これだから嫌なんだ
俺はこの一年で、知るべきではないことを知りすぎた気がする。
嫉妬。恨み。悲しみ。憎悪。怒り。虚栄。
人の心が何を思って、不合理な行動に移ろうとするかなど、知って良いことなどほとんどない。
心をえぐられ。自分の恥をさらけ出し、不正と、偽りに満ちた、人間の性が露出する。
誰かの心に触れようとしたら、火傷してしまう。傷つきたくないのなら、誰の傍にも寄るべきではない。
だが、その結果得られるのは、無だ。
火傷はしないが、心が温まることもない。
誰かを刺すのなら、自分も刺される覚悟をしなければならない。
だが俺にはその覚悟が、一度たりともできなかったのだろう。
おまけに、俺は、誰かを非難できるほど自分が立派な人間だとは思っていない。
だから、そんな場面に立たされると猛烈に、逃げたくなる。
こういうのはやめにする。
誰かが隠したかった事実を露呈させて、周りの人間の注目を浴びるなどという、阿漕なまねはこれきりだ。そんなことは、ほかの奴らに任せておけばいい。
*
翌日、放課後になって、執行室の方に行って、少し離れたところから、執行室に出入りする人間を観察していた。
目当ての人物が歩いてくるのが見えた。
俺は早足で、その人物に追いついた。
「ちょっといいか?」
その女子生徒は、俺のことを見ると、明らかに嫌そうな顔をした。
「なんですか、話って」
俺はその生徒を連れて、人気のない、中庭に来ていた。
「昨日、風紀委員長が、萌菜先輩のところに相談に来たのは知っているだろ」
「それが何か」
一呼吸おいてから、声にする。
「罪悪感はなかったのか?」
彼女は小さくため息をついた。
「……本当、君は何でもお見通しなんだね」
「気づいちゃったもんは仕方ない。それに、濡れ衣で、人間関係が壊れるというのもかわいそうだしな。……君は自分が一番可哀想だと思っているのかもしれないが」
「どうしてわかったの? まさか、私が雄清君のことで、悪さをしてたからなんて言わないでよね」
目の前にいる女子は、学校祭開催のしばらく前に、雄清を実験棟に監禁していた、執行委員にして、物理化学部員の斉藤薫である。
そして、この事件の真犯人。
「まず第一に、D組のクラスに侵入して、依田の鞄の中に、体操服を忍び込ませられるようなことができるのは、D組の組員以外ありえない。そして、人の出入りの激しい朝の時間の女子更衣室から、誰かの体操服を盗んでくるなんて芸当、男子にはとてもじゃないが無理だな」
「D組の女子なんて、他にも大勢いるじゃない」
「そうだな。でも君は、昨日の朝、更衣室にいたろ。運動部員でもない君が、何をしていたんだ」
白衣を鞄に入れた、物化部員斉藤は、きょろきょろきょろきょろ、更衣室の前で、見るからに怪しそうな動きをしていた。
「……探し物してたって言ったら?」
想定された返答が返ってくる。
「まあ、それは割とどうでもいいんだ。犯人は、朝練の時間中に市場望の鞄から、彼女の体操服を盗み出し、依田登の鞄に忍び込ませた」
「だからなんなの?」
「考えたんだよ。なんで依田登は、犯人を怒らせてしまったのか。なんで市場望の体操服なのか。犯人が女子で、彼と彼女をターゲットにしたということは、彼らの仲を引き裂こうとした、と考えるのが妥当だ。そうすると、犯人は依田との間で、何やら諍いがあったのではないか。諍い。色事。痴話」
「何が言いたいのよ?」
一息ついて、
「チョコレートで人殴るようなことをするのは、さすがにいかんと俺は思うがな」
「見てたの? 最低!」
確かに俺は最低なのかもしれない。こんなことをしている自分に反吐が出る。俺は何を偉そうにこんなことをしているのだろうか。
「……決定打は、犯人が、一昨日買い換えたばかりの、市場望のエナメルバッグがどれか、昨日の朝の時点で知っていたという点だ。……斉藤薫さんよ、あんた、一緒に買い物行ってたそうじゃないか」
斉藤は俺のこと睨む。
