終章 手にしたものは
綿貫萌菜は三年生になると同時に愛知を去って、大阪に戻っていった。
彼女はその理由を人に話すことはせず、神高生の間ではいくつか理由が囁かれたのだが、どれも真実には程遠いものだった。
彼女が転校した理由を知るものはごく一部に限られる。
神宮高校山岳部一行はその少ない人間に含まれていた。萌菜先輩が俺以外のメンバーに話したというわけではない。彼女が転校して一年の間に、まず俺から雄清に話し、佐藤に話し、最後に綿貫に話した。
気分の良い話では決してなかった。雄清や佐藤は薄々感づいていたのか、俺の話を聞いてもあまり驚きはしなかった。だが、綿貫はそんなことになっていたとはつゆも知らなかったようで、聞いたときは至極つらそうな顔をした。自分のせいで従姉が高校生活の途中で転校したのだと思うと、断腸の思いがしたのだろう。
部活は今まで通り行ったが、俺は取りつかれたように勉強した。
萌菜先輩を拒絶した俺に、他にすべきことなど思いつきもしなかった。ひたすらに誠実に生き、また彼女に会う日が来た時、失望されることの無いようにしたかったのだと思う。
日々の勉強に忙殺された俺の残りの高校生活は、あっという間に過ぎていった。
二年から三年の二年間でいろいろなことがあった。
隆一さんは、大学院で博士号を取り、臨床の傍ら、HIVの研究を進めて、微生物研究でも有名な研究所のメンバーに加えられるようになった。
大海原病院は、より多くの患者を救うために、国内の医療サービスの充実はもちろんの事、海外にも進出をはじめ、質の高い日本の医療を、世界に広める事業を始めた。
そして萌菜先輩は、関西の国立大の医学部に進学し、医者になるための勉強を始めている。
俺はというと、先刻入試の結果を受け取ったばかりである。
すでに高校を卒業し、現在の身分は無職だ。職質を受けたら、無職です、というしかないのだろう。
そんなことを考えつつ、駅のホームから岐阜行きの電車に乗り込んだ。
電車に乗って、約束していたように一番後ろの車両に向かったら、綿貫が座っていた。
こちらに気が付いた彼女は、嬉しそうに手を振る。
電車の中なので、話すことは控えて、終点の大垣まで着くのを待った。
大垣からは、ローカル線に乗り換えて、池田山の麓の駅まで向かう。
二年前に部活で登りに来た山だ。桜が開花していて、霞ヶ渓はその名の通り、まさしく霞のようになっている。
そんな桜のトンネルをくぐりながら、濃尾平野を一望できるところまできた。
そこで口を開いて、
「まだ言っていなかったが、合格おめでとう。旧帝の法学部なんてやるじゃないか」
「ありがとうございます。でも深山さんもちゃんと合格したんですから、すごいですよ。おめでとうございます」
「こうもとんとん拍子に行くと、逆に不安になるよな」
「そうですか? この二年間、深山さん全く私に構ってくれなかったじゃないですか」
そういって、綿貫は頬を膨らませて見せるが、目元が笑っているので、怒っていないことはよくわかる。
「雄清たちもよろしくやっているようだし、山岳部は優秀だな」
「そうですね。……留奈さんと山本さんがご結婚なさる際は、私はどちらの友人として招待されるのでしょうか?」
「お前も気が早いな。多分、共通の友人、みたいな感じで呼ばれるんだろうよ」
「そうですね。多分萌菜さんも……」
俺はその時、顔を引きつらせてしまったのかもしれない。綿貫は俺の顔を見て、はっとしたようになる。
「すみません」
「いや、いいんだよ。先輩も俺たちの友達なんだから」
俺がこういうことを言うべきではないとは思うが、彼女は素敵な人に巡り合えたのだろうか? そうでなくとも充実した生活を送れているだろうか。元気にしているだろうか。
二年前に分かれたきり、俺は萌菜先輩に会ってはいない。雄清と綿貫は、会う機会があったそうで、その時の印象では、俺たちが高一だった時の彼女と変わりはなかったそうだが。
