海亀の卵は美味いのだろうか
名古屋人、あるいは尾張の人間に、名古屋で遊ぶならどこがおすすめか、聞いたとする。おそらく、彼、彼女は、一瞬困ったような顔をして、「大須とか、東山動物園とか……」といった、申し訳ないような感じで言うだろう。
中京と言われる、ここ名古屋は、悲しくなるほど観光地と呼ばれるものが乏しい。流石に、中部で一番と思われる、大須の商店街は、賑わいを見せているが、東京や大阪の人間が、長い距離を移動してまで、見に来るほどかというと、微妙だと言わざるを得ない。動物園もまた然り。
そんな名古屋で、数少ない貴重な観光地の一つとして、名古屋港水族館は外せないだろう。国内最大級の大きさを誇り、アカウミガメの卵の屋内孵化に、日本で初めて成功したことでも有名だ。
巨大な水槽を、種々の海洋生物が泳ぐ姿は、目を見張る物がある。ロマンティックなムードを演出するには最高だろう。おそらく、尾張のカップルならば、一度くらいは、名古屋港水族館に来るのではないだろうか。
……忌々しい。
そんな事を思いながら、
「超綺麗くない? まじやばい」
「いやまじお前のほうが綺麗だって」
「もう、龍くん超やばい!」
とバカ丸出しの会話をしている、バカップルを、睥睨していた。なんだよ綺麗苦無って。やばいのはあんたの日本語である。この似非くのいちが。
どうも最近の日本人は、とかく苦無が好きらしい。
好き苦無。食べる苦無。飲む苦無。
バカップルのファンシーな会話は続く。
「これあれじゃね。ディズニーの映画に出てたやつ」
「えっ、違くない? 目がもっと大きかったもぉん」
……
違苦無、は多分誤変換。血が苦無。痛そう。
このように、会話に苦無が飛び交うから、未だに日本には忍者がいると、信じる外国人が出てくるのだ。……多分違う。
「ねえ、深山」
「なんだよ」
「人のこと見ないの」
佐藤に叱られた。
十二月二十四日。およそ二千年前の今日の夜、イエス・キリストが誕生したとされる。どういう経緯があったのか知らないが、異国の宗教の、預言者の誕生日は、ここ現代日本に於いて、恋人と過ごす日となってしまっている。
そんな日に、神宮高校山岳部一行は、名古屋港水族館に来ていた。
ふと目をやると、また別のカップルが、水槽の前でいちゃついていた。
俺は雄清と、
「なあ雄清」
「なんだい太郎」
「水族館で、デートしている最中の男は、その晩どうやって、彼女をベッドに連れ込もうか、ということしか考えてないという話があるんだが」
「それは初耳だね」
とそいつらに聞こえる声量で会話をする。
するとカップルの男が、
「きっ、綺麗だね」
「そうね」
と俺達のことは気づかない風を装うので、
「雄清知っているか。水族館の水槽の水は、魚たちが糞尿を垂れ流しにしているから、浄水装置がなければすぐに、糞まみれになるんだぞ」
「……向こう行こっか」
そう言ってカップルは去ってしまった。
「勝った」
俺が小さくガッツポーズをしていたら、頭に衝撃が走った。
「ってえな。何すんだよ」
後ろを振り返ると佐藤がいた。俺の頭を叩いたらしい。
「あんた馬鹿なの?」
「公衆の面前でいちゃつくやつが悪い。公然猥褻だろうが」
「仕方ないでしょ。今日はクリスマスイブなんだから」
「まだ夜じゃないから、イブというのは正確じゃない。そもそも絶対あいつらキリスト教徒じゃない」
真のキリスト教徒ならば、こんなところで呑気にデートなんぞしているわけがないのだ。
「いちいちうるさいわね。そんなんだから彼女もできないのよ」
馬鹿め。俺は綿貫と未来永劫、輪廻転生を経て添い遂げる約束をしている(予定)。
「もう深山さん」
始終見ていた綿貫が、俺に声を掛ける。
「はい、なんでしょう」
「他の人に意地悪してはいけませんよ」
「承知した。もうやらない」
「なんでこっちゃんの言うことはすぐに聞くし」云々、佐藤は文句を垂れていたが、相手にするべくもない。
公然猥褻をしているカップルが散見されるのを除けば、水族館の観覧というものは至極楽しい。
普段はアホの子をしている佐藤でさえも、やはり名門校の生徒だ。水族館や、博物館、科学館という類は、小さい頃に親しんだものなのだろう。興味深げに館内を見ている。
確かに、座学で学んだものの、実物を見て触れるというのは、ずいぶんと刺激的なものだ。教科書や、図説で纏められてある通りのことが確認できると、小さくはない感動を得られる。
しかして、全く以て謎なのだが、水族館というのは、まさに動く図鑑、学問の聖地ですらあるように思えるのに、どうして、頭がファンシーな連中はここをデートスポットに選ぶのだろうか。
はっきり言って目障りだ。
百歩譲って、クリスマスにデートするのは構わない。それは俺の知ったことではない。だが、なんとなく定番! みたいな感じで水族館のような場所に来ないでほしい。いや、来るのは良い。だが、いちゃつくなよ、馬鹿どもが。
……いけない。落ち着け俺。
気を静めるために、深呼吸をして。先に進んでいた三人の方へと早歩きで近づいていった。君子というものは、小さなことにとらわれてはいけない。
