「妹」に幻想を抱くのは止めた方がいい
夏帆ちゃんに出会うのは、春以来の事である。聞くと、夏帆ちゃんの通っている、学校が冬休みに入って、今日大阪から戻ってきたらしい。両親には話したと言うが、俺は知らされていなかった。……なんでだよ。
「夏帆ちゃんは理系と文系、どっちに進むんだ?」
「文系だけど」
「何かやりたいことでもあるのか?」
「私、霞が関に行くことにしたから」
「そうなのか。官僚はいろいろ大変だと聞くが」
「どんな仕事も大変でしょう。外務省に入って、世界を股にかける仕事がしたいの。ゆくゆくは、皇族と結婚するのがゴールなの」
それは、あれですね、雅子様ですね。
俺の家は、由緒正しい家というわけではない。父方の実家は、長野の真田町に暮らしていた、庄屋だったとは聞いているが、豪農と、皇室ではまさに月とすっぽんだ。相手にされるべくもない。
我が妹ながら、夢を見すぎな感は否めないな。
俺の考えとしては、夏帆ちゃんは、どこぞの石油王に見初められて、シンデレラストーリーを歩むというのが、妥当である。俺は、シンデレラの兄として、テレビ取材を受けるのだろう。何を言おうかしら。
……
「お兄ちゃんは?」
馬鹿な妄想に浸っていたところ、夏帆ちゃんが俺に尋ねてくる。
「何がだ?」
「文理選択よ。今年中には決めるんじゃないの?」
「俺は理系だな」
「えっ、意外。お兄ちゃん本好きなのに」
「別に本が好きだからと言って、文系に進むということはないだろう。読書なんて、所詮娯楽でしかないのだから」
「ふーん。何かやりたいことでもあるの?」
「俺はドクトルになることにしたのだよ」
「あっそう」
夏帆ちゃんはそういって、キッチンのほうに行き、冷蔵庫を開いた。
……反応薄いな。
年子で、年長者であるということは、ある意味悲劇である。なんでも優先されるのは、弟、妹であり、兄は、大抵ほっとかれる。妹がゼロ歳の時、兄である俺は、一歳であったというのに、親はまったく、夏帆ちゃんのことばかり気にかけていたはずだ。だって、今でさえそうなんだから。
自然、構ってもらえない、年長者は、手のかからないような良い子に育つ。
妹がぐずっている横で、一歳しか変わらない俺が、それをあやしているのだ。人の迷惑のかからないように、躾けられた長兄は、あらゆる社会において、陰をひそめるようになる。
まず、保育園においては、ほかの園児のおもちゃを、譲ってもらうようなことは絶対にしないし、貸せと言われれば、直ぐに貸してしまう。鬼ごっこで、最初に鬼をやるのは、大抵俺で、小学生の時、ドッヂボールで、窓ガラスを割ったときに叱られるのも俺一人。終いには、あんたがいると空気悪くなるから、という雰囲気を察して、始終一人でいるようにまでなった。
この潜伏スキルは、一朝一夕で身につくものではない。一歳のころから、妹と一緒に育ったことで、身に着けた、俺の処世術であるわけだ。……全然悲しくなんてないから。……泣いてなんてないから。……ぐすん。
その晩は、家族そろっての夕飯となり、久しぶりに夏帆ちゃんが帰ってきたからか、大変に豪勢であった。……俺の高校入学の時は、こんなのなかったのにな。そうか、あの時、夏帆ちゃんいなかったもんね!
腹が膨れて、風呂待ちの間、柄にもなく、テレビをつけて、ソファに沈んで見ていた。夏帆ちゃんは風呂が長い。何をそんなに洗うのだろうかと思うほどに。女子というものは大抵そうなのだろうか。今度、佐藤あたりに聞いてみよう。……多分殴られる。
真っ裸の夏帆ちゃんが、ボーッとテレビを見ていた俺の前にたつ。……。
夏帆ちゃんの体つきは、しばらく見ぬ間に、ずいぶんと女らしいものになっていた。膨らむところは膨らみ、絞まるべきところは絞まっている。風呂上がりで上気した艶やかな肌が、部屋の照明で照っている。さすがは遺伝子共有体。深山家のDNAは優秀である。俺と夏帆ちゃんの遺伝子を掛け合わせれば、すんばらしいものが、出来上がるに違いない。……他意はない。
不思議なもので、妹の裸と言うものは、それがどんなに、理想に近くても、実の兄に、欲情を起こさせるものではないらしい。
目の前にぶら下がる物体を、単なる脂肪の塊としか認識しない。下の方も大人っぽくなっているが、感想としてはそれだけである。……やっぱり女の子も、モジャッとするんだよなあ。夏帆ちゃんはいくらか手入れをしているようだが。……なんでハート型?