彼女の事を俺が心配するのは、酷か。多分萌菜先輩は言うだろう。さやかが好きなら、私に優しくなんてしないで、と。彼女を拒絶したのなら、徹底的に距離を置き、嫌われる覚悟を俺はしなければならない。
人にどう見られようと関係ない、そう豪語していたはずなのに、結局のところ、俺は周りの人間にどう思われるのかばかり気にしていたのだ。
「……お前がいるのに、ごちゃごちゃと萌菜先輩の事を考えるのは、失礼だよな」
「……正直に言いますと、ちょっと妬いてしまいますが、でも深山さんが萌菜さんのことを心配してくれるのは嬉しいです。私は萌菜さんのことは好きです。友達である前に、恋敵である前に、彼女は私の家族ですから。深山さんもそうなったらちゃんと……」
「それって……」
「すっすみません。口走りました」
そういって、綿貫は顔を赤くしている。……口走ると言われるのもなんだか複雑。
綿貫が結婚の話を持ち出したせいで、俺もそれを意識せざるを得なかった。
法律的には既に双方、婚約可能な年齢ではある。だがいざ自分の身に置き換えてみれば、それはまだどうにも身近なものとして考えることは難しい。
この先何が起こるなんてわからないのだし、当分の身分は学生なのだから、結婚について考えるのは早すぎる気もする。けれども、今言えることはある。
「なあ綿貫」
「なんですか?」
「俺は順当にいけば、六年後には医者になる。その間は勉強で忙しいだろうし、大学を卒業した後も、なかなかプライベートに時間を割くことは難しいと思う。でも、俺が医者になることができて、未熟であっても、自分の技術で人の命を救えるような人間になったのなら、俺と付き合ってくれ」
それを聞いた綿貫は、微笑を浮かべながらも、幾分か真面目な顔をした。
「私の気持ちは、二年と半年前に、あなたに告白した時からずっと変わっていませんよ。六年待つくらいどうってことないです。なんでしたら、十一年だって待ちますよ」
「それはさすがに嫌だな。十一年つったら、フルに留年してるじゃないか。卒業するのが二十九だぜ」
「それでも、私は待ってます。深山さんなら立派なお医者様になれると思います。そうなった時に、私にそばにいて欲しいというのなら、そんな幸福はありませんよ」
それだけ言った綿貫は、恥ずかしくなったのか、顔を赤くして、辺りの桜を見た。
「綺麗ですね」
そういう綿貫の耳は桜色である。
「お前のほうが綺麗だよ」
そういったところ、綿貫は笑いだしてしまった。
「なんだよ」
「だって、深山さん、三年前だったら、そんなことを言う人がいたら、ぶつぶつ文句言ってたじゃないですか」
「……そうかもな」
ひとしきり笑った綿貫は、再び俺の方を向き直った。
「私、深山さんに大事なことを言わないといけないと思うんです」
大事なこと? まだ言ってなかったことなどあっただろうか。俺は彼女の眼をじっと見て考える。
……ああ、そうだな。
「奇遇だな。俺もお前に言わなきゃいけないことがある」
「そうですか。……えっと、先に言ってもらえますか?」
「いや、お前が先に言えよ」
「でしたら、同時に」
「……そうだな。それがいい」
「綿貫」
「深山さん」
せーの、と声をかけたわけでもない。カウントダウンをしたわけでもない。でも俺たちは同時に、同じ言葉を、同じ思いを口にした。
「愛してる」
「愛してます」
綿貫はフッと笑った。俺も微笑を浮かべていたと思う。
俺の顔を彼女の顔に近づけて、唇を重ねた。
俺が愛した女の唇は、甘くて、温かく、懐かしくて、そして、
幸福な味がした。
おわり
ここまで420,000文字。読み終えた人はお疲れ様です。
「悠々自適な高校生活を送ろうと思ったのに美少女がそれを許してくれないんだが」いかがでしたか。楽しんでいただけたのなら幸いです。評価、感想大歓迎です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