さすがに午前から、歩き続けて、みんな疲れたらしい。ちょうどお昼時だったので、水族館に併設されているレストランで、休憩することにした。
注文をしてから、午前中に見た展示について話をした。
「何が一番、良かった?」
佐藤が尋ねる。
「僕はシュモクザメかな」
英語で言うと、ハンマーヘッドシャークと言われるサメの一種だ。頭部が金槌のようにT字をしている、個性的な魚である。
「私はペンギンですかね。皇帝ペンギンと言うのは、イメージしていたのよりずいぶんと大きかったです。いろんな種類がいましたが、全部かわいかったです」
とペンギンより可愛い綿貫が言った。
「そうね、……私はシャチかな」
ペンギンの後にシャチを選択するとは。なかなか惨い事をする。
「なによ深山」
文句あんの? と言いたげな目で佐藤は俺を見てきた。
「……シャチってペンギンの天敵だろう」
「そうなの?」
「シャチは海の王だからね。もしかしたらサメよりよほど怖いかも。頭もいいだろうし」
と雄清が答えた。
「ところでシャチって食ったら美味いのかな」
「……あんたまたそういうこと言う」
「別にいいじゃないか。単純な興味だ。シャチってクジラの仲間だろう。……食えそう」
佐藤はだっはー、と溜息をついた。
シャチは繁殖が至極難しいらしい。
そもそも日本では、シャチの展示はここ、名古屋港水族館と、関東の鴨川シーワールドでしか行われていない。
捕鯨が全世界的に非難される昨今、シャチが食卓に供されることは、おそらく今後百年間は無いだろうな。
国際社会の意見では、捕鯨をする日本人は、野蛮人に等しいらしい。
海洋の哺乳類を食うことが、悪い事なのかどうかは置いといて、国際捕鯨委員会からの脱退を決意した、お上の判断は正しいのかと言われると、どうも子供が駄々をこねているようにしか見えない。
それ以前に、シャチを食おうだなんて言ったら、動物権利団体やらが騒ぎ出すに違いないが。
動物権利論者の論理は、さっぱり理解できぬ。彼らは自分たちの使う医薬品や、化粧品がどういう過程を経て、手元にあるのかを理解しているのだろうか。
中には、自分の好みの動物だけを保護しようとする、似非環境戦士も混じっていたりする。
好きなものを好きと公言するのは構わないが、訳の分からん論理を振りかざして、自分の思想を人に押し付けようとしないで欲しい。
一度聞いてみたいのだが、犬猫と家畜の違い、あるいはマウス等の実験動物との違い、人の嫌う、ゴキブリなどの生物との違いを、彼らはどう論理立てて、説明するのだろう?
感情でものをいう連中に、論理を当てはめようとすること自体、無駄なのかもしれないが。
もちろん、だからといって、生命をぞんざいに扱ってよい、だなんて思ってはいない。
愛玩動物であろうと、実験動物であろうと、家畜であろうと、すべての生き物の命に、敬意を払うことは、理性的な人間として当然のことだ。
だからこそ、何もかも主観で決めて、特定の動物だけを保護するような奴らは、低俗の輩である。彼らは人間の生活が、無数の生命に支えられて成り立っているということを、よく理解すべきなのだ。
思うに、真の博愛主義者でない限り、動物権利論者など、自分の都合の良い事しか考えない、偽善者でしかない。あるいは、独善者か。
その点、俺の愛する綿貫は、動物でも人間でもなく、天使である。つまり、唯一無二の存在。
畢竟、論理的にも倫理的にも俺は正しい。……誰にも文句は言わせまい。
閑話休題。
さて、昼休憩もそこそこ、俺たちは、午後一番に開かれる、イルカショーの会場へと向かった。
屋外の会場に向かう途中で、雄清のスマートフォンが鳴った。「ごめん」と言って電話に出る。
誰からか知らないが、「はあ」とか、「はい」だとか適当に相槌を打っては、俺の方をチラチラと見てくる。なぜかは知らん。
最後に、「善処しますが、うまくいくかわかりませんよ」と言って電話を切った。
「誰からだ?」
まるでビジネスマンの応対の仕方だ。
「いやちょっとね」
しゃべる気はないらしい。別に構わんが。
冬も本番、おそらくは夏ほどには屋外展示は混んでいないのだろうが、それでもイルカショーの会場にはかなりの人だかりがあった。
流石に、この寒空のもと、イルカに水をかけられる勇気はなかったので、席は会場の上の方をとった。
イルカの身体能力の高さには目をみはる。どういう動きで、水中から数メートルもの高さの、ジャンプができるのだろう。全く不思議だ。
イルカの尻びれで叩かれたら、人の骨なんぞ、簡単に砕かれるに違いない。
*
さて、日が沈み、宵も近づく頃、俺達は水族館を後にした。
地下鉄の駅で、俺が用を足しに行って戻ったところ、雄清と佐藤が、いなくなっていた。
「二人は?」
「何だが野暮用があるそうで」
残っていた綿貫はそういった。
……あいつら、余計な気回しやがって。単にあいつらの方が、二人きりになりたかった、ということもあるかもしれないが。……いい加減くっつけばいいのに。




