが次第に広がり、表層を生きている多数者に浸透していく。多数者はだから、それぞれの競合・歴史的過程を経ながら、「天才」が辿り着いた場所へと逆に歩んでいると言える。

 

 大雑把に言うと、以上の二点になると思います。だから、現在の表面を浮動している表皮的な意見というのは忘れ去られていくだろうという事です。それが私の言いたい事です。もちろん、私の意見もより大きな世界史の法廷により価値が決定されていきます。

 

 自分の意見が今を生きている近い人々の好悪によって判断されても、そんなに意気消沈しないというのは先を目指す人にとっては普通の事かと思います。短く切り取られた時間・空間・人々をそのまま普遍性と誤認しない事。これは現代で何かをしようとする人にとって必要な心構えであるように思います。

 

 

今見たら件のエッセイが削除されていました。エッセイ自体は話のきっかけに過ぎないので、本文で言いたい事には変更はありません。

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― 新着の感想 ―
[一言] 人間の半分は「感情」で出来ているから、仕方がないと言えば仕方がない。
[一言] 「内容のないエッセイ」を書いたであろう張本人です。心当たりがあります。 森喜朗の発言に女性蔑視の意味が含まれていたと断言出来なくなったので、そのことを前提とした件のエッセイについては削除しま…
[一言]  はじめまして。その件のエッセイにて、森さん擁護の意見を書いた者です。  他人のいろいろな意見を見るのが好きなので、消されてしまったのは残念です。  感想欄、賛否両論あって良かったんですけ…
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