「私、あなたが嫌い。何でも知ったような口をきいて、人の気持ちなんて考えたことがないんでしょう」
「かもな。人の気持ちなんて、どうせ誰にもわからんのだから、考えるだけ無駄だろう。俺には、嫉妬して、誰かを傷つけるようとする奴の気持ちなんて一生分からんだろうな」
好きなやつを傷つけ、友達を傷つけ、それで一体何が得られるというのだろうか。
「うるさい」
「そんなことやって、なんになる。それで、依田がお前のことを振り向くとでも思ったのか? 化学オリンピックで、いい賞が取れるくらい頭のいいあんたが、何でそんな簡単なこともわからないんだ」
頬を叩かれた。
鉄の味がした。
「……俺を殴って気の済むなら、いくらでも殴れ」
……まったく、何が探偵役だよ。とんだ貧乏くじだ。こんなんの一体何が楽しいのだというのだ。
もう一発思いっきり、張り手を食らった。いってえな、おい。こいつ、土俵立った方がいいんじゃないか。
殴られたまま、彼女の方を見やって、
「あんた。からっぽだよ。……まあ、別に恋に恋しようが、あんたの勝手だ。だが、誰かの迷惑になるようなことは今後一切やめろ」
「あなたみたいな人が、一番大嫌い。二度と私の前に姿を見せないで」
斉藤薫はそう言い放ち、走り去って行った。
血の混じった唾を、木の植え込みのところに吐き出す。その時になって、ようやく、佐藤が俺のことを殴るときは、俺がけがをしないように配慮していたのだということに気が付いた。
俺は自分で考えていた以上に、周りの奴に、気を遣わせていたみたいだな。
一人で生きられると思っていたのに。
殴られると、意外に体力を使うようである。息が上がった俺は、その場に座り込むようになった。
今回のことを思い返す。
斉藤薫は、バレンタインデー当日、依田登に告白をした。だが、市場に密かに思いを寄せていた、依田は彼女を拒絶した。馬鹿正直に、市場望のことが好きだと、斉藤に言ったのだろう。
斉藤薫は逆上、依田にチョコレートチョップをお見舞いする。
テスト週間を挟んだが、嫉妬に駆られた、斉藤は、自分を拒絶し、恥をかかせた依田に復讐することを思いつく。そして、彼女の振られる原因となった、市場望への八つ当たりをする。友人であるからこそ、憎しみが募ったのだろうか。
執行委員だったために、朝練中、市場が卒業式の準備で抜けだしていることを知っていた彼女は、更衣室に忍び込み、買ったばかりの鞄の中から、市場望の体操服を盗み出す。
教室に入って、時期を見計らって、依田登の鞄に市場望の体操服を忍び込ませた。
以上が事件の全容だ。
これほどまでに後味の悪かった事件にかかわったのは初めてだ。
俺は渡り廊下に戻り、荷物を置いてある、部室の方へと向かっていった。
歩き出したところで、物陰に隠れていたのか、ぬっと依田が顔を見せた。
「……すまない。深山君。俺が代わりに殴られるべきだったのに」
「気にするな。これも依頼のうちだよ。俺達も女傑には頭が上がらんのだよ」
他人のプライバシーにずかずかと入っていくのなら、口の中を切るくらいは我慢しなくてはならない。
それに、これで、萌菜先輩を不愉快にさせた罰としては十分だろう。俺なりのけじめはつけられたと思う。
「なんで、あいつを庇おうとした。お前、誰がやったのか大体見当ついてただろ」
依田登が市場望に好意を寄せていた、という事実を知っていた人物を、疑わない方がおかしい。おまけに依田には、逆恨みされる心当たりもあったろうから。
「……自分を好いてくれる子に、悪い感情はなかなか抱けないよ」
「だったら、付き合ってやればよかったんじゃないか」
「いっただろ。俺は誠実に生きてきたつもりだ。今更それを変えるつもりはないさ」
「……なんで、斉藤はあんたに惚れたんだ」
「学校祭の前、彼女ある男子にアプローチしてたらしいんだけど、相手にされなくてね。しょげていたんだ。俺は別に下心があったわけじゃない。だけど、泣いている女の子がいたら、手を差し伸べてやるのには十分な理由だろう」