「どうした夏帆ちゃん? テレビが見えないんだが」
「えー、お兄ちゃんそれだけ? 大阪にいっている間に、セクシーになった私の体を見て、なにも思わないわけ?」
全く以て。
「俺は妹の体に欲情するほど、供給不足じゃないんだ。むしろ供給過多すらある」
妹に欲情するというのは、腹がすいたからと言って人肉を食らうようなものだ。俺はそんな倫理に悖る行為は断じてしない。
「えっ。あの情けなくてひたすらクズなお兄ちゃんに彼女ができたの?」
お? 言葉攻めか? 知らぬ間にいい女に育っているではないか。少しゾクゾクしちゃったぜ。
「馬鹿たれ。このユビキタス社会をなめちゃいかんよ」
あっ。といって、夏帆ちゃんは納得したような顔をする。
「……妹にそういうこと告白するのもどうかと思うんだけれど」
真っ裸で、兄を誘惑しようとするやつに言われる筋合いはない。
「早く服着ろ。風邪ひくぞ」
「はーい」
そういってパタパタと、夏帆ちゃんは駆けていった。
多分あれだな、発動条件には、恥じらいだとか、そんなものがいるのだ。あれには羞恥心というものを教えてやらないといけない。女子校に通うとああいう風になってしまうのか。色気がないから、せっかくのナイスバディーが台無しだ。
他の男にとられないという点では、非常に良い。
中学生が冬休みに入っているのだから、高校生であるところの俺もそろそろ休ませてほしいのだが、進学校を名乗る手前、冬「休み」に、授業があるのは、もはやお約束である。終業式とは、虚しいだけだ。文字通り形式的にすぎない。やる意味あるのかよ。
夏休み前と違って、熱中症でぶっ倒れる奴がいなかったのが、せめてもの救いか。
冬期補習という名の、全員参加の授業を終え、俺は部室にいた。
そこにあるだけの、ストーブと灯油タンクは、空っぽで本来の役割を果たさず、物置と化している。雄清が執行委員の特権とやらで、灯油を少し位融通してもらったりとか、なんだかんだで、俺達のことを良いように使っている萌菜先輩が、せめてものお礼に、執行室の灯油を横流しでもしてくれればいいのに、山岳部の部室は、破局前の高校生ぐらいに冷えている。……それはそれで良い。見ていて楽しい。
……俺は下衆か。
太平洋側、太陽の煌めく、冬の尾張平野と言っても、温かいわけではない。伊吹山でキンキンに冷やされた、伊吹おろしは、これでもか、というくらいに、尾張平野に吹き付け、体感温度を二度も三度も下げてしまう。そのうえ、乾燥で唇はひび割れるのだから、踏んだり蹴ったりだ。
自然、寒さに震える、深山太郎は部室の中でもコートとマフラーに、身を埋めることになる。
そんな折、ガラリと戸が開いた。
「深山さんこんにちは」
マイエンジェル、綿貫さやかだ。陰鬱な気持ちは、どこかへと消え去り、オー・ソレ・ミオさえ聞こえるようである。イタリア人はやたら女の人を天使呼ばわりするが、まさしく綿貫は天使である。
「よお、綿貫。新婚旅行はイタリアがおすすめだぞ」
キョトンと綿貫は首を傾げたが、すぐに、
「そうですね、イタリアは史跡もたくさんあるし、素敵だと思います」
と答えた。突飛な言葉にも、普通に返してしまうあたり、俺と綿貫は、前世からの因縁があるに違いない。……単に、綿貫の対応力と、包容力の高さによるものだとは、都合よく考えない俺である。
「えっと、イタリア旅行はいいんですけど、とりあえずは、明日の水族館のことについて」
ああ、そうだった。忘れていた。
「天皇万歳! ……あれ、なんで俺今日学校来てんだ。県立高校の教員って公務員じゃないのか!?」
ブラックな、教育界の実態を悲嘆する、俺の横で、綿貫は小動物みたいな反応を見せている。これはこれで良い。……かわいい。
「深山さん。急に叫ばないでくださいよ。……びっくりしました」
「……すまん」
素で叱られてしまった。
明日は、忌々しい、十二月二十四日。全国津々浦々のバカップルどもが浮かれに浮かれる日である。本日は、そんな厄日の前日にして、日本国と日本国民統合の象徴であるところの、天皇陛下の御誕生日だ。全国のバカップルどもに告ぐ。キスの仕方とか、さりげないラブシーンへの持っていき方なぞ、ネットで調べる前に、日本国憲法第一条をよく読んで、十二月のカレンダーを注視するがよい。
日本国民が本当に祝うべきは、今日この日である。というか、明日になっても、明後日になっても、大預言者様のことを気にする奴なんて、いるか怪しいけどね! 馬鹿どもが。お前ら何人だよ。日本人辞めたいんか? その内、復活祭に託けて、卵を産む日が追加される気がするよ。
収穫祭と名のつくものの、実質子供向けのイベントであるはずの、ハロウィーンで、トラックを横転させるような大人がいる国だ。もはや何でもありだ。
阿諛迎合を得意とする我が国の国民性を儚む男がいた。そして、綿貫と話すその時まで、天皇の誕生日をすっかり忘れていた、男がそこにいた。
というか、俺だった。
閑話休題。
「明日の話な。どこに集合する。金時計か」
「それがいいと思ったのですが、……その、明日って多分混むと思うんです」
「ああ……」
畜生。ミーハーどもが。
「ですので、上の本屋にしようかと」
「……別に構わんが、なぜ本屋?」
「萌菜さんがそのほうがいいからって」
ふーん。……あの人のことだ。何か意味があるのだろうが。……なんで本屋? まあいいか。少し早めに行って、本を見るのもいいかもしれない。さすがに、浮かれた連中が本屋で騒いでいるようなことはないだろう。
そういうわけで、明日は名古屋駅の書店に集合することになった。