うちの子がほんとにすみません。
「……それが災いの種だろうが」
「かもね。でも、俺は苦しんでいる人をまたいでいけるほど、冷酷にはなれないよ。……君もそうじゃないか。見ず知らずの俺のために、そんなボロボロになって」
「いったろ。お偉い執行委員長様に貸しを作るとこうなっちまうんだよ」
「……君もお人好しだな」
「俺もそう思う」
そういって、二人で笑った。
「あの……」
依田が俺にためらいがちに切り出す。
「なんだ」
俺は先を促した。
「俺と友達にならないか」
その意外な提案に俺は目を丸くした。それから、ふっと笑って、
「知らんのか。俺は癖が強いぜ」
「なんとなく気づいてるよ。それに君とは、秘密を共有した仲だ」
そういって、にっと笑った依田は手を差し出してきた。
俺も、手を出して、握手をした。
「改めて、依田登だ。これからよろしく」
「深山太郎だ」
依田と別れてから、歩いて校舎に入ったところで、
「君は女の子にも容赦しないんだな」
萌菜先輩に呼び止められる。
「……聞いてたんすか」
「いやだな。あんな大きな声で言い合いをしてれば、聞こうとしなくても聞こえてきてしまうよ」
「まじですか? 俺気を使って、一目のつかない所に行ったんですが」
盗み聞きというのは、いくらなんでも感心しないな。すでに秘密がばれてしまったことが、依田氏に大変申し訳ない。
「嘘よ。本当は執行室の前で、女の子を口説いて、連れ出した男がいるという情報を受けて、中庭で君の姿を目にしたから、集音機を使って話を聞いていたんだ」
……思った以上に、たちが悪かった。
「あんなに非難するなんて君らしくないね。君はどちらかというと、我関せず、が信条ではないの?」
「……彼女今回で二回目でしたからね。放っておいて、おんなじようなことやられて、また先輩に召集を掛けられたんじゃ、たまったもんじゃないですから」
「……一回目は可愛かったんだけどね」
「知ってたんですね」
ロープ縛りが可愛かったとは思わんが。
「そりゃ可愛い後輩のことは、何でも把握しておきたいじゃない」
「……どうするんですか? 退会とか?」
「うーん。さすがに今回のことは庇いきれないな。風紀委員に相談を受けていたのだけれど、犯人が執行部の身内でした、というのはどうもね」
「あんまり、荒波立ててほしくないんですが」
「大きな声で非難していた割には、優しいんだね」
「……結局のところ、罪なき人間はこの世にいなくて、誰も誰かを裁くなんてできませんから」
「人を裁くのは人ではなく、法と社会か」
「……これで、この前のことはチャラにしてくださいよ」
「何が?」
「マント事件のときの」
「君も根に持つなあ。だから、私怒ってないってば。……本当に怒ってはない。大概にしないと嫌われるわよ」
「俺のけじめですから。……そんで、もう今後は、山岳部にトラブルを持ち込まないでください」
俺はそういって、頭を下げた。
「もう誰かを、傷つけてまで、何かを知りたくはないんです。お願いです」
「……そっか。うん、わかった。私も君に甘えすぎていたのかもしれない。これからは君には頼らないよ。……今度の買い物は行けるんだよね」
「それは大丈夫です。約束ですから」
「じゃあ、楽しみにしてるよ」
「はい。お疲れ様です」
*
結局萌菜先輩は、真実をリークしなかった。柄井と市場には、とりあえず、依田が犯人ではなかった、ということだけを伝えた。もともと彼を疑っていなかった彼らは、俺のあいまいな説明を追及することはしなかった。
薫は市場ともとの関係を保つことはできないだろう。
だが、それでいいのだ。
嘘偽りに固められた交際に何の意味もない。
痴情のもつれで、裂かれる友情など、青春時代においては珍しくない。つるむ連中など他にもたくさんいるのだから、問題が生じれば切り捨てればいい。
今も昔も、それが、青春を謳歌する高校生たちの処世術なのだから。